「また、お会いしましたね」
あの庭園を訪れてから、二週間が経った。
私は、また同じ場所に来ていた。
理由は、特にない。
ただ、あの日見た景色が忘れられなかったのだ。
白い噴水も、薔薇のアーチも、木陰のベンチも。
夢で見た場所に、あまりにもよく似ていたから。
『……やっぱり、綺麗』
春の陽射しが、噴水の水しぶきをきらきらと輝かせている。
私は小さく伸びをして、石畳を歩き始めた。
⸻
「神城専務、庭園の改修案についてですが」
「西側の花壇は現状維持でお願いします」
「しかし、維持費がかなり――」
「承知しています。その分、別の箇所で調整してください」
刹那は資料から目を離さずに答えた。
「この庭園の価値は、景観の一体性にあります。安易に手を加えるべきではありません」
「……かしこまりました」
担当者が頭を下げる。
刹那は静かに資料を閉じた。
二週間前。
初めてこの庭園を訪れたとき、彼はひどく動揺した。
だが、その後、冷静に調べ直してみれば、ここは古くから存在する庭園だった。
夢と似ている理由は分からない。
しかし、今さら意味を求めても仕方がない。
そう結論づけた。
「……少し、庭を確認してきます」
秘書に告げ、刹那は一人で外へ出た。
⸻
『……あっ』
薔薇のアーチを抜けたところで、見覚えのある男性と目が合った。
濃紺のスーツ。
整った顔立ち。
落ち着いた、少し冷たい印象の人。
先日、落としたペンを拾ってくれた男性だった。
『……こんにちは!』
男性は足を止めた。
「……こんにちは」
『この前はありがとうございました』
「……この前?」
『ペンを拾っていただいたんです。覚えてませんか?』
彼は少しだけ考えたあと、頷いた。
「ああ。ベンチのところで」
『そうです!』
私は嬉しくなって笑った。
『またお会いしましたね』
「……そうですね」
短い返事だった。
それでも、嫌な感じはしなかった。
むしろ、何となく話しやすい気がした。
⸻
『お仕事ですか?』
彼の手にある資料を見て尋ねる。
「ええ。この庭園の管理に関わっていまして」
『そうなんですね!』
「あなたは?」
『私はお休みなので、散歩です』
「……先日もいらしていましたね」
『はい。ここ、すごく気に入っちゃって』
彼は庭園を見渡した。
「……そんなに気に入りましたか」
『はい! 何だか落ち着くんです』
「……そうですか」
『あの、変なこと聞いてもいいですか?』
「内容によりますが」
『この庭園って、昔からこんな感じなんですか?』
彼は少しだけ眉を上げた。
「ええ。細かな修復はされていますが、基本的な構造は昔のままだそうです」
『……そっか』
「何か気になることでも?」
『いえ。ただ、昔どこかで見たことがある気がして』
そう言って笑うと、彼は一瞬だけ黙った。
「……以前も、そうおっしゃっていましたね」
『あ、覚えてたんですね!』
「……記憶力は悪くありませんので」
少しだけ得意げにも聞こえる言い方だった。
私は思わず笑ってしまった。
『ふふっ。そうなんですね』
彼は不思議そうに私を見た。
「……何か?」
『いえ、何でもないです』
⸻
しばらく、二人で庭園を眺めていた。
不思議な沈黙だった。
初対面に近い相手なのに、気まずくない。
私は花壇に咲いている白い花を見つけ、思わずしゃがみ込んだ。
『……あ、可愛い』
「……何がですか」
『この花です!』
彼は少し離れた場所から花壇を覗いた。
「……小さいですね」
『そこが可愛いんですよ』
「……そういうものですか」
『そういうものです!』
私は笑いながら立ち上がった。
その瞬間、靴のかかとが石畳の隙間に引っかかった。
『……わっ!』
身体が傾く。
転ぶ。
そう思った瞬間。
ぐい、と腕を掴まれた。
「……危ない!」
低い声が響いた。
気づけば、男性の胸元に手をついていた。
『……っ』
近い。
思っていたより、ずっと近い。
「……大丈夫ですか」
『……は、はい!』
慌てて身体を離す。
『すみません! ありがとうございます!』
「……いえ」
彼は私の足元を見た。
「……足元には気をつけてください」
『……はい』
少し恥ずかしくなって、俯く。
すると。
「……まったく」
小さな声が聞こえた。
『……え?』
彼は何事もなかったように顔を上げた。
「……いえ。お怪我がなくて何よりです」
私は首を傾げた。
何だろう。
今、一瞬だけ。
すごく懐かしい言い方をされた気がした。
⸻
「神城専務!」
遠くから声がした。
男性が振り返る。
「……失礼。呼ばれているようです」
『あ、お仕事中でしたよね! すみません、引き止めちゃって』
「いえ。問題ありません」
彼は軽く会釈をした。
「それでは」
『はい! お仕事頑張ってください!』
男性は少しだけ目を見開いた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
そのまま、石畳を歩いていく。
私は彼の背中を見送った。
『……神城、さん』
さっき、そう呼ばれていた。
綺麗な名前だな、と思った。
⸻
「専務、何かございましたか?」
戻ってきた刹那に、秘書が尋ねた。
「……何がですか」
「いえ。少し、表情が柔らかく見えましたので」
刹那は資料を受け取った。
「気のせいでしょう」
「……失礼いたしました」
彼は書類に目を落とした。
けれど、先ほどの女性の声が、妙に耳に残っていた。
――お仕事頑張ってください!
何でもない言葉だ。
これまで、何度も言われたことがある。
それなのに。
「…………」
刹那は、無意識に自分の手を見つめた。
先ほど、転びかけた女性を支えた手。
細い腕。
驚いた顔。
そして、無事だと分かった瞬間の、ほっとした笑顔。
「……何を考えてるんだ、俺は」
小さく呟き、資料をめくる。
仕事に集中すればいい。
それだけのことだ。
⸻
帰り道。
私は駅へ向かいながら、ふと今日のことを思い出していた。
『……不思議な人だったな』
落ち着いていて、丁寧で。
でも、どこか少しだけ意地悪そうで。
そういえば、あの人。
私が転びそうになったとき、すごく慌てていた。
普段はあんなに冷静そうなのに。
『……ふふっ』
何となく、おかしくなった。
それから、ふと思う。
あの人の名前、ちゃんと聞けばよかった。
『……また会えるかな』
口にしてから、自分で驚いた。
どうして、そんなことを思ったんだろう。
まだ、ほとんど知らない人なのに。
私は小さく首を振り、歩き出した。
⸻
その夜。
刹那は仕事を終え、書斎の椅子に深く腰掛けていた。
机の上には、庭園の改修計画書。
彼は何気なく、次回の現地確認の日程に目を留めた。
来週の土曜日。
「…………」
少し考えてから、秘書に短いメッセージを送る。
――次回の庭園視察には、私も同行します。
送信してから、刹那はスマートフォンを伏せた。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ。
あの庭園に、もう一度行ってみようと思った。
それだけだった。




