「初めまして、知らない人」
春の午後。
私は、少しだけ道に迷っていた。
『……あれ? こっちじゃなかったっけ』
休日を利用して訪れたのは、郊外にある古い洋館だった。
最近、一般公開が始まったらしい。
広い庭園が綺麗だと聞いて、何となく足を運んでみたのだけれど。
『……広すぎない?』
案内板を見ながら、小さくため息をつく。
どうやら、庭園の奥へ進みすぎてしまったようだった。
私はスマートフォンを鞄にしまい、顔を上げた。
その瞬間。
『…………え?』
足が止まった。
白い石畳。
左右に広がる薔薇の花壇。
緩やかに曲がる小道。
そして、その先にある大きな噴水。
『……うそ』
心臓が、どくんと鳴った。
見覚えがある。
いや、そんなはずはない。
私は、ここに来たことなんて一度もないのだから。
それなのに。
『……なんで』
噴水の向こう側。
大きな木の下に、古いベンチが見えた。
その瞬間、息が止まった。
――またお前かよ。
遠い昔の声が、頭の中に響いた。
『…………刹那?』
十年近く、口にしていなかった名前。
私は無意識に、ベンチへ向かって歩き始めた。
⸻
同じ頃。
一台の黒い車が、洋館の正門前に停まった。
「神城専務、到着いたしました」
「……ああ」
後部座席から降りた男は、静かに建物を見上げた。
神城刹那、二十六歳。
濃紺のスーツを隙なく着こなし、整った顔立ちには感情らしいものが浮かんでいない。
「本日は庭園の視察が主な目的となります。改修後の活用について、先方からご説明があるそうです」
「資料は確認した」
「承知いたしました」
秘書が一歩後ろに下がる。
刹那は腕時計を確認した。
「……三十分で終わらせる」
「かしこまりました」
今回の案件は、歴史ある洋館と庭園を活用した事業計画だった。
彼にとっては、数ある仕事のひとつにすぎない。
少なくとも、門をくぐるまでは。
⸻
「こちらが、今回保存対象となっている庭園でございます」
案内役の男性が説明を続ける。
「建物は一部改修しておりますが、庭園は昔の意匠を可能な限り残しておりまして――」
刹那は、歩みを止めた。
「…………」
目の前に広がる景色。
白い石畳。
薔薇の花壇。
大きな噴水。
その奥に見える、古いベンチ。
「……神城専務?」
秘書が声をかける。
刹那は答えなかった。
ただ、じっと庭園を見つめていた。
見覚えがある。
ありすぎるほどに。
「……何だ、ここ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。
「何かございましたか?」
「……いや」
刹那はすぐに表情を戻した。
「続けてくれ」
「はい。こちらの噴水は――」
説明が再開される。
けれど、刹那の耳にはほとんど入っていなかった。
あの庭だ。
何度も歩いた。
何度も笑い声を聞いた。
何度も、帰っていく少女の手を掴んだ。
そんな場所が。
どうして、現実にある。
「…………」
刹那はゆっくりと拳を握った。
夢に似た庭園など、探せばいくらでもある。
偶然だ。
そう考えるのが、最も合理的だった。
それでも。
噴水の右側にある、小さな石段。
薔薇のアーチの向こうに続く道。
木陰に置かれたベンチの位置まで。
記憶と、寸分違わなかった。
⸻
『……すごい』
私はベンチの前に立っていた。
古びた木の座面に、そっと指を触れる。
ここに座っていた。
あの男の子が。
難しい本を読んで、私が話しかけると嫌そうな顔をして。
それでも、最後にはいつも引き止めてくれた。
『……懐かしいな』
懐かしい。
初めて来た場所なのに、そんな言葉が自然と出てきた。
私はベンチに腰を下ろした。
春風が吹く。
薔薇の香りが、ふわりと漂ってきた。
目を閉じる。
少しだけ、昔に戻ったような気がした。
⸻
「……少し、一人で見て回る」
刹那がそう告げると、秘書は驚いたように顔を上げた。
「ですが、次のご予定が――」
