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夢の中の君に、恋をした。  作者: 桜木 モモ


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「雨が止むまで、あなたと」

その日は、朝からよく晴れていた。


天気予報でも、降水確率は十パーセント。


だから私は、傘を持たずに家を出た。


『……今日もいい天気!』


駅から庭園までの道を歩きながら、空を見上げる。


雲ひとつない青空。


春の終わりを告げるような、少し暖かい風。


今日は、あの人に会えるだろうか。


そんなことを考えてしまう自分に、もう驚かなくなっていた。


⸻


「……本日の確認事項は以上です」


会議室に、刹那の落ち着いた声が響いた。


「来週までに修正案を提出してください」


「承知いたしました」


担当者たちが立ち上がる。


刹那も資料を閉じ、腕時計を確認した。


午後三時。


予定より、少し早く終わった。


「神城専務、このままお戻りになりますか?」


秘書が尋ねる。


「……いえ」


刹那は窓の外に目を向けた。


広い庭園。


白い噴水。


薔薇のアーチ。


そして、木陰のベンチ。


「……少し、庭を見てきます」


「かしこまりました」


秘書は何も言わなかった。


最近、専務が庭園へ足を運ぶ回数が増えている。


そのことには、とうに気づいていた。


⸻


『……あっ!』


薔薇のアーチを抜けたところで、私は思わず声を上げた。


見覚えのある背中。


今日は、黒いスーツ姿だった。


『こんにちは!』


男性が振り返る。


「……こんにちは」


『また会えましたね!』


「……そうですね」


いつもの落ち着いた返事。


けれど、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。


『今日はお仕事ですか?』


「ええ。ちょうど終わったところです」


『お疲れさまです!』


「……ありがとうございます」


私は隣に並んだ。


『……あの、今日は少しお時間ありますか?』


彼がこちらを見る。


「……どうしてですか」


『……その、一緒にお散歩でもどうかなって』


言ってから、少し恥ずかしくなった。


『あっ、もちろん無理なら全然!』


「……構いませんよ」


『……え?』


「少しでしたら」


私は思わず笑った。


『……やった!』


彼は一瞬だけ目を見開いた。


そして、何かを懐かしむように目を細めた。


⸻


二人で石畳を歩く。


噴水のそばを通り、花壇を眺める。


『……あ、この花、前は咲いてなかったですよね』


「……そうでしたか」


『そうですよ! 私、覚えてますもん』


「……よく見ていますね」


『ふふっ。得意なんです、そういうの』


「……そうですか」


何でもない会話。


けれど、心地よかった。


私はふと、彼の横顔を見上げた。


『……あの』


「はい」


『いつも思うんですけど』


「……何でしょう」


『すごく丁寧に喋りますよね』


彼は少しだけ眉を上げた。


「……仕事柄、癖になっているので」


『……そうなんですね』


「……何か問題でも?」


『いえ! ただ、もっと普通に話してくれてもいいのになって』


「……普通?」


『はい。敬語じゃなくてもいいですよ』


彼は少し考えた。


「……それは、難しいですね」


『えー、どうしてですか?』


「……習慣ですから」


『……ふふっ。真面目ですね』


彼は小さく息を吐いた。


「……よく言われます」


⸻


そのときだった。


ぽつり。


鼻先に、冷たいものが落ちた。


『……あれ?』


空を見上げる。


さっきまで晴れていたはずなのに、いつの間にか灰色の雲が広がっていた。


ぽつ、ぽつ。


雨粒が石畳に落ちる。


『……うそ、雨?』


「……降ってきましたね」


『天気予報、晴れだったのに!』


「……予報は絶対ではありませんから」


『それはそうですけど!』


彼は空を見上げた。


「……少し、強くなりそうですね」


その言葉どおり。


次の瞬間。


ざあああっ、と激しい雨が降り始めた。


『……きゃっ!』


私は慌てて頭を庇った。


「……こちらへ!」


彼が私の手首を掴む。


『……えっ!?』


「走れますか!」


『は、はい!』


二人で石畳を駆け出した。


⸻


洋館の扉を抜けた頃には、すっかり濡れてしまっていた。


『……はぁ、はぁ……』


私は肩で息をする。


『……びっくりしたぁ』


彼は少し乱れた前髪をかき上げた。


「……大丈夫ですか」


『……はい。でも、すごい雨ですね』


窓の外では、激しい雨が庭園を叩いている。


『……傘、持ってくればよかった』


