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夢の中の君に、恋をした。  作者: 桜木 モモ


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「動き出した歯車」

日曜日、正午。


駅前の時計台から歩いて十分ほど。


彼が案内してくれたのは、静かな通りに佇む小さなイタリアンレストランだった。


大きな窓から陽射しが差し込み、店内には柔らかな音楽が流れている。


『……わぁ、素敵なお店!』


「気に入っていただけましたか」


『はい! こういう雰囲気、大好きです』


「……それなら、よかった」


彼は少しだけ安心したように微笑んだ。


その表情を見て、私はふと思う。


この人、最初に会った頃より、ずっとよく笑うようになった。


もっとも、笑うといっても、ほんの少し口元が緩む程度なのだけれど。


それでも、何だか嬉しかった。


⸻


案内されたのは、窓際の二人席だった。


メニューを開く。


『……どれも美味しそう』


「お好きなものをどうぞ」


『……うーん』


パスタも美味しそうだし、リゾットも気になる。


真剣に悩んでいると、向かいから小さな声がした。


「……そんなに難しい問題ですか」


『……難しいですよ!』


「……そうですか」


『だって、どっちも食べたいんですもん』


彼は少しだけ考えた。


「……では、両方注文して分けましょうか」


『……えっ、いいんですか?』


「ええ。私もどちらも気になりますので」


『……やった!』


思わず笑顔になる。


すると、彼は一瞬だけ動きを止めた。


「…………」


『……どうしました?』


「……いえ」


彼はメニューに目を落とした。


「……何でもありません」


けれど、その口元は少しだけ笑っていた。


⸻


料理が運ばれてくるまで、私たちは他愛のない話をした。


好きな食べ物。


休日の過ごし方。


最近観た映画。


意外だったのは、彼がほとんど映画館に行かないということだった。


『……えっ、もったいない!』


「……そうでしょうか」


『そうですよ! 映画館って、あの大きなスクリーンがいいんじゃないですか』


「自宅でも映画は観られますから」


『……そういう問題じゃないんです!』


彼は少しだけ眉を上げた。


「……では、どういう問題なんですか」


『雰囲気です!』


「……雰囲気」


『はい!』


彼はしばらく私を見つめていた。


それから、小さく笑った。


「……あなたは、本当に楽しそうですね」


『……え?』


「何でも」


その言葉に、少しだけ頬が熱くなる。


『……だって、楽しいですもん』


「……そうですか」


『……はい』


彼は視線を落とした。


「……私もです」


小さな声だった。


けれど、確かに聞こえた。


⸻


食事を終えたあと、私たちは近くの川沿いを歩くことにした。


並木道には、若葉が揺れている。


日曜日の午後。


犬を散歩させる人。


ベビーカーを押す夫婦。


手を繋いで歩く恋人たち。


何でもない、穏やかな景色。


『……いいお天気ですね』


「……ええ」


『雨、降らなくてよかったです』


「……前回は大変でしたからね」


『……ふふっ、そうでしたね』


思い出して笑う。


突然の雨。


洋館での雨宿り。


彼が弾いてくれたピアノ。


あの日から、少しだけ距離が近づいた気がする。


『……あの』


「……はい」


『今日、誘ってくれてありがとうございました』


彼がこちらを見る。


『……すごく楽しいです』


少し照れくさくなって笑うと、彼は一瞬だけ黙った。


それから。


「……こちらこそ」


静かに答えた。


「……誘ってよかったです」


⸻


刹那は、隣を歩く女性を見ていた。


柔らかな陽射しの下で、楽しそうに話す横顔。


よく笑い、よく驚き、思ったことをそのまま口にする。


不思議な人だと思った。


彼女といると、時間の流れが変わる。


仕事の予定も、数字も、責任も。


ほんの少しだけ、遠くなる。


そして。


もっと一緒にいたいと思ってしまう。


「…………」


刹那は、自分の左手に目を落とした。


