「夢の中くらい、自由でいいじゃん」
『……刹那!』
いつもの庭園に降り立った私は、ベンチに座る少年を見つけて駆け寄った。
「……うるせぇ。朝っぱらから騒ぐな」
『夢なんだから朝かどうか分かんないでしょ』
「揚げ足取んな、馬鹿」
相変わらず口が悪い。
けれど、今日は少しだけ様子が違った。
いつもなら分厚い本を読んでいるのに、今日は何も持っていない。背もたれに深く身体を預け、ぼんやりと空を眺めていた。
『……どうしたの?』
「何が」
『元気ない?』
「別に」
即答だった。
私は隣に腰を下ろした。
『じゃあ、今日は何して遊ぶ?』
「……何でもいい」
『えー、刹那が決めてよ』
「お前が決めろっつってんだろ」
『……そっか』
いつもなら、ここで言い合いになる。
けれど今日は、何となくそんな気分になれなかった。
私は足をぶらぶらさせながら、彼と同じように空を見上げた。
しばらくして、刹那がぽつりと呟いた。
「……お前ってさ」
『ん?』
「将来、何になりてぇの?」
突然の質問だった。
『将来?』
「ああ」
『うーん……まだ分かんない』
「……だろうな」
『ちょっと!』
彼は小さく鼻で笑った。
『でも、いろんなことしてみたいな。お花屋さんとか、ケーキ屋さんとか』
「統一感なさすぎだろ」
『いいじゃん。まだ十二歳だもん』
そう言うと、刹那は黙った。
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
『……刹那は?』
「……何が」
『将来、何になりたいの?』
彼はすぐには答えなかった。
噴水の向こうにある洋館を眺めながら、しばらく考え込む。
「……決まってる」
『え?』
「俺は、親父の跡継ぐから」
『……あとつぎ?』
「会社。親父が社長やってんだよ」
『へぇ! すごい!』
「……何がすげぇんだよ」
『だって、社長さんになるんでしょ?』
「……まあな」
彼は興味なさそうに答えた。
『じゃあ、刹那も社長になりたいんだ?』
「…………」
返事がなかった。
私は首を傾げる。
『……刹那?』
「……なりたいとか、そういう話じゃねぇんだよ」
彼は小さく息を吐いた。
「物心ついたときから決まってんの。俺が継ぐって」
『……そうなの?』
「ああ。勉強も、習い事も、全部そのため。テストで満点取っても当たり前。できなきゃ怒られる」
淡々とした口調だった。
けれど、その声にはどこか疲れたような響きがあった。
「学校終わっても家庭教師。休みの日も予定びっしり。遊びに行く暇なんかねぇよ」
『……大変だね』
「……別に。慣れてる」
そう言って、刹那は足元の小石を蹴った。
「……この前さ」
『うん』
「ちょっとだけ、友達と遊びに行きたいって言ったんだよ」
『……うん』
「そしたら、そんな暇があるなら勉強しろって」
彼は自嘲するように笑った。
「くだらねぇだろ。たかが遊びに行くくらいで」
私は何も言えなかった。
刹那はいつも何でも知っていて、何でもできて。
私よりずっと大人っぽくて。
だから、悩みなんてないんだと思っていた。
「……まあ、別にいいけどな」
彼はそう言って、空を見上げた。
「どうせ俺が何言ったって、変わんねぇし」
『……刹那』
「何だよ」
『……本当は、遊びたかったんだね』
彼がこちらを向いた。
「……は?」
『お友達と』
「……だから、別に」
『そっかぁ』
私は少し考えてから、立ち上がった。
『じゃあ、ここで遊ぼうよ!』
「……は?」
『ここなら、誰にも怒られないでしょ?』
刹那は目を瞬かせた。
『勉強しなくてもいいし、好きなことしていいし!』
「……お前な」
『それに、私もいるよ!』
そう言って笑うと、彼は呆れたように眉を寄せた。
