「あなたと、庭園の外へ」
金曜日、午後六時四十分。
神城刹那は、会議室で最後の資料を閉じた。
「本日の議題は以上です。各部署、修正案は月曜日までに提出してください」
「承知いたしました」
席を立つ役員たちに軽く会釈し、刹那は腕時計を確認した。
予定どおり。
今日も、何ひとつ問題はなかった。
「専務、明日のご予定ですが」
秘書がタブレットを差し出す。
「午前中はご自宅での資料確認、午後は――」
「……空いていますか」
「はい?」
「明日の午後です」
秘書は画面を確認した。
「はい。特にご予定はございません」
「そうですか」
刹那は短く頷いた。
それから、少し考える。
「……日曜日は?」
「そちらも空いておりますが」
「……分かりました」
秘書は不思議そうに首を傾げた。
いつもなら、空いた時間に別の仕事を入れる人だった。
けれど今日は、それ以上何も指示しなかった。
⸻
土曜日。
私は、いつもの庭園にいた。
『……今日はちょっと暑いなぁ』
日差しを避けて、木陰のベンチに腰を下ろす。
鞄からペットボトルを取り出し、一口飲んだ。
最近、休日になると自然にここへ足が向く。
最初は、夢の庭園に似ているからだった。
でも、今は。
『…………』
私は噴水の方を見た。
あの人、今日は来るかな。
そう思っている自分に気づき、少しだけ頬が熱くなる。
『……会えるといいな』
小さく呟いた、そのとき。
「……こんにちは」
聞き覚えのある声がした。
『……あっ!』
顔を上げると、そこには彼が立っていた。
今日は白いシャツに、薄いグレーのスラックス。
いつものスーツ姿とは少し違って、柔らかい印象だった。
『こんにちは!』
思わず笑顔になる。
『今日もお仕事ですか?』
「……いえ。今日は休みです」
『……えっ!』
「……そんなに驚くことですか」
『だって、いつもお仕事してるイメージなので!』
彼は少しだけ眉を寄せた。
「……私にも休日くらいあります」
『ふふっ、ですよね』
「……何がおかしいんですか」
『いえ、何でもないです!』
彼は小さく息を吐いた。
それから、私の隣に腰を下ろした。
⸻
しばらく、二人で庭園を眺めていた。
噴水の音。
風に揺れる木々。
遠くから聞こえる鳥の声。
いつもと変わらない午後。
けれど、今日は少しだけ違った。
彼が、何となく落ち着かないように見えたのだ。
『……あの』
「……はい」
『何かありました?』
「……何がですか」
『いえ、何だか考え事してるみたいなので』
彼は一瞬、黙った。
「……そう見えますか」
『はい』
「…………」
彼は腕時計を確認した。
それから、また庭園を見る。
私は首を傾げた。
『……お仕事のことですか?』
「……いえ」
『……じゃあ、何だろう』
「……あなたは」
『……はい?』
彼は私の方を向いた。
「……明日、お時間はありますか」
『……明日?』
「ええ」
『……ありますけど』
答えると、彼は少しだけ姿勢を正した。
まるで、大事な商談でも始めるみたいに。
「……もしよろしければ、食事でもいかがでしょうか」
『…………え?』
一瞬、意味が分からなかった。
食事。
誰と。
……この人と?
『……えっ!?』
思わず大きな声が出た。
彼の眉が、わずかに動く。
「……ご迷惑でしたか」
『ち、違います!』
慌てて首を振る。
『……びっくりして!』
「……そうですか」
『……えっと、それって』
言いかけて、止まる。
デート、ですか?
なんて、聞けるはずがない。
彼は少しだけ視線を逸らした。
「……いつも庭園でお話しするだけですから」
『……はい』
「……たまには、別の場所でもいいかと思いまして」
その言い方が、妙に真面目だった。
私は思わず笑ってしまった。
『……ふふっ』
「……何か?」
『……いえ、何だか可愛いなって』
「…………」
彼が固まった。
『……あっ』
言ってしまった。
『ご、ごめんなさい!』
彼はゆっくりと私を見る。
「……可愛い、ですか」
『……はい。ちょっとだけ』
「……そうですか」
彼は顔を逸らした。
耳が、ほんの少し赤くなっている気がした。
⸻
刹那は、内心で深く息を吐いていた。
何をやっているんだ。
食事に誘う。
たったそれだけのことに、これほど緊張するとは思わなかった。
これまで、数え切れないほどの交渉をまとめてきた。
海外の投資家を相手にした会議でも、声が震えたことなどない。
それなのに。
隣に座る女性の返事ひとつが、気になって仕方がない。
「……それで」
彼は静かに口を開いた。
「……いかがでしょうか」
女性は、少しだけ頬を赤くしていた。
そして。
『……はい!』
嬉しそうに笑った。
『ぜひ!』
その瞬間。
胸の奥で、何かがほどけた。
「……ありがとうございます」
刹那は、ようやく自然に息を吐いた。
⸻
『……あの、どこに行くんですか?』
「……いくつか候補はありますが」
『……候補?』
「ええ。和食、フレンチ、イタリアンなど」
『……えっ、そんなに!?』
「……お好みが分かりませんので」
私は思わず笑った。
『……そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ!』
「……そうでしょうか」
『はい! 普通のお店で十分です!』
彼は少しだけ考えた。
「……では、明日の昼にしましょうか」
『……はい!』
「……お店はこちらで決めても?」
『もちろんです!』
彼は静かに頷いた。
「……分かりました」
⸻
『……あっ』
そこで私は、あることに気づいた。
『……でも、どうやって待ち合わせします?』
「…………」
彼が黙った。
『……私たち、連絡先知らないですよね』
「……そうですね」
『……ふふっ』
思わず笑ってしまった。
『……何だか、おかしいですね』
彼も小さく笑った。
「……確かに」
そして、スマートフォンを取り出す。
「……よろしければ、連絡先を交換しませんか」
『……はい!』
私は鞄からスマートフォンを取り出した。
画面を操作して、連絡先交換用のコードを表示する。
彼が読み取る。
私も、彼のコードを読み取った。
『……できました!』
「……ええ」
私は画面を見た。
登録されたのは、まだ名前の入っていないアカウント。
彼も同じように、画面を確認している。
『……あの』
「……はい」
『……名前、どうします?』
彼は少しだけ考えた。
「……そうですね」
そして、何かを言いかけた。
けれど。
『……あっ、そうだ!』
私は思いついて笑った。
『……明日、会ったときに教え合いませんか?』
「……明日?」
『はい! 何だか、その方が楽しみが増える気がして』
彼は少しだけ驚いたように私を見た。
それから、小さく笑った。
「……面白いことを考えますね」
『……だめですか?』
「……いいえ」
彼は首を振った。
「……では、明日」
『……はい!』
⸻
その日の夜。
私はベッドの上で、スマートフォンを眺めていた。
画面には、彼から届いたメッセージ。
――明日、十二時に駅前でお待ちしています。
――お店の場所はこちらです。
丁寧で、無駄のない文章。
何だか、彼らしい。
『……ふふっ』
私は返信を打った。
――了解です! 楽しみにしてます!
