「忘れたくない人、忘れさせてくれる人」
土曜日の午後。
私は、またあの庭園を訪れていた。
三度目ともなると、さすがに道を覚えてしまう。
噴水の横を通り、薔薇のアーチを抜ける。
白い石畳を歩きながら、ふと思った。
最近、ここに来るのが楽しみになっている。
もちろん、庭園が綺麗だから。
それに、どこか懐かしい気持ちになれるから。
……それだけのはずだった。
『……あ』
木陰のベンチに、先客がいた。
濃紺のシャツに、黒いスラックス。
いつもより少しだけラフな格好をした、見覚えのある男性。
彼は膝の上に書類を広げ、何かを読んでいた。
『……こんにちは!』
声をかけると、彼が顔を上げた。
「……こんにちは」
『またお会いしましたね』
「……そうですね」
相変わらず、落ち着いた声。
けれど、今日は少しだけ驚いたように見えた。
『お仕事ですか?』
「ええ。少し確認したいことがありまして」
『お休みの日なのに大変ですね』
「……慣れていますので」
そう言って、彼は書類を閉じた。
そして、ベンチの端へ少しだけ身体を寄せる。
「……よろしければ」
『……え?』
「お座りになりますか」
私は思わず笑った。
『ありがとうございます!』
彼の隣に腰を下ろす。
少しだけ距離を空けて。
それでも、なぜだか不思議と落ち着いた。
⸻
『……今日はいいお天気ですね』
「……ええ」
『お花も綺麗だし』
「……そうですね」
『……あの』
「はい」
『私ばっかり喋ってません?』
彼は少しだけ目を瞬いた。
「……そうでしょうか」
『そうですよ!』
「……では、何か話題を提供した方が?」
真面目な顔でそう言われて、思わず吹き出してしまった。
『あはは! そういう意味じゃないです!』
「……難しいですね」
彼は小さく息を吐いた。
その仕草が、何となく可笑しかった。
『……ふふっ』
「……何か?」
『いえ、何でもないです』
彼は少しだけ眉を寄せた。
けれど、怒っているわけではなさそうだった。
⸻
しばらくして、私は彼の手元にある書類に目を向けた。
『……この庭園、改修するんですか?』
「ええ。一部ですが」
『……そっか』
「何か気になることでも?」
『……いえ。ただ、あんまり変わってほしくないなって』
彼は私を見た。
『初めて来た場所なのに、変ですよね』
「……いいえ」
彼は静かに答えた。
「私も、そう思っています」
『……え?』
「できる限り、今の景色を残したいと」
私は嬉しくなって笑った。
『……よかった!』
彼は少しだけ不思議そうな顔をした。
「……そんなに嬉しいですか」
『はい!』
「……そうですか」
彼は視線を庭園へ戻した。
けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
⸻
『……あの、ひとつ聞いてもいいですか?』
「……何でしょう」
『どうして、このお仕事をしてるんですか?』
彼は少し考えた。
「……家の事情です」
『……家の事情?』
「ええ。幼い頃から、そう決まっていました」
その言葉に、私は少しだけ胸が痛くなった。
『……じゃあ、本当はやりたくなかったんですか?』
彼は驚いたように私を見た。
「……随分、率直ですね」
『あっ、ごめんなさい!』
「……いえ」
彼は庭園を見つめたまま、答えた。
「……昔は、そう思っていました」
『……昔は?』
「今は、特に何も」
淡々とした声だった。
嬉しいとも、嫌だとも思っていないような。
私は少しだけ考えてから、口を開いた。
『……でも、ここは好きなんですよね?』
「…………」
『だって、この庭園を残したいって言ってましたから』
彼は何も言わなかった。
私は笑った。
『……好きなものがあるって、いいことですよね』
その瞬間。
彼の表情が、ほんのわずかに揺れた。
「……そう、ですね」
何かを思い出すような声だった。
⸻
刹那は、隣に座る女性を横目で見た。
よく笑う人だと思った。
初対面に近い相手にも、遠慮なく話しかける。
思ったことを、素直に口にする。
自分とは、まるで違う。
なのに。
不思議と、煩わしくなかった。
むしろ、彼女が黙ると、少しだけ物足りない。
そんな感覚を覚えた自分に、刹那は戸惑っていた。
十年前。
同じようなことがあった。
あの庭園で、ひとりの少女が隣に座るようになって。
