「同じ名前の、違う人」
月曜日、午前九時。
「神城専務、こちらが本日の資料です」
「ありがとうございます。確認しておきます」
刹那は書類を受け取り、いつもどおり席に着いた。
机の上には、決裁を待つ案件がいくつも並んでいる。
午前十時から役員会議。
午後一時から取引先との打ち合わせ。
午後四時には海外支社とのオンライン会議。
何ひとつ、普段と変わらない一日だった。
ただひとつ。
「…………」
机の端に置いたスマートフォンが、気になって仕方がなかった。
昨夜、彼女から届いたメッセージ。
――昨日はありがとうございました! またご飯行きましょうね!
その送り主の名前は、雨宮さくら。
十年間、忘れようとしても忘れられなかった名前だった。
「……専務?」
秘書に呼ばれ、刹那は顔を上げた。
「何でしょう」
「こちらの書類ですが、先ほどから同じページをご覧になっているようで」
「…………」
刹那は手元に目を落とした。
確かに、もう十分近く同じページを開いている。
「……失礼。少し考え事を」
「珍しいですね」
「……そうですか」
「はい。専務が会議前に集中を欠かれることなど、ほとんどありませんので」
刹那は静かに書類を閉じた。
「……問題ありません」
いつもどおりの声だった。
けれど、秘書が部屋を出たあと。
彼は小さく息を吐いた。
「……雨宮、さくら」
誰もいない執務室で、その名前を呟く。
そして、苦笑した。
「……参ったな」
⸻
同じ頃。
私は、職場の休憩室でコーヒーを飲んでいた。
『……はぁ』
「何、そのため息」
隣に座った同僚が、こちらを覗き込む。
『……え?』
「昨日、デートだったんでしょ?」
『……っ!』
危うくコーヒーを吹き出すところだった。
『な、何で知ってるの!?』
「言ってたじゃん。日曜日に出かけるって」
『……あ、そうだった』
「で? どうだった?」
『……楽しかったよ』
「それだけ?」
『……うん』
「絶対それだけじゃない顔してる」
私はカップを両手で包んだ。
『……ちょっと、びっくりすることがあって』
「何?」
『……名前がね』
「名前?」
『……昔、好きだった人と同じだったの』
同僚は目を丸くした。
「えっ、すごい偶然!」
『……そうだよね』
「でも、別人なんでしょ?」
『…………』
私は少しだけ黙った。
「……さくら?」
『……うん。別人だと思う』
「思う?」
『……昔の人とは、もう何年も会ってないから』
そう答えると、同僚は少し考えてから笑った。
「でもさ、名前が同じだからって、今の人を昔の人と重ねすぎない方がいいよ」
『……うん』
「今のその人のこと、ちゃんと見てあげなよ」
私は、ゆっくり頷いた。
『……そうだね』
⸻
その夜。
私はベッドに座り、スマートフォンを眺めていた。
神城刹那。
連絡先に登録された、その名前。
画面を開いては閉じる。
何度も繰り返した。
『……聞いてみようかな』
例えば。
子どもの頃、変な夢を見たことはありませんか。
大きな庭園で、誰かと会う夢。
そんなことを聞いたら、どう思われるだろう。
きっと、困る。
もしかしたら、怖がられるかもしれない。
せっかく仲良くなれたのに。
『……やっぱり、やめよう』
私はスマートフォンを伏せた。
でも。
少しして、また手に取った。
『……あー、もう!』
一人で頭を抱える。
どうして、こんなに気になるんだろう。
同じ名前の人なんて、世の中にいくらでもいる。
それなのに。
彼が笑うと、嬉しくなる。
彼が少し意地悪なことを言うと、懐かしくなる。
そして、彼が帰っていくと。
もう少し、一緒にいたかったと思う。
『…………』
私は膝を抱えた。
もし、違う人だったとしても。
私は、あの人のことをもっと知りたい。
その気持ちは、もう誤魔化せなかった。
⸻
水曜日。
刹那は、仕事を終えて帰宅すると、書斎の鍵を開けた。
机の引き出し。
奥にしまってある、古い封筒。
十年前、少女を探すために集めた資料だった。
名前。
年齢。
当時、聞いたことのある学校生活の話。
彼女が何気なく口にした、好きな食べ物や苦手な科目。
思い出せる限りの情報を書き留めた紙。
その一番上には、大きく名前が記されていた。
――雨宮さくら。
「…………」
刹那は椅子に腰を下ろした。
今なら、調べられる。
彼女の勤め先も、出身地も。
自分の持つ人脈を使えば、十年前よりずっと簡単に情報を集められるだろう。
けれど。
「……違うな」
彼は封筒を閉じた。
以前、そうして探し続けた結果、何も見つからなかった。
それだけではない。
今、目の前にいる女性は、自分の意思で名前を教えてくれた。
笑いかけてくれた。
また会いたいと言ってくれた。
その信頼を、勝手な調査で裏切りたくはなかった。
「…………」
刹那はスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
彼女との会話。
最後のメッセージは、日曜日の夜のものだった。
しばらく考えてから、文字を打つ。
――こんばんは。今週末、お時間はありますか。
送信。
数分後。
画面が明るくなった。
――こんばんは! 土曜日なら空いてます!
