「名前も知らない、嫌な奴」
『……あんた、初対面の人に馬鹿って言うの?』
思わずそう聞き返すと、男の子は心底面倒くさそうに眉を寄せた。
「事実を言っただけだろ」
『事実じゃないし!』
「じゃあ、何で自分の頬を何回もつねってたわけ?」
『それは……』
言いかけて、口をつぐむ。
夢かどうか確かめるため。
そう説明したところで、きっとまた馬鹿にされるに決まっている。
男の子は私の反応を見て、ふん、と鼻で笑った。
「ほら。言えねぇんじゃん」
『……性格悪っ』
「あ?」
『なんでもない!』
絶対に聞こえていたと思う。
けれど、彼はそれ以上追及せず、膝の上の本へ視線を戻した。
どうやら、もう私に興味はないらしい。
……なんなの、この人。
私は小さくため息をつき、改めて周囲を見回した。
綺麗な庭だった。
背の高い木々に囲まれた中庭には、白い花が咲き乱れている。中央には丸い噴水があり、水面が陽射しを受けてきらきらと輝いていた。
その奥には、大きな洋館が見える。
まるで外国のお城みたい。
『……すごい』
思わず呟く。
すると、ページをめくる音が止まった。
「何が」
『このお庭。すっごく綺麗』
「……ふーん」
興味のなさそうな返事。
私は噴水へ近づき、水面を覗き込んだ。
澄んだ水の底には、小さな青いタイルが敷き詰められている。
指先で水に触れると、ひんやりとした感触がした。
夢なのに。
風も、水も、花の香りも。
全部、本物みたいだった。
『ねえ、ここってどこなの?』
返事はない。
『ねえってば』
「うるせぇな。少しは静かにできねぇの?」
男の子は本から顔を上げ、露骨に嫌そうな顔をした。
『だって、知らない場所なんだもん』
「俺だって知らねぇよ」
『……え?』
意外な返事だった。
『あんたのお家じゃないの?』
「違う」
『じゃあ、なんでここにいるの?』
「知るか。気づいたらいたんだよ」
『私と一緒だ……』
思わず呟くと、彼の目がわずかに細くなった。
「……お前も?」
『うん。さっきまで自分の部屋で寝てたの』
「……」
男の子は黙った。
何かを考えるように視線を落とし、しばらくしてから本を閉じる。
「おい。お前、今何歳?」
『十二歳だけど』
「……同い年かよ」
『そういうあんたは?』
「十二」
『えっ! 同い年なの!?』
「何だよ、その反応」
『だって、もっと年上かと思った』
「……は?」
『なんか、偉そうだから』
彼の眉間に深いしわが寄った。
「お前、喧嘩売ってんの?」
『先に馬鹿って言ったの、そっちでしょ!』
「……チッ」
舌打ちされた。
十二歳で舌打ちなんて、初めて見た。
私は呆れながらも、彼の隣にあるベンチへ腰を下ろした。
「……おい」
『なに?』
「何で座ってんだよ」
『疲れたから』
「他にもベンチあんだろ」
『ここがいいの』
「……勝手にしろ」
そう言って、彼は再び本を開いた。
追い払われるかと思ったのに、意外だった。
しばらくの間、私たちの間には沈黙が流れた。
噴水の水音。
葉っぱが擦れる音。
時折、彼がページをめくる音。
不思議と、居心地は悪くなかった。
私は横目で彼の本を覗き込んだ。
細かな文字と、見たこともない数式が並んでいる。
『……それ、何の本?』
「数学」
『数学?』
「見りゃ分かんだろ」
『分かんないから聞いてるの!』
彼は呆れたようにため息をついた。
「……大学の数学」
『大学!?』
思わず声が大きくなる。
「うるせぇ!」
『だって、私たちまだ小学生だよ!?』
「だから?」
『難しくないの?』
「別に」
当たり前のように答える彼を、私はまじまじと見つめた。
……もしかして、この人。
ものすごく頭がいいのかもしれない。
『……天才?』
「は?」
『あんた、天才なの?』
彼は一瞬きょとんとして、それから馬鹿にしたように笑った。
「お前の基準が低すぎんだろ」
『むっ……』
やっぱり嫌な奴。
そう思った、そのとき。
突然、強い風が吹いた。
『わっ!』
思わず目を閉じる。
次の瞬間、身体がふわりと軽くなった。
足元の感覚が消えていく。
景色がぼやけ、噴水の音が遠ざかる。
『……え?』
何、これ。
怖くなって、思わず隣を見る。
男の子も本を閉じ、こちらを見ていた。
その顔からは、さっきまでの余裕が消えていた。
「……おい」
彼が立ち上がる。
「ちょっと待て。お前、何で……」
『分かんない……!』
差し伸べられた手。
私は反射的に、その手を掴もうとした。
けれど。
指先が触れる直前、彼の姿が遠ざかっていく。
「おいっ!」
最後に聞こえたのは、焦ったような彼の声だった。
「……行くなって!」
⸻ ⸻ ⸻
『……っ!』
勢いよく目を開ける。
見慣れた天井。
いつもの布団。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
私はしばらく呆然として、それからゆっくり起き上がった。
『……夢?』
頬に触れてみる。
つねったところが痛むような気がした。
でも、鏡を見ても赤くはなっていない。
『……変なの』
あんなに本物みたいだったのに。
噴水も、洋館も。
それから、あの口の悪い男の子も。
全部、夢だった。
私は枕元の時計を見て、慌てて布団から飛び出した。
学校に遅れちゃう!
制服に着替えながら、ふと考える。
そういえば。
『……名前、聞いてなかったな』
まあ、いいか。
どうせ夢だし。
もう二度と会うこともないだろう。
そう思っていた。
――その夜、再び同じ庭園で目を覚ますまでは。




