「また、お前かよ。」
『……あれ?』
目を開けた瞬間、私は首を傾げた。
目の前には、見覚えのある白い石畳。
花々に囲まれた噴水と、その奥にそびえる大きな洋館。
昨日、夢で見た場所だった。
『……またこの夢?』
思わず頬をつねろうとして、手を止める。
昨日はそれで変な男の子に馬鹿にされたんだった。
そう思い出した途端、背後から声がした。
「……おい」
嫌な予感がする。
ゆっくり振り返ると、案の定、昨日の男の子がいた。
白いシャツに黒いズボン。片手には、相変わらず分厚い本を持っている。
「またお前かよ」
『うわ、出た』
「……あ?」
『いや、なんでもない』
男の子は不機嫌そうに眉を寄せた。
「人の顔見て『うわ』って何だよ。喧嘩売ってんのか?」
『だって、また会うと思わなかったんだもん』
「こっちの台詞だっつーの」
そう吐き捨てると、彼はいつものベンチへ向かった。
私はその後ろをついていく。
「……何でついてくんだよ」
『別にいいじゃん。どうせ夢なんだし』
「……チッ。好きにしろ」
許可が出たので、遠慮なく隣に座った。
彼は露骨に嫌そうな顔をしたけれど、追い払おうとはしなかった。
しばらく、噴水の音だけが響いた。
私は暇を持て余し、隣で本を読む彼を眺める。
さらさらした黒髪。
長いまつ毛。
すっと通った鼻筋。
……黙っていれば、結構かっこいいのに。
『ねえ』
「……何」
『名前、なんていうの?』
彼は本から目を離さなかった。
「何で教えなきゃなんねぇんだよ」
『だって、毎回「あんた」って呼ぶのも変じゃない?』
「別に」
『じゃあ、私が勝手につけちゃおうかな』
「は?」
『うーん……毒舌くん、とか?』
彼がゆっくり顔を上げた。
「……ぶっ飛ばすぞ」
『じゃあ教えてよ!』
「……はぁ」
大きなため息。
彼は本を閉じると、面倒くさそうに口を開いた。
「神城」
『かみしろ?』
「神城刹那」
『せつな……』
綺麗な名前だと思った。
少し冷たくて、どこか儚い響き。
目の前の生意気な男の子には、もったいないくらい。
『いい名前だね!』
「……は?」
彼は意外そうに目を瞬かせた。
『刹那って、かっこいい』
「……別に、普通だろ」
そう言いながら、彼はふいっと顔を背けた。
耳が少し赤く見えたのは、気のせいだろうか。
「……で、お前は」
『え?』
「名前だよ。人に聞いといて自分は言わねぇのか?」
『あ、そっか! 雨宮さくら!』
「……さくら」
彼は確かめるように、小さく繰り返した。
『うん! よろしくね、刹那!』
「……いきなり呼び捨てかよ」
『だめ?』
「……勝手にしろ」
そう言って、再び本を開く。
私は満足して、ベンチの背もたれに身体を預けた。
⸻
『ねえ、刹那』
「何だよ」
『ここって、いつも晴れてるのかな?』
「知らねぇ」
『雨とか降らないのかな』
「降るんじゃねぇの」
『雪は?』
「知るか」
『じゃあ、夜になったらどうなるんだろう?』
「……お前さ」
彼が本を閉じた。
「ちょっとは自分で考えろよ。質問ばっかしやがって」
『だって気になるんだもん』
「……ったく」
彼は呆れたように立ち上がった。
そして、噴水の向こうにある小道へ歩き始める。
『あれ? どこ行くの?』
「お前がうるせぇから散歩」
『えっ、私も行く!』
「ついてくんな!」
そう言いながらも、彼の歩く速さは私に合わせたようにゆっくりだった。
私は小走りで隣に並ぶ。
『ねえ、刹那!』
「今度は何だよ!」
『明日もここにいる?』
彼は一瞬だけ私を見た。
「……知らねぇよ。夢なんだから」
『そっかぁ』
「……」
『また会えたらいいね!』
何気なく言うと、彼は少しだけ黙った。
そして、前を向いたまま答えた。
「……お前みたいなうるせぇ奴、もう十分だっつーの」
『ひどっ!』
彼は鼻で笑った。
でも、その口元がほんの少し緩んでいたことに、私は気づかなかった。
それからしばらく、二人で庭園を歩いた。
他愛もない話をして、時々言い合いになって。
気づけば、さっきまで眩しかった景色が少しずつ白く霞み始めていた。
『……あ』
足元がふわりと軽くなる。
昨日と同じ感覚だった。
『刹那、私、そろそろ起きるみたい』
「……は?」
刹那が振り返る。
「おい、ちょっと待てよ」
『またね!』
笑って手を振ると、彼はなぜか不機嫌そうに顔をしかめた。
「……勝手に来て、勝手に帰んのかよ」
『だって、夢だもん』
「……チッ」
彼は舌打ちすると、こちらへ歩み寄ってきた。
そして、消えかけた私の手首を掴もうとする。
「……おい」
さっきまでの偉そうな声とは、少し違った。
「まだ、行くなよ」
『……刹那?』
「……っ、だから!」
彼は何か言いかけて、唇を噛んだ。
「……もうちょっと、いろよ」
その言葉を最後に、景色が真っ白になった。
⸻
目を開けると、いつもの天井があった。
『……また、あの夢』
私は布団の中で、ぼんやりと自分の手を見つめた。
掴まれそうになった手首に、まだ温もりが残っている気がする。
『……変な刹那』
あんなに私を邪魔者扱いしていたくせに。
最後だけ、あんなことを言うなんて。
私は小さく笑って、もう一度布団をかぶった。
明日も、会えるかな。
――このときの私は、まだ知らなかった。
彼が夢の終わりに「行くな」と言うことが、いつしか二人の当たり前になっていくことを。