続けて、もう一通。
――またデートですか?笑
「…………」
刹那は、その文字を見つめた。
そして。
「……はは」
思わず、笑ってしまった。
十年前。
夢の中で、少女にからかわれるたびに腹を立てていた。
けれど今は。
こうして画面越しにからかわれることさえ、嬉しい。
彼は返信を打った。
――そのつもりですが。ご迷惑でしたか?
すぐに返事が来た。
――全然! むしろ嬉しいです!
刹那は、しばらく画面を見つめていた。
それから、静かに目を閉じた。
胸の奥が、温かかった。
⸻
土曜日。
待ち合わせ場所は、小さな美術館の前だった。
私は約束の十分前に到着した。
『……まだかな』
スマートフォンを確認する。
すると、背後から声がした。
「……雨宮さん」
振り返る。
『……あ! 神城さん!』
彼は、いつものように落ち着いた表情で立っていた。
けれど、今日は少しだけ違う。
私の顔を見ると、ほんのわずかに微笑んだのだ。
「……お待たせしました」
『いえ! 私も今来たところです!』
「……それ、前回もおっしゃっていましたね」
『……えっ』
彼は腕時計を見た。
「まだ約束の十分前ですが」
『……あ』
「……随分、早くいらっしゃるんですね」
『……神城さんだって!』
「……私は、時間に余裕を持つ主義ですので」
『……ずるい!』
彼は小さく笑った。
「……何がですか」
『……何でもないです!』
私は頬を膨らませた。
すると、彼は一瞬だけ目を細めた。
何かを懐かしむように。
⸻
美術館の中は、静かだった。
壁には風景画が並び、柔らかな照明が作品を照らしている。
私は一枚の絵の前で足を止めた。
『……わぁ』
描かれていたのは、夕暮れの庭園だった。
薔薇の花壇。
石畳。
遠くに見える噴水。
あの場所に、少し似ていた。
『……綺麗ですね』
「……ええ」
彼も隣に立つ。
私は絵を見つめながら、小さく笑った。
『……私、こういう場所が好きなんです』
「……庭園ですか」
『はい。昔から』
彼は、静かに私を見た。
「……昔から?」
『……はい』
私は少しだけ迷った。
そして、何気ないふりをして尋ねた。
『……神城さんは、どうですか?』
「……私も、嫌いではありません」
『……昔から?』
彼は一瞬、黙った。
「…………」
私は、心臓が速くなるのを感じた。
けれど。
「……そうですね。子どもの頃から」
それだけだった。
私は小さく頷いた。
『……そっか』
それ以上、聞けなかった。
⸻
美術館を出たあと、私たちは近くのカフェに入った。
窓際の席。
向かい合って座る。
彼はブラックコーヒー。
私はカフェラテを注文した。
『……神城さんって、甘いもの苦手ですか?』
「……特に苦手ではありません」
『……そうなんですね』
「……どうしてですか」
『……いつもブラックコーヒーだから』
彼は少しだけ考えた。
「……単に、習慣ですね」
『……じゃあ、これ食べます?』
私は注文したチーズケーキを指さした。
「……雨宮さんの分でしょう」
『一口くらい、いいですよ!』
「……いえ、結構です」
『……えー、美味しいのに』
彼は少しだけ眉を寄せた。
「……そんなに勧められると、断りづらいですね」
『……ふふっ』
「……何ですか」
『……神城さんって、意外と押しに弱いですよね』
「……そうでしょうか」
『はい!』
彼は小さく息を吐いた。
「……あなたにだけです」
『…………え?』
思わず顔を上げる。
彼も、自分の言葉に気づいたようだった。
「…………」
少しだけ沈黙が流れる。
私は、頬が熱くなるのを感じた。
『……そ、そうなんですか』
「……ええ」
彼は視線を逸らした。
「……不思議と、断りづらいので」
