「25歳、決して手に入らないもの」
二十五歳。
ある夜、刹那は仕事を終えて帰宅した。
広い部屋には、生活感がほとんどなかった。
整えられた家具。
無駄のない調度品。
壁に掛けられた時計が、静かに時を刻んでいる。
彼はネクタイを緩め、書斎へ向かった。
棚の奥。
鍵のかかった引き出しを開ける。
そこには、一冊の古いファイルがあった。
何年も前に、雨宮さくらを探していた頃のものだった。
刹那はしばらく、それを見つめた。
もう、開くことはほとんどない。
けれど、捨てることもできなかった。
ふと、表紙に指を滑らせる。
「……さくら」
何年ぶりかに、その名前を口にした。
不思議なほど、自然に声が出た。
刹那は小さく笑った。
「……馬鹿みてぇ」
夢の中の女を、十年近く忘れられない男。
そんな自分が、ひどく滑稽だった。
彼はファイルを引き出しに戻そうとした。
そのとき、一枚の紙が床に落ちた。
古い庭園の見取り図だった。
拾い上げる。
そこには、幼い自分の字で、たくさんの書き込みが残されていた。
――ここで初めて会った。
――ここでさくらが転んだ。
――ここで一緒に花を見た。
そして、紙の端に。
小さく、ひとつだけ。
――いつか、一緒に行く。
刹那は、その文字を長い間見つめていた。
「…………」
やがて、ゆっくりと紙を折りたたむ。
そして、元の場所に戻した。
「……おやすみ、さくら」
その声は、ひどく穏やかだった。
まるで、もう二度と会えない人に向けるように。
⸻
翌朝。
刹那はいつもどおり、決められた時間に目を覚ました。
夢は見なかった。
シャワーを浴び、スーツに着替える。
鏡の前でネクタイを整える。
そこに映っているのは、端正な顔立ちの青年だった。
落ち着いた眼差し。
隙のない身だしなみ。
感情を読み取らせない、静かな表情。
かつて庭園で、少女に向かって「馬鹿」と笑っていた少年の面影は、ほとんど残っていなかった。
「……行くか」
彼は腕時計をつけ、部屋を出た。
神城刹那。
若くして経営の中枢に携わり、次期後継者として期待される男。
誰もが羨む能力と地位を持ち、何ひとつ不自由のない人生を歩む青年。
けれど。
彼が本当に欲しかったものは、たったひとつだった。
どれだけ金を使っても。
どれだけ人を動かしても。
どれだけ優秀になっても。
決して、手に入らなかったもの。
――雨宮さくら。
その名前を知る人間は、彼の周囲にはもう誰もいなかった。
そして刹那自身も、いつしかその名を呼ばなくなった。
ただ、彼の左手の薬指だけは。
あの日からずっと、何も飾らないままだった。