最初は、うるさいと思っていた。
けれど、いつの間にか。
その声を聞くために、夜を待つようになった。
「…………」
刹那は、静かに息を吐いた。
もう、終わったことだ。
そう思っていた。
夢の中の少女を探し続けた日々も。
最後に交わした約束も。
全部、過去のことにしなければならない。
そうしなければ、いつまでも前に進めない。
彼は隣の女性を見た。
春風に髪を揺らしながら、楽しそうに花壇を眺めている。
この人となら。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
この人となら、もう一度、誰かを好きになれるかもしれない。
胸の奥に、久しく感じていなかった温かさが生まれる。
けれど、その直後。
ひどい罪悪感が押し寄せた。
――絶対迎えに行く。
自分で言った。
必ず迎えに行くと。
それなのに。
「…………」
刹那は、無意識に左手を握りしめた。
夢の中の約束を、裏切ることになるのだろうか。
そもそも、存在しない相手との約束を守り続けることに、何の意味があるのだろう。
分かっている。
分かっているのに。
どうしても、忘れたくなかった。
⸻
『……あの』
女性の声で、刹那は我に返った。
「……はい」
『何だか、難しい顔してますよ』
「……そうですか」
『はい。お仕事のことですか?』
「……いえ」
彼は少し迷ってから、答えた。
「……昔のことを、少し」
『……昔のこと?』
「ええ」
私はそれ以上、聞かなかった。
誰にだって、話したくないことはある。
私にも、あるから。
代わりに、花壇へ目を向けた。
『……私も、時々あります』
「……何がですか」
『昔のこと、思い出して寂しくなること』
彼は静かにこちらを向いた。
『でも、忘れたくないんですよね』
口にしてから、少しだけ驚いた。
どうして、こんなことを話しているんだろう。
まだ名前も知らない人なのに。
彼はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かる気がします」
その声が、妙に優しかった。
⸻
帰る時間になり、私は立ち上がった。
『……そろそろ行きますね』
「……そうですか」
『今日はありがとうございました!』
「こちらこそ」
私は軽く頭を下げた。
それから、少し迷って口を開いた。
『……あの、またお会いできますかね?』
彼は一瞬だけ目を見開いた。
「…………」
『……あっ、変な意味じゃなくて!』
慌てて手を振る。
『ここ、よく来るので!』
彼は少しだけ笑った。
「……私も、仕事で来ることがありますから」
『……じゃあ、また!』
「……ええ。また」
私は笑って、石畳を歩き出した。
⸻
刹那は、彼女の背中を見送っていた。
いつもなら、誰かが去っていくことに何も感じない。
けれど今日は。
もう少し話していたかった。
そう思ってしまった。
「…………」
彼は静かに目を閉じた。
十年前の声が、記憶の奥から蘇る。
――またね、刹那!
あの声を、忘れたくない。
あの笑顔を、忘れたくない。
それなのに。
今、目の前を歩いていく女性のことも、もう少し知りたいと思っている。
「……困ったな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
その言葉には、久しぶりに本物の感情が滲んでいた。
⸻
帰り道。
私は電車の窓に映る自分を見つめていた。
今日も、楽しかった。
ただ庭園で話しただけなのに。
あの人といると、不思議と落ち着く。
そして、少しだけ胸が温かくなる。
『……変なの』
私は小さく笑った。
もう、刹那のことを思い出さずに笑える日も増えていた。
でも。
もし、あの人をもっと知って。
いつか、好きになったら。
私は、刹那を忘れてしまうのだろうか。
『……それは、嫌だな』
思わず呟いた。
夢の中の男の子。
初めて好きになった人。
もう二度と会えないかもしれないけれど。
あの時間まで、なかったことにしたくない。
私は窓の外へ目を向けた。
流れていく街並み。
夕暮れの空。
そして、胸の奥に残る、小さな温かさ。
――忘れたくない人がいる。
でも、もう一度誰かを好きになってみたいとも思う。
その二つの気持ちが、矛盾しているようで。
私はまだ、答えを見つけられずにいた。