私は小さく笑った。
『……じゃあ、一口どうぞ』
彼は諦めたようにフォークを受け取った。
「……いただきます」
⸻
帰り道。
夕暮れの街を、二人で歩いていた。
『……今日も楽しかったです』
「……私もです」
『……また、行きましょうね』
「……ええ」
私は少しだけ笑った。
それから、思い切って尋ねた。
『……あの、神城さん』
「……はい」
『……私たちって、今、どういう関係なんでしょうね』
彼が足を止めた。
「…………」
私は慌てて手を振った。
『あっ、変な意味じゃなくて!』
「……いえ」
彼は静かに私を見た。
「……私も、考えていました」
『……え?』
「……雨宮さんと、こうして会う時間が」
少しだけ、言葉を探す。
「……楽しみになっています」
胸が、きゅっと鳴った。
『…………』
「……それだけは、確かです」
私は、ゆっくり笑った。
『……私もです』
彼の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
『……神城さんと会うの、すごく楽しみです』
彼は、しばらく私を見つめていた。
そして。
「……そうですか」
静かに微笑んだ。
⸻
別れ際。
私は、ふと思い出したように口を開いた。
『……あの』
「……はい」
『……神城さんって、昔からそんなに丁寧な喋り方だったんですか?』
彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「……どうしてですか」
『……いえ、何となく』
彼は、しばらく考えた。
そして、小さく笑った。
「……いいえ」
『……え?』
「……昔は、もっと口が悪かったですよ」
胸が、どくんと鳴った。
『…………』
「……今では、考えられないでしょうけど」
彼は少しだけ懐かしそうに目を細めた。
私は、何も言えなかった。
昔は、もっと口が悪かった。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『……そ、そうなんですね』
何とか笑う。
彼は静かに頷いた。
「……ええ」
⸻
その夜。
私は、古いノートを開いていた。
十年前の夢の記録。
ページをめくる。
――今日も刹那に馬鹿って言われた。
――またうるさいって言われた。
――でも、最後は優しかった。
私は、指先で文字をなぞった。
『……ねえ、刹那』
小さく呟く。
『……もし、あの人が本当に刹那だったら』
そこまで言って、言葉が止まった。
怖かった。
期待するのが。
また、失うのが。
私はノートを閉じた。
『……どうしよう』
十年前の初恋が、もう一度胸の奥で動き始めていた。
⸻
同じ夜。
刹那は、書斎で古い地図を広げていた。
庭園のベンチ。
噴水。
薔薇のアーチ。
そして、少女がいつも座っていた場所。
彼は、今日の女性の笑顔を思い出した。
よく笑う。
少し不器用で。
思ったことを、すぐ口にする。
そして、昔から庭園が好きだと言った。
「…………」
刹那は静かに目を閉じた。
もし。
もし、彼女が。
「……いや」
首を振る。
そんなはずはない。
そう思う一方で。
もう、完全には否定できなくなっていた。
「……雨宮さくら」
小さく名前を呼ぶ。
そして、十年前の約束を思い出す。
――絶対迎えに行く。
刹那は、ゆっくりと目を開けた。
「……もし、本当にお前だったら」
そこで、言葉が止まった。
彼はしばらく、何も言わずに地図を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……今度こそ、離さないのにな」
その声は、誰にも届かなかった。




