「お前のためじゃねぇし」
その夜も、私はあの庭園にいた。
白い石畳に、色とりどりの花。中央の噴水からは、相変わらず涼しげな水音が聞こえてくる。
三度目ともなれば、さすがに驚かなくなっていた。
『……刹那、いるかな』
辺りを見回す。
いつものベンチには、誰もいなかった。
『あれ?』
昨日も一昨日も、彼はあそこに座って本を読んでいたのに。
私は噴水の周りを歩き、洋館の方へ目を向けた。
大きな窓がいくつも並んでいる。けれど、どの窓にも人影はなかった。
『……今日は、いないのかな』
別に、寂しいわけじゃない。
あんな口の悪い男の子、いない方が静かでいいに決まっている。
そう思いながらも、私は何度もベンチを振り返っていた。
「……おい」
突然、背後から声がした。
『わっ!』
驚いて振り向くと、そこには刹那が立っていた。
「……何びびってんだよ」
『急に声かけないでよ!』
「普通に呼んだだけだろ。大げさなんだよ」
相変わらずの言い草だった。
けれど、私は思わず笑ってしまった。
『刹那! 今日もいたんだ!』
「……は?」
『いないのかと思った』
そう言うと、彼は一瞬だけ黙った。
「……別に。ちょっと向こう行ってただけだし」
『ふーん』
「何だよ」
『なんでもなーい』
彼は不審そうに私を見たあと、小さく舌打ちした。
「……変な奴」
⸻
その日は、いつもと少し違う場所へ行くことになった。
庭園の奥に、細い石段を見つけたのだ。
『ねえ、あっち行ってみようよ!』
「は? 何があんのかも分かんねぇのに?」
『だから見に行くんじゃん!』
「……お前、ほんっと何も考えてねぇな」
文句を言いながらも、刹那はついてきた。
石段は思ったより長く、ところどころ苔が生えていた。
私は先に進もうとして、足を滑らせた。
『きゃっ!』
「っ、おい!」
腕を強く引かれた。
気づけば、私は刹那の胸元に倒れ込んでいた。
「……っぶねぇな!」
彼は私を支えたまま、ひどく険しい顔をしていた。
「だから考えなしに動くなっつってんだろ! 転んだらどうすんだよ!」
『ご、ごめん……』
「ったく……」
怒られて、思わず俯く。
すると、刹那は小さく息を吐いた。
「……足」
『え?』
「痛めてねぇかって聞いてんだよ」
『……ううん。大丈夫』
「ならいい」
そう言って、彼はようやく腕を離した。
私は自分の手首を見つめた。
さっき掴まれたところが、少し温かい。
『……ありがと』
「……は?」
『助けてくれて』
刹那は一瞬、妙な顔をした。
それから、ふいっと横を向く。
「……別に。目の前で転ばれたら邪魔だろ」
『ふふっ』
「何笑ってんだよ」
『刹那って、優しいね』
「はぁ!?」
彼は心底嫌そうに顔をしかめた。
「どこがだよ。頭打ったんじゃねぇの?」
『だって、助けてくれたもん』
「……うっせぇ」
そう吐き捨てると、彼は私に背を向けて歩き出した。
ただ、その歩幅はさっきよりずっと小さくなっていた。
⸻
石段を上りきると、小さな東屋があった。
木製の屋根の下には古いベンチがあり、そこから庭園全体を見渡すことができた。
『わぁ……!』
思わず声が漏れる。
遠くに見える洋館も、噴水も、花壇も。
全部が小さく見えた。
『すごい! 綺麗!』
「……まあ、悪くねぇな」
隣で刹那が呟いた。
私はベンチに腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。
『ねえ、刹那』
「何」
『明日も会えるかな?』
「……知るかよ」
『そっか』
少し残念に思っていると、彼がこちらをちらりと見た。
「……お前さ」
『ん?』
「毎回、何でそんな楽しそうなわけ?」
『え?』
「ただの夢だろ、これ」
私は少し考えた。
確かに、夢だ。
目が覚めれば消えてしまうし、現実には何も残らない。
それでも。
『……刹那がいるから、かな』
「…………は?」
『一人だったら、こんなに楽しくないもん』
刹那は黙った。
そして、なぜかひどく不機嫌そうな顔をした。
「……馬鹿じゃねぇの」
『また馬鹿って言った!』
「事実だろ」
そう言いながら、彼は顔を背けた。
耳の先が、ほんのり赤かった。
⸻
やがて、景色が白く霞み始めた。
『……あ、そろそろだ』
立ち上がろうとすると、刹那がこちらを見た。
「……もうかよ」
『うん。またね、刹那!』
私は笑って手を振った。
けれど、彼は笑わなかった。
「……おい」
『なに?』
「……行くなよ」
昨日よりも、小さな声だった。
『……え?』
「……だから、もうちょっといろって」
そう言って、刹那は私の袖を掴んだ。
ほんの少しだけ。
まるで、引き止めていることを知られたくないみたいに。
『……また会えるよ』
私がそう言うと、彼は眉をひそめた。
「……んな保証、どこにあんだよ」
答える前に、彼の指が私の袖からすり抜けていった。
最後に見えたのは、悔しそうに唇を噛む刹那の顔だった。
⸻
目を覚ました私は、しばらく布団の中で考えていた。
『……刹那って、変なの』
いつもあんなに偉そうなのに。
夢が終わるときだけ、少し寂しそうになる。
私は袖口を指でつまんだ。
そこには何も残っていなかった。
それでも、彼に掴まれた感覚だけは、なぜかはっきりと覚えていた。
『……また、会えるといいな』
そう呟いて、私は朝の光が差し込む窓を見つめた。