「……お前と遊ぶくらいなら、勉強してた方がマシだわ」
『ひどい!』
「うるせぇな」
けれど、彼は少しだけ笑っていた。
⸻
『ねえ、刹那』
「今度は何だよ」
『刹那って、何が好きなの?』
「……は?」
『勉強以外で!』
「……何だよ、急に」
『だって、刹那のこと全然知らないもん』
彼は少し考えたあと、面倒くさそうに答えた。
「……ピアノ」
『えっ! 弾けるの!?』
「習わされてるだけ」
『すごい! 今度聴いてみたい!』
「嫌だね」
『えー!』
「……あと、チェス」
『チェス?』
「知らねぇの?」
『名前は知ってる!』
「……絶対ルール知らねぇだろ」
『……うん』
「だと思った」
彼は呆れたように笑った。
『じゃあ、今度教えてよ!』
「……面倒くせぇ」
『お願い!』
「……考えとく」
それは、刹那にしては珍しく前向きな返事だった。
『じゃあ、私の好きなものも教えてあげる!』
「聞いてねぇけど」
『お花と、お菓子と、動物!』
「……ガキかよ」
『刹那も子どもでしょ!』
「お前と一緒にすんな」
私は頬を膨らませた。
すると、刹那がふと真面目な顔になった。
「……お前さ」
『ん?』
「毎日、楽しい?」
思いがけない質問だった。
『……うん。楽しいよ』
「……そっか」
『もちろん、嫌なこともあるけどね』
「例えば?」
『宿題とか、テストとか。あと、お母さんに怒られること!』
「……くだらねぇ」
『くだらなくないもん!』
彼は小さく笑った。
私は少し迷ってから、続けた。
『でもね、たまに嫌になることもあるよ』
「……何が」
『友達と喧嘩したり、頑張ったのにうまくいかなかったり。そういうときは、何にもしたくなくなる』
「……ふーん」
『でも、そういう日は好きなお菓子食べたり、いっぱい寝たりするの』
「……単純な奴」
『いいじゃん!』
私は笑ってから、彼を見た。
『だから、刹那も疲れたら休んでいいと思うよ』
「…………」
『ここでは、社長さんにならなくてもいいんだし』
彼は何も言わなかった。
ただ、私をじっと見つめていた。
やがて、ふいっと顔を背ける。
「……お前、ほんっと馬鹿だな」
『また馬鹿って言った!』
「……でも」
小さな声だった。
『……ん?』
「……まあ、悪くねぇかもな」
『え?』
「……何でもねぇよ!」
そう言って、彼は立ち上がった。
「ほら、行くぞ」
『どこに?』
「遊ぶんだろ。お前が言ったんじゃねぇか」
私は思わず笑った。
『うん!』
⸻
その日、私たちは庭園でかくれんぼをした。
刹那は最初こそ文句ばかり言っていたけれど、意外と本気だった。
私が何度隠れても、すぐに見つけてしまう。
『ずるい!』
「は? 頭使えよ、馬鹿」
『じゃあ、今度は刹那が隠れて!』
「……チッ。面倒くせぇな」
そう言いながらも、彼はちゃんと隠れてくれた。
いつもより少しだけ、子どもらしい顔をしていた。
やがて、景色が白く霞み始める。
『……あ、そろそろだ』
刹那が振り返った。
「……またかよ」
『うん。またね、刹那!』
彼は少し黙ってから、私の袖を掴んだ。
「……おい」
『なに?』
「……まだ、行くなよ」
いつもの言葉。
でも今日は、そのあとに小さな声が続いた。
「……もうちょっと、遊んでけよ」
私は笑った。
『また一緒に遊ぼうね!』
「……絶対だぞ」
彼はそう言って、私の袖を最後まで離さなかった。
⸻
目を覚ました私は、布団の中で小さく笑った。
『……刹那、楽しそうだったな』
いつも偉そうで、口が悪くて。
でも、今日は少しだけ違う刹那を知れた気がした。
私は枕を抱きしめる。
『……また、遊ぼうね』
一方、夢の中で彼が見せたあの笑顔を、私はいつまでも忘れられなかった。