何もない薬指。


十年前。


夢の中で、指輪をはめようとした少女がいた。


触れられなかった手。


果たせなかった約束。


その記憶は、今も鮮明だった。


けれど。


隣を歩く女性の手は、すぐそこにある。


手を伸ばせば、触れられる距離。


そんなことを考えた自分に、刹那は小さく息を吐いた。


「……何を考えてるんだ」


『……え?』


「……いえ。独り言です」


『……またですか?』


「……また、とは」


『ふふっ。結構多いですよね、独り言』


「……そうでしょうか」


『はい!』


彼女は楽しそうに笑った。


刹那は、困ったように目を細めた。


⸻


川沿いの小さな公園に着いた頃。


私は、ふと大切なことを思い出した。


『……あっ!』


彼が足を止める。


「……どうしました」


『……名前!』


「……名前?」


『そうですよ! 今日、教え合う約束でしたよね!』


彼は一瞬、目を見開いた。


それから、少しだけ笑った。


「……そうでしたね」


『……ふふっ。すっかり忘れてました』


「……私もです」


私は彼の前に立った。


少しだけ背筋を伸ばす。


『……じゃあ、改めまして』


彼も、静かにこちらを向いた。


『……雨宮さくら、です』


⸻


風が、止まった気がした。


「…………」


刹那は、目の前の女性を見つめた。


雨宮。


さくら。


その名前を、彼は知っていた。


知りすぎるほどに。


何千回も、頭の中で繰り返した。


何年も、探し続けた。


何度も、検索欄に打ち込んだ。


そして。


何度も、諦めようとした。


「……今」


自分でも驚くほど、声が掠れた。


「……何と?」


『……え?』


彼女が首を傾げる。


『……雨宮さくら、です』


「…………」


刹那は、言葉を失った。


心臓が、激しく脈打っている。


そんなはずはない。


同姓同名など、いくらでもいる。


実際、十年前にも何人か見つけた。


けれど、誰も違った。


だから。


今回も、きっと。


「……雨宮、さくらさん」


『……はい!』


彼女は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見た瞬間。


胸の奥が、ひどく痛んだ。


懐かしい。


どうしようもなく。


けれど、目の前にいるのは二十六歳の女性だ。


あの夢の中にいた、十六歳の少女ではない。


「…………」


刹那は、ゆっくりと息を吸った。


落ち着け。


偶然だ。


名前が同じだからといって、何かが証明されたわけではない。


そもそも。


あの少女は、夢の中にしか存在しなかったのだから。


「……素敵な名前ですね」


ようやく、それだけ言った。


⸻


『……ありがとうございます!』


私は笑った。


『……あの、そちらは?』


彼は少しだけ迷ったように見えた。


「……神城です」


『……神城さん』


「……ええ」


『……下のお名前は?』


「…………」


短い沈黙。


そして。


「……刹那」


『…………え?』


「神城刹那、と申します」


⸻


世界が、静かになった。


刹那。


その名前を聞いた瞬間。


胸の奥で、何かが大きく揺れた。


『……せつ、な』


思わず、繰り返す。


彼がこちらを見る。


「……はい」


『…………』


刹那。


同じ名前。


あの男の子と。


私は、目の前の男性を見つめた。


整った顔立ち。


落ち着いた声。


丁寧な言葉遣い。


夢の中の刹那とは、まるで違う。


あの子はもっと、口が悪くて。


いつも不機嫌そうで。


私が何か言うたびに、馬鹿だのうるさいだの。


そんなことばかり言っていた。


だから。


違う。


きっと、偶然。


『……珍しいお名前ですね』


私は、何とか笑った。


彼も静かに頷いた。


「……よく言われます」


『……ふふっ。かっこいい名前です』


「……ありがとうございます」


それだけの会話。


けれど、私の心臓は、まだ落ち着かなかった。


⸻


しばらく、二人とも黙って歩いた。


川の水面が、陽射しを反射している。


私は何度も、隣の男性を見上げそうになった。


刹那。


神城刹那。


名前まで同じなんて。