「……降水確率は低かったですからね」


『そうなんですよ! 十パーセントだったんです!』


「……よく覚えていますね」


『だって、傘持っていくか迷ったんですもん!』


彼は小さく笑った。


ほんの一瞬。


けれど、確かに。


私は思わず彼を見つめた。


『……あ』


「……何ですか」


『……今、笑いました?』


「……いいえ」


『絶対笑いましたよね!』


「……気のせいでしょう」


『えー!』


彼は顔を逸らした。


けれど、その口元はまだ少し緩んでいた。


⸻


洋館のスタッフが、タオルを持ってきてくれた。


「お二人とも、こちらをどうぞ」


『ありがとうございます!』


私はタオルを受け取り、濡れた髪を拭いた。


彼も軽く頭を下げる。


「……ありがとうございます」


スタッフが去ったあと、私は彼を見た。


『……あの、結構濡れてません?』


「……あなたほどではありません」


『えっ、私そんなに?』


「……ええ」


彼は私の髪を見た。


「……髪、まだ濡れていますよ」


『……あ、本当だ』


慌てて拭こうとすると、タオルが手から滑り落ちた。


『……あっ』


床に落ちる。


私はしゃがみ込んだ。


その瞬間。


「……まったく」


低い声が聞こえた。


『……え?』


彼は私より先にタオルを拾い上げた。


「……落ち着きがないですね」


『……えっ!』


私は思わず顔を上げた。


『……そんなことないですよ!』


「……今、落としましたよね」


『それは、たまたまです!』


「……そうですか」


『……絶対、信じてないですよね?』


彼は少しだけ口元を緩めた。


「……ご想像にお任せします」


『……もう!』


私は頬を膨らませた。


その瞬間。


彼の表情が、ふっと変わった。


「…………」


まるで、何かを思い出したように。


『……どうしました?』


「……いえ」


彼は静かに首を振った。


「……何でもありません」


⸻


雨は、なかなか止まなかった。


スタッフの案内で、私たちは洋館の一角にある小さな応接室へ通された。


大きな窓。


古い暖炉。


柔らかなソファ。


そして、壁際に置かれたアップライトピアノ。


『……わぁ』


私は思わず声を上げた。


『……すごい、素敵な部屋』


「……そうですね」


彼は窓際の椅子に腰を下ろした。


私は部屋を見渡す。


そのとき、ピアノが目に入った。


『……あ、ピアノ』


彼もそちらを見る。


「……弾かれるんですか」


『……いえ、全然!』


私は笑った。


『でも、昔、すごく上手な人がいて』


「……そうなんですか」


『はい。何でもできる人だったんです』


懐かしい気持ちになって、少しだけ笑う。


『……ちょっと意地悪でしたけど』


彼は静かに私を見た。


「……そういう方が、お好きなんですか」


『……え?』


「……いえ。失礼しました」


私は少し考えた。


『……そうですね』


彼がこちらを向く。


『……好きでした』


その言葉を口にした瞬間、胸が小さく痛んだ。


もう、会えない人。


でも、確かに好きだった人。


私はピアノから視線を逸らした。


『……昔の話ですけどね』


「…………」


彼は何も言わなかった。


⸻


刹那は、窓の外を見つめていた。


雨粒が、ガラスを伝って落ちていく。


隣の女性が話した、昔好きだった人のこと。


なぜだか、少しだけ胸がざわついた。


それが嫉妬に似た感情だと気づくまで、数秒かかった。


「…………」


馬鹿げている。


名前も知らない相手に、何を考えている。


そもそも、自分にだって忘れられない人がいる。


夢の中の、あの少女。


彼女のことを、今も覚えている。


それなのに。


目の前の女性が、別の誰かを想っていると知って。


少しだけ、面白くない。


「……くだらない」


思わず、小さく呟いた。


『……え?』


女性が振り返る。


「……いえ。何でもありません」


『……何か言いましたよね?』


「……独り言です」


『……ふふっ。意外と独り言、多いですね』


「……そうでしょうか」


『はい!』


彼女は楽しそうに笑った。


その笑顔を見て、刹那はふと思った。


この人の前では、どうしてこんなに調子が狂うのだろう。


⸻


『……あの』


「……はい」


『ピアノ、弾けますか?』


刹那は少しだけ目を上げた。


「……多少は」


『……えっ、本当ですか!?』


「……ええ」


『……聴いてみたいです!』


彼は一瞬、言葉に詰まった。


「……今ですか」


『……だめですか?』


期待に満ちた目で見つめられる。


刹那は小さく息を吐いた。


「……少しだけですよ」


『……やった!』


その反応に、彼は一瞬だけ目を細めた。


