「ほんと、馬鹿だなぁ」
十六歳の春。
私は、初恋を失った。
失恋したわけじゃない。
喧嘩をしたわけでも、嫌われたわけでもない。
ただ、会えなくなった。
それだけだった。
⸻
最初の一年は、毎晩祈っていた。
眠る前に目を閉じて、あの庭園を思い浮かべる。
白い噴水。
薔薇のアーチ。
大きな洋館。
そして、いつものベンチに座る、口の悪い男の子。
『……おやすみ、刹那』
そう呟いて眠るのが、いつの間にか習慣になっていた。
けれど、夢は見なかった。
一度も。
⸻
十七歳。
高校二年生になった私は、少しずつ忙しくなった。
友達と遊んで、試験勉強をして、文化祭の準備に追われた。
楽しいことは、たくさんあった。
ある日、友達に恋愛の話を振られた。
「さくらって、好きな人いないの?」
『……え?』
「絶対いるでしょ! そういう顔してる!」
『……どういう顔?』
「たまに、すっごく寂しそうな顔するもん」
私は思わず笑ってしまった。
『……何それ』
「ねえ、誰? 同じ学校?」
『……ううん』
「じゃあ、他校?」
『……それも違うかな』
「えー! 気になる!」
私は曖昧に笑った。
好きな人は、いる。
でも、その人は夢の中にしかいない。
そんなこと、言えるはずがなかった。
⸻
十八歳。
高校を卒業する日。
校門の前で、友達と写真を撮った。
泣いている子もいれば、笑っている子もいる。
私もたくさん笑って、少しだけ泣いた。
帰り道、ふと桜並木の下で足を止めた。
淡い花びらが、風に舞っている。
『……綺麗』
思わず呟いた。
昔なら、きっとこう言っていただろう。
――刹那、見て! 桜だよ!
すると、彼は面倒くさそうな顔をして。
「……見りゃ分かるわ、馬鹿」
なんて言いながら、結局一緒に眺めてくれたはずだ。
私は小さく笑った。
『……ほんと、嫌な奴』
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
もう、声を思い出すことさえ、少し難しくなっていた。
それが、何より悲しかった。
⸻
十九歳。
私は大学生になった。
新しい友達ができて、アルバイトも始めた。
初めての一人暮らし。
慣れない家事に苦戦しながらも、毎日は賑やかだった。
大学では、いろいろな人に出会った。
優しい人。
面白い人。
一緒にいて楽しい人。
私に好意を寄せてくれる人もいた。
「雨宮さん、今度二人でご飯行かない?」
そう誘われたこともあった。
相手は、素敵な人だった。
話していて楽しいし、気遣いもできる。
きっと、付き合ったら幸せになれるのだと思った。
それでも。
『……ごめんなさい』
私は首を横に振った。
「……そっか。好きな人、いる?」
少し考えてから、答えた。
『……うん。たぶん』
「たぶん?」
『……もう、会えない人なんだけどね』
相手は困ったように笑った。
私はそれ以上、何も言えなかった。
⸻
二十一歳。
成人して、少しずつ大人になっていく。
私は、あの夢について考える時間が減っていた。
忘れたわけじゃない。
ただ、思い出さなくても一日を過ごせるようになった。
それが成長なのか、諦めなのかは分からなかった。
ある日、部屋の片づけをしていると、古いノートが出てきた。
高校生の頃に書いた、夢の記録だった。
ページをめくる。
幼い字で書かれた、刹那との思い出。
一緒にチェスをしたこと。
勉強を教えてもらったこと。
風邪をひいた彼を看病したこと。
ハロウィンの夜に、踊ったこと。
そして、最後のページ。
――絶対迎えに行く。だから待ってろよ、馬鹿。
私は、その文字を指でなぞった。
『……まだ、待ってていいのかな』
返事はない。
もう何年も、夢は見ていない。
現実に存在するかどうかも分からない人を、いつまでも待つなんて。
きっと、おかしなことなのだろう。
それでも、ノートを捨てることはできなかった。
⸻
二十三歳。
大学を卒業した私は、社会人になった。
慣れない仕事に失敗して、落ち込む日もあった。
先輩に褒められて、嬉しくなる日もあった。
仕事帰りに友達と食事をしたり、休日に買い物をしたり。
ごく普通の毎日。
私は、ちゃんと笑っていた。
ちゃんと前を向いていた。
ただ、恋愛だけは、どうしてもうまくいかなかった。
誰かと親しくなっても、心のどこかで比べてしまう。
不器用で、意地悪で。
でも、本当は誰より優しかった男の子と。
そんな自分が嫌になったこともあった。
『……もう、忘れなきゃ』
何度も、そう思った。
けれど、忘れようとするたびに、思い出してしまう。
あの夜のランタン。
水面に浮かぶ薔薇。
花火の下で、初めて伝え合った気持ち。
そして、最後まで私を掴もうとしてくれた手。
あれだけは、どうしても消えなかった。
⸻
二十五歳。
ある休日。
私は久しぶりに実家へ帰った。
母と買い物をして、夕食を一緒に作った。
食後、母が何気なく言った。
「さくら、最近いい人いないの?」
『……またその話?』
「だって、もういい大人なんだから」
『分かってるよ』
「別に急かしてるわけじゃないけどね。幸せになってほしいだけよ」
私は小さく笑った。
『……うん。ありがとう』
母が部屋を出ていったあと、私は窓の外を眺めた。
夜空には、星が瞬いていた。
『……幸せ、かぁ』
私は今、十分幸せだと思う。
家族がいて、友達がいて、仕事がある。
欲しかったものも、少しずつ手に入れてきた。
でも。
もし、ひとつだけ願いが叶うなら。
『……もう一回、会いたいな』
口にした瞬間、自分でも驚いた。
十年近く経っているのに。
まだ、そんなことを願っている。
私は苦笑した。
『……ほんと、馬鹿だなぁ』
きっと刹那なら、そう言うだろう。
「……今さら気づいたのかよ」
そんな声が、聞こえた気がした。




