「泣くなよ、馬鹿」
その日の庭園は、いつもより少し静かだった。
『……あれ?』
目を開けた私は、空を見上げた。
いつもなら眩しいほど青い空が、今日は薄い灰色に覆われている。
風も少し冷たい。
『夢なのに、曇りの日もあるんだ……』
そんなことを考えながら、いつものベンチへ向かう。
すると、そこにはすでに刹那が座っていた。
「……遅ぇ」
『え?』
「何でもねぇよ」
彼は不機嫌そうに本を閉じた。
『もしかして、待っててくれた?』
「は? 誰がお前なんか待つかよ」
『ふーん?』
「……その顔やめろ。ムカつく」
私はくすくす笑いながら、彼の隣に腰を下ろした。
『ねえ、今日って何しようか』
「知らねぇ。お前が勝手に決めろよ」
『じゃあ、探検!』
「……またかよ」
文句を言いながらも、刹那は立ち上がった。
⸻
庭園の奥には、まだ行ったことのない場所がたくさんあった。
私たちは洋館の裏手を通り、小さな森のような場所へ足を踏み入れた。
木々の間には細い小道が続いている。
『ねえ、刹那! あそこ!』
少し先に、小さな池が見えた。
水面には白い花が浮かび、その向こうには古い木製の橋が架かっている。
『綺麗! 行ってみようよ!』
「おい、待てって。橋、腐ってんじゃねぇの?」
『大丈夫だよ!』
「何を根拠に……おい!」
私は刹那の制止も聞かず、橋へ駆け寄った。
木の板を一歩、二歩と踏みしめる。
少し軋む音がしたけれど、思ったより丈夫そうだった。
『ほら! 大丈夫だって!』
振り返って笑った、その瞬間。
――ミシッ。
足元で、嫌な音がした。
『……え?』
次の瞬間、板が割れた。
身体がぐらりと傾く。
『きゃあっ!』
「さくらっ!!」
水しぶきが上がった。
冷たい水が一気に身体を包み込む。
『っ……!』
足が底につかない。
水面へ顔を出そうとしても、濡れた服が重くて思うように動けなかった。
怖い。
息が、できない。
『……っ、たすけ……!』
必死に手を伸ばした、そのとき。
大きな水音が響いた。
誰かの腕が、私の身体を強く引き寄せる。
「っ……馬鹿野郎!!」
聞き慣れた声。
刹那だった。
「暴れんな! 俺に掴まってろ!」
彼は片腕で私を支えながら、必死に岸へ向かった。
何とか池の縁までたどり着くと、先に私を押し上げる。
続いて自分も這い上がり、濡れた前髪を乱暴にかき上げた。
「……っ、はぁ……くそっ……」
私は地面に座り込んだまま、震えていた。
喉が痛い。
身体が冷たい。
何より、怖かった。
「おい、さくら!」
刹那が私の肩を掴む。
「大丈夫か!? 息できるか!?」
『……う、うん……』
「どっか痛ぇとこは!?」
『……ない……』
「……っ、そうかよ」
彼は大きく息を吐いた。
けれど、次の瞬間。
「お前、マジでふざけんなよ!!」
怒鳴り声が響いた。
私はびくりと肩を震わせる。
「危ねぇっつっただろうが! 何で人の話聞かねぇんだよ!」
『……ごめ……』
「もし俺が間に合わなかったらどうすんだよ!」
『……ごめんなさい……』
声が震えた。
怖かったことも、怒鳴られたことも。
全部が一度に押し寄せてきて、涙がぽろぽろと零れた。
『……っ、うぅ……』
「……は?」
刹那が固まった。
「おい……何泣いてんだよ」
『だって……っ、怖かった……』
「……」
『……ごめん、なさい……』
彼は何か言いかけて、口を閉じた。
それから、ひどく困ったように頭をかいた。
「……あー、くそ」
小さく呟くと、私の隣にしゃがみ込む。
「……もう怒ってねぇよ」
『……ほんと……?』
「……ああ。だから泣くなって」
そう言って、彼は濡れた袖で私の頬を拭おうとした。
けれど、袖もびしょ濡れだったことに気づき、舌打ちする。
「……チッ。使えねぇ」
私は思わず、少しだけ笑ってしまった。
「……何笑ってんだよ」
『……刹那も、びしょびしょ……』
「誰のせいだと思ってんだ、馬鹿」
いつもの憎まれ口。
でも、その声はさっきよりずっと優しかった。
⸻
しばらくして、私たちは池から離れた木の下に座った。
刹那は自分の上着を脱ぎ、私の肩にかけてくれた。
『……刹那も寒いでしょ?』
「別に」
『でも……』
「うるせぇ。いいから着てろ」
そう言って、彼はそっぽを向いた。
私は上着の端をぎゅっと握る。
『……ありがとう』
「……何回も言うな。うぜぇ」
少しの沈黙。
やがて、刹那がぽつりと呟いた。
「……お前さ」
『ん?』
「……次から、ちゃんと俺の言うこと聞けよ」
『……うん』
「勝手に走ってくな」
『……うん』
「……あと」
彼は言い淀んだ。
「……あんま、心配させんな」
思わず顔を上げる。
刹那は私と目が合うと、慌てたように顔を背けた。
「……何見てんだよ!」
『……ふふっ』
「笑うな!」
『刹那って、やっぱり優しいね』
「……うっせぇ、馬鹿」
⸻
やがて、いつものように景色が白く霞み始めた。
『……あ』
刹那がすぐに顔を上げる。
「……またかよ」
『うん。そろそろ起きるみたい』
私は肩にかかった上着を返そうとした。
けれど、彼は受け取らなかった。
「……そのままでいい」
『でも……』
「どうせ夢だろ。気にすんな」
私は小さく頷いた。
『……またね、刹那』
彼は何も答えなかった。
ただ、私の手を掴んだ。
いつもより、少し強く。
「……おい」
『……なに?』
「……行くなよ」
その声は、いつもの偉そうな刹那とは違っていた。
「……まだ、ここにいろよ」
『……刹那』
「……っ、くそ」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「……次は、絶対勝手にどっか行くなよ」
『……うん。約束』
私が笑うと、刹那は少しだけ目を細めた。
そして、消えかけた私の手を最後まで離さなかった。
⸻
目を覚ますと、私は布団の中にいた。
服は濡れていない。
身体も冷たくない。
もちろん、刹那の上着もなかった。
『……夢、だったんだ』
そう呟いて、胸に手を当てる。
まだ少し、心臓がどきどきしていた。
池に落ちたときの怖さよりも。
必死な顔で私を助けてくれた刹那のことが、頭から離れなかった。
『……ありがとう、刹那』
誰もいない部屋で、小さく呟いた。