懐かしい。


あまりにも。


⸻


スタッフに許可を得て、刹那はピアノの前に座った。


鍵盤に指を置く。


少しだけ、ためらった。


最後に誰かのために弾いたのは、いつだっただろう。


仕事の付き合いで演奏したことはある。


けれど。


誰かが喜ぶ顔を見たくて、弾いたのは。


「…………」


彼は静かに息を吸った。


そして、指を動かした。


柔らかな旋律が、部屋に広がる。


雨音と混ざり合う、優しい音色。


私は思わず息を呑んだ。


『…………』


懐かしい。


曲は違う。


音も、少し違う。


それなのに。


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


昔。


夢の中で、刹那がピアノを弾いてくれた。


私は隣に座って、彼の指を眺めていた。


あのときも、こんな気持ちだった。


『……綺麗』


小さく呟く。


演奏が終わる。


私は思わず拍手をした。


『……すごい!』


彼は静かに振り返った。


「……ありがとうございます」


『本当に上手ですね!』


「……大したことではありません」


『そんなことないです!』


私は笑った。


『……もう一曲、聴きたいくらい』


彼は少しだけ眉を上げた。


「……欲張りですね」


『……えー!』


思わず声を上げる。


彼は小さく笑った。


⸻


雨が弱まったのは、それから三十分ほど経った頃だった。


『……あ、止みそう』


窓の外を見て、私は呟いた。


彼も立ち上がる。


「……そうですね」


『……そろそろ帰れそうですね』


「……ええ」


少しだけ、残念だった。


もっと話していたかった。


もっと、あの人のことを知りたかった。


でも、そんなことを言ったら、困らせてしまうかもしれない。


私は鞄を持ち上げた。


『……今日はありがとうございました』


「……こちらこそ」


二人で廊下を歩く。


玄関へ向かう途中、私はふと足を止めた。


『……あの』


彼が振り返る。


「……はい」


『……また、会えますよね?』


彼は少しだけ目を見開いた。


それから。


「……ええ」


静かに頷いた。


「……きっと」


胸が、少しだけ温かくなった。


『……よかった』


私は笑った。


⸻


洋館の玄関を出ると、雨はすっかり止んでいた。


濡れた石畳が、夕陽を反射している。


私は彼に向き直った。


『……じゃあ、また!』


「……お気をつけて」


私は手を振り、歩き出した。


数歩進んだところで。


「……あの」


彼の声がした。


振り返る。


『……はい?』


彼は少しだけ迷ったように見えた。


「…………」


何かを言いかけて。


結局、首を振った。


「……いえ。何でもありません」


『……そうですか?』


「……ええ」


私は少しだけ不思議に思いながらも、笑った。


『……じゃあ、また!』


今度こそ、歩き出す。


⸻


刹那は、その背中を見送っていた。


呼び止めた理由は、分かっていた。


名前を聞こうとしたのだ。


けれど、できなかった。


「…………」


名前を知れば、もっと近づいてしまう。


もっと、知りたくなる。


そして、いつか。


あの少女を、忘れてしまうかもしれない。


それが怖かった。


「……馬鹿だな」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


刹那は静かに目を閉じた。


十年前。


夢の中で、少女が消えるたびに言っていた。


――まだ行くなよ。


あの言葉を、今日も言いそうになった。


けれど、言わなかった。


言えるはずがなかった。


目の前の女性は、あの少女ではないのだから。


少なくとも、彼はそう信じていた。


⸻


帰りの電車。


私は窓の外を眺めながら、今日のことを思い出していた。


雨。


洋館。


ピアノ。


そして、あの人。


『……楽しかったな』


小さく笑う。


名前も知らない人。


どこに住んでいるのかも、何歳なのかも知らない。


それなのに。


また会いたい。


もっと話したい。


そう思ってしまう。


『……どうしよう』


私は小さく呟いた。


十年前。


初めて恋をしたときも、こんな気持ちだった。


会える日が待ち遠しくて。


一緒にいる時間が、あっという間に過ぎて。


別れるのが、少し寂しくて。


『……似てるな』


私は目を閉じた。


けれど、すぐに首を振る。


違う。


あの人は、刹那じゃない。


刹那は、夢の中にしかいなかった人。


それでも。


『……また、会いたいな』


その気持ちだけは、どうしても消えなかった。

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