そんな偶然、あるのだろうか。


でも。


あの夢は、夢だった。


何度もそう言い聞かせてきた。


私は、夢の中の男の子に恋をした。


そして、もう会えなくなった。


それだけの話。


だから。


今、隣にいる人は、別の人だ。


そう思わなければ、いけない気がした。


⸻


刹那も、同じことを考えていた。


雨宮さくら。


十年間、探し続けた名前。


その名前を持つ女性が、今、隣を歩いている。


しかも。


あの庭園で出会った。


あの庭園で、何度も顔を合わせた。


偶然にしては、出来すぎている。


「…………」


彼は、そっと女性を見た。


柔らかな髪。


よく笑う口元。


少しだけ、落ち着きのない仕草。


そして、時折見せる、寂しそうな横顔。


十六歳の少女が十年経てば、こんなふうになるのだろうか。


そんな考えが、頭をよぎった。


けれど。


刹那は、すぐに否定した。


期待するな。


十年前、何度も期待して。


何度も裏切られた。


名前が同じだけで、あの少女だと思い込むなんて。


そんなことは、もうしたくなかった。


「……雨宮さん」


初めて、名前を呼んだ。


彼女が顔を上げる。


『……はい!』


その笑顔に、胸が痛んだ。


「……いえ」


刹那は小さく首を振った。


「……何でもありません」


⸻


夕方。


駅前まで戻ってきた頃には、空が少しずつ茜色に染まっていた。


『……今日は本当にありがとうございました』


私は彼に向き直った。


「……こちらこそ」


『……すごく楽しかったです』


「……私もです」


彼は静かに微笑んだ。


私は少し迷ってから、口を開いた。


『……あの、神城さん』


「……はい」


『……また、一緒にお出かけしませんか?』


彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。


それから。


「……ぜひ」


小さく笑った。


『……よかった!』


私は嬉しくなって笑った。


彼も、少しだけ笑った。


⸻


帰宅後。


私は、ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。


『……神城、刹那』


声に出してみる。


何度も。


何度も。


あの夢の中の男の子と、同じ名前。


しかも、あの庭園で出会った。


『……そんなこと、ある?』


私は小さく笑った。


でも、その笑顔はすぐに消えた。


もし。


もし、あの人が。


『…………』


そこまで考えて、首を振った。


そんなはずない。


期待して、違ったら。


きっと、今度こそ立ち直れない。


私は引き出しを開けた。


奥にしまっていた、古いノート。


十年前の夢の記録。


最後のページを開く。


――絶対迎えに行く。だから待ってろよ、馬鹿。


『……刹那』


小さく呟く。


そして、ノートを胸に抱いた。


⸻


同じ夜。


刹那は、自宅の書斎で一枚の紙を見つめていた。


十年前に描いた、庭園の地図。


そこに書かれた、小さな文字。


――さくらがいつも座る場所。


「…………」


彼は、ゆっくりと目を閉じた。


今日、初めて知った名前。


雨宮さくら。


その響きが、頭から離れなかった。


「……まさかな」


小さく笑う。


けれど、笑いきれなかった。


十年前。


何度探しても見つからなかった少女。


その名前を持つ女性が、今、目の前に現れた。


しかも。


彼女は、あの庭園を懐かしいと言った。


「…………」


刹那は、静かに息を吐いた。


そして、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……さくら」


その名前を呼んだのは、十年ぶりだった。


⸻


二人はまだ、知らない。


今日、初めて名乗り合った相手が。


十年前、夢の中で愛した人だということを。


あの夜。


触れることのできなかった手が。


今は、すぐ隣にあるということを。


そして。


十年前に途切れた約束が、今も二人を結びつけているということを。

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