少し考えて、最後に小さな花の絵文字を添えた。
送信。
すると、数分後。
――私も楽しみにしています。
短い返事が届いた。
『…………』
胸が、きゅっと鳴った。
『……どうしよう』
私はスマートフォンを胸に抱えた。
嬉しい。
すごく、嬉しい。
こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。
ふと、昔のことを思い出す。
夢の中で、刹那と過ごした日々。
明日も会えると信じて、眠るのが楽しみだった。
あの頃と、少し似ている。
『……刹那』
小さく名前を呼んだ。
ごめんね。
そんな言葉が、心の中に浮かぶ。
でも。
私は、明日が楽しみだった。
⸻
同じ頃。
刹那は、自宅の書斎にいた。
机の上には、明日の店の予約確認。
窓の外には、静かな夜景が広がっている。
スマートフォンの画面には、彼女からのメッセージ。
――楽しみにしてます!
「…………」
刹那は、何度目か分からないほど、その文章を読み返した。
そして、静かに息を吐く。
「……何を浮かれてるんだ、俺は」
自嘲するように笑う。
けれど、スマートフォンを伏せることはできなかった。
明日。
彼女に会える。
庭園ではなく、現実の街で。
二人で食事をする。
それだけのことが、こんなにも楽しみだとは思わなかった。
ふと、机の引き出しに目を向ける。
そこには、古いノートがしまわれていた。
十年前。
夢の庭園を描いた、手書きの地図。
そして、もう二度と会えない少女との約束。
「…………」
刹那は、ゆっくりと引き出しを開けた。
古びた紙を取り出す。
そこには、幼い文字で書かれていた。
――いつか、一緒に行く。
彼は、その文字を見つめた。
長い沈黙。
やがて、小さく呟く。
「……ごめんな、さくら」
あの約束を、忘れたわけじゃない。
今も、忘れたくない。
けれど。
明日、別の女性に会うことを楽しみにしている自分がいる。
「…………」
刹那は、静かに目を閉じた。
そして、地図を丁寧に折りたたみ、引き出しへ戻した。
⸻
翌朝。
私は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、柔らかな陽射しが差し込んでいる。
『……晴れてる』
私は小さく笑った。
今日は、あの人と初めて出かける日。
名前も知らない、少し不思議な男性。
でも。
一緒にいると、なぜだか落ち着く人。
『……楽しみ』
そう呟いて、ベッドから起き上がった。
⸻
同じ朝。
刹那は、鏡の前でネクタイを手に取っていた。
いつもの濃紺。
仕事でも、会食でも、何度も使ってきたもの。
けれど、今日は少し考えてから、それを置いた。
代わりに、白いシャツの襟元を開ける。
ジャケットも、少し柔らかい色のものを選んだ。
鏡の中の自分を見つめる。
「…………」
十年前。
夢の中で、少女に言われたことがある。
――刹那って、いつも真面目すぎ!
「……うるせぇよ」
思わず、口をついて出た。
刹那は、自分の声に驚いた。
そして。
「……はは」
小さく笑った。
本当に、久しぶりだった。
誰にも見せるためではない笑顔が、鏡に映ったのは。
⸻
午前十一時五十分。
駅前の時計台。
私は少し早く到着していた。
スマートフォンを確認する。
まだ、約束の時間まで十分ある。
『……早すぎたかな』
そう呟いたとき。
「……お待たせしました」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返る。
そこには、いつもより少し柔らかい雰囲気の彼が立っていた。
『……あ!』
私は思わず笑った。
『こんにちは!』
「……こんにちは」
彼も、小さく微笑んだ。
「……お待たせしてしまいましたか」
『いえ! 私も今来たところです!』
「……そうですか」
少しだけ、沈黙が流れる。
私は彼を見上げた。
彼も、私を見ていた。
庭園では何度も会っているのに。
今日は、何だか少し違う。
『……あの』
「……はい」
私は小さく笑った。
『……今日は、よろしくお願いします!』
彼は静かに頷いた。
「……こちらこそ」
そして、ほんの少しだけ。
昔の少年のような笑顔を浮かべた。
「……楽しみにしていました」
その言葉に、胸が大きく鳴った。