「十分で戻る」
「……承知いたしました」
刹那は一人、石畳を歩き始めた。
噴水を通り過ぎる。
薔薇のアーチを抜ける。
足が、勝手に道を覚えているようだった。
やがて、大きな木が見えてきた。
その下には、古いベンチ。
そして。
一人の女性が座っていた。
淡い色のワンピース。
風に揺れる髪。
膝の上に置かれた、小さな鞄。
刹那は一瞬だけ、その姿を見た。
女性は目を閉じていた。
まるで、何かを懐かしむように。
「…………」
彼は視線を逸らした。
知らない女だ。
それだけのことだった。
⸻
『……あっ』
私は慌てて立ち上がった。
ベンチの脇に置いていた鞄が倒れ、中身が石畳に散らばってしまったのだ。
『……もう、最悪』
しゃがみ込んで拾い集める。
ハンカチ。
小さなポーチ。
手帳。
そして、転がっていく一本のペン。
『あ、待って……!』
手を伸ばしたけれど、届かない。
そのとき。
黒い革靴が、ペンの前で止まった。
すらりとした指が、それを拾い上げる。
「……これですか」
落ち着いた、低い声だった。
私は顔を上げた。
そこに立っていたのは、スーツ姿の男性だった。
背が高く、端正な顔立ち。
どこか近寄りがたいほど、整った雰囲気を纏っている。
『……あ、ありがとうございます!』
差し出されたペンを受け取る。
男性は小さく頷いた。
「お気をつけて」
それだけ言って、立ち去ろうとする。
『……あの!』
思わず呼び止めていた。
男性が振り返る。
「……何でしょう」
『……ここって、すごく綺麗な場所ですね』
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。
男性は少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
短い返事。
けれど、その視線は私ではなく、庭園の方へ向けられていた。
『……初めて来たのに、何だか懐かしくて』
そう言って笑う。
男性は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「…………」
『……変ですよね。すみません』
「……いえ」
彼は静かに答えた。
「そういう場所も、あるのでしょう」
私は小さく微笑んだ。
『……ですよね』
男性は軽く会釈をして、今度こそ歩き去っていった。
私はその背中を見送った。
『……優しい人だったな』
少し怖そうだったけれど。
落ち着いた声の、綺麗な人だった。
ただ、それだけ。
私は鞄を持ち直し、再び庭園を眺めた。
⸻
刹那は、石畳を歩いていた。
先ほどの女性の言葉が、妙に耳に残っていた。
――初めて来たのに、何だか懐かしくて。
「…………」
偶然だ。
この庭園には、そう感じさせる魅力があるのだろう。
それだけのことだ。
刹那は腕時計を確認した。
予定より、少し時間が過ぎている。
「……戻るか」
歩き出す。
けれど、数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
振り返る。
ベンチのそばでは、先ほどの女性が花壇を覗き込んでいた。
楽しそうに、何かを見つめている。
その横顔に。
ほんの一瞬だけ、胸の奥がざわついた。
「…………」
刹那は眉を寄せた。
理由は分からない。
ただ、ひどく懐かしいものを見たような気がした。
けれど、その感覚もすぐに消えた。
「……馬鹿馬鹿しい」
小さく呟き、今度こそ背を向けた。
⸻
その日。
神城刹那と雨宮さくらは、現実の世界で初めて出会った。
十年前。
夢の中で、何千回も顔を合わせていた二人。
互いの笑い方も、泣き顔も、癖も知っていたはずの二人。
けれど、彼は彼女の名前を聞かなかった。
彼女も、彼の名前を尋ねなかった。
たった数分の、何でもない会話。
二人はまだ知らない。
あの日、触れられなかった手が。
今なら、確かに触れられるということを。




