「名前も知らない、あなたを待つ」
日曜日。
私は、クローゼットの前で悩んでいた。
『……こっちかな』
淡い水色のブラウスを手に取る。
鏡の前で合わせてみて、首を傾げた。
『……いや、こっち?』
今度は白いワンピース。
別に、誰かと約束しているわけじゃない。
ただ、あの庭園に行くだけだ。
それなのに。
『……何やってるんだろ、私』
鏡に映った自分がおかしくて、思わず笑ってしまった。
結局、白いワンピースを選んだ。
⸻
庭園に着いたのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
いつもの噴水を通り過ぎ、薔薇のアーチへ向かう。
あの人は、いるだろうか。
そう考えている自分に気づいて、足が止まった。
『……別に、会う約束してないし』
誰に言い訳しているんだろう。
私は小さく息を吐き、歩き出した。
けれど、ベンチには誰もいなかった。
『……そっか』
少しだけ、がっかりした。
当たり前だ。
あの人は仕事でここに来ているのだから、休日にいるとは限らない。
私はベンチに腰を下ろした。
⸻
一時間ほど経った頃。
「……また、いらしていたんですね」
突然、声がした。
顔を上げる。
そこには、見覚えのある男性が立っていた。
今日はスーツではなく、黒いシャツに薄手のジャケットを羽織っている。
『……あ!』
思わず立ち上がった。
『こんにちは!』
「こんにちは」
『今日はお仕事じゃないんですか?』
「……ええ。少し用事がありまして」
そう言いながら、彼は私の隣に目を向けた。
「……ここ、よろしいですか」
『もちろん!』
彼は静かに腰を下ろした。
私は少しだけ笑った。
『……また会えましたね』
「……そうですね」
その声が、いつもより少し柔らかく聞こえた。
⸻
「……随分、長くいらっしゃるんですか」
『え?』
「先ほど、入口の方でお見かけしたので」
『……あ、はい。ちょっと散歩してました』
「そうですか」
『……あの』
「はい」
『もしかして、私が来てるの、気づいてたんですか?』
彼は一瞬だけ黙った。
「……偶然です」
『……ふふっ』
「……何か?」
『いえ、何でもないです』
彼は小さくため息をついた。
その仕草が、何となく可愛らしかった。
⸻
『……そういえば』
私は花壇を眺めながら口を開いた。
『この前、昔のことを思い出すって言ってましたよね』
「……ええ」
『……今も、寂しくなりますか?』
彼は少しだけ考えた。
「……以前ほどではありません」
『……そっか』
「ただ」
彼は視線を落とした。
「……忘れたわけではありません」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
『……分かります』
私は笑った。
『私も、そういう人がいるので』
彼がこちらを向いた。
「……大切な方ですか」
『……はい』
少し迷ってから、頷いた。
『……すごく、大切な人でした』
「……でした?」
『……もう、会えない人なんです』
彼は何も言わなかった。
私は膝の上で指を組んだ。
『でも、最近思うんです』
「……何を?」
『……いつまでも、その人のことばかり考えてたら、前に進めないのかなって』
風が吹いた。
花びらが一枚、私の膝に落ちる。
『……忘れたくはないんです。でも、ずっと寂しいままでいるのも、違う気がして』
彼はしばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「……忘れる必要は、ないと思います」
『……え?』
「大切だったことまで、消す必要はないでしょう」
私は彼を見つめた。
「……その人を覚えていることと、これから幸せになることは、別の話です」
落ち着いた声。
けれど、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
『……そう、ですよね』
「……ええ」
私は小さく笑った。
『……何だか、少し楽になりました』
彼は微かに目を細めた。
「……それなら、よかったです」
⸻
しばらくして、私は鞄から小さな紙袋を取り出した。
『……あの、よかったら』
「……何でしょう」
『クッキーなんですけど』
彼は紙袋を見つめた。
『近くのお店で買ったんです。美味しそうだったので、つい二つ買っちゃって』
「……二つ?」
『……はい』
「……最初から、誰かに渡すつもりだったんですか」
『……えっ』
私は言葉に詰まった。
彼は静かにこちらを見ている。
『……その、もし会えたら、と思って』
言ってしまった。
途端に、顔が熱くなる。
『……あっ、でも! 別に深い意味はなくて!』
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして。
「……ありがとうございます」
小さく笑った。
今まで見たことのない、自然な笑顔だった。
私は思わず見惚れてしまった。
『……どういたしまして』
彼は紙袋を受け取った。
「……いただきます」
⸻
夕方。
帰る時間になり、私はベンチから立ち上がった。
『……そろそろ帰りますね』
「……そうですか」
彼も立ち上がった。
『今日は、ありがとうございました』
「……こちらこそ」
私は軽く頭を下げ、歩き出した。
数歩進んだところで、ふと振り返る。
彼はまだ、そこに立っていた。
『……あの!』
「……はい」
『……また、会えたら嬉しいです!』
彼は少しだけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「……私もです」
胸が、きゅっと鳴った。
『……じゃあ、また!』
私は笑って手を振った。
彼も、ほんの少しだけ手を上げた。
⸻
刹那は、彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
手には、小さな紙袋。
中には、可愛らしい形のクッキーが入っている。
「…………」
自分でも、不思議だった。
休日にわざわざ、この庭園へ来た理由。
仕事があったわけではない。
確認したいことも、特になかった。
ただ。
彼女が、いるかもしれないと思った。
それだけだった。
「……何やってんだか」
小さく笑う。
けれど、その声には、以前のような冷たさがなかった。
⸻
帰宅した刹那は、書斎の机に紙袋を置いた。
一枚取り出して、口に運ぶ。
甘い。
思っていたより、ずっと。
「…………」
ふと、昔のことを思い出した。
夢の中で、さくらが焼いたクッキー。
少し焦げていて、形も不揃いで。
それでも、得意げな顔で差し出してきた。
――美味しいでしょ!
「……ああ」
刹那は小さく呟いた。
「……美味いよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
彼はもう一枚、クッキーを手に取った。
あの少女のことを、忘れたわけじゃない。
これからも、忘れるつもりはない。
けれど。
今日、あの女性に会えて嬉しかったことも、嘘ではなかった。
「…………」
刹那は窓の外を見た。
夕暮れの空が、淡い桃色に染まっている。
明日からまた、忙しい日々が始まる。
それでも。
次の休日が、少しだけ楽しみだった。
⸻
その夜。
私はベッドに入り、スマートフォンを眺めていた。
今日撮った庭園の写真。
薔薇の花。
噴水。
木陰のベンチ。
そして、写真には写っていない、あの人。
『……名前、聞けばよかったな』
何度目か分からない後悔だった。
次に会えたら、聞いてみよう。
そう思った瞬間。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
『……また、会いたいな』
久しぶりに、誰かとの再会を楽しみにしている。
それが、少し嬉しかった。
そして、少しだけ怖かった。
私はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。
夢は、見なかった。
けれど。
明日が来ることを、少しだけ楽しみに思えた。
それは、十年前のあの日以来。
本当に、久しぶりのことだった。




