「偶然では、片付けられない」
土曜日、午後二時。
『……あ、いた!』
庭園の噴水のそばで、見慣れた背中を見つけた。
白いシャツに、黒いスラックス。
片手には、薄い文庫本。
神城刹那さん。
最近では、週末になると自然に会うようになった人。
『こんにちは!』
振り返った彼が、わずかに微笑む。
「……こんにちは、雨宮さん」
『今日は本を読んでたんですか?』
「ええ。少し時間があったので」
『……何の本ですか?』
彼が表紙を見せてくれた。
外国の作家が書いた、難しそうな小説だった。
『……うわ、難しそう』
「……そうでもありませんよ」
『絶対難しいやつですよ、それ』
「……読んでもいないのに?」
『表紙で分かります!』
「……随分と便利な能力ですね」
『……馬鹿にしてます?』
彼は、ほんの少しだけ笑った。
「……まさか」
『……絶対してる!』
私は頬を膨らませた。
すると、彼は一瞬だけ目を細めた。
何かを懐かしむように。
⸻
いつものベンチに並んで座る。
彼は本を閉じ、私の方を向いた。
「……今日は、何か予定が?」
『特にないです。お散歩しようかなって』
「……そうですか」
『神城さんは?』
「……私も、似たようなものです」
『……ふふっ。珍しいですね』
「……そうでしょうか」
『はい。いつも忙しそうだから』
彼は少し考えてから、答えた。
「……最近、少しだけ時間の使い方を変えようと思いまして」
『……いいですね!』
「……ええ」
私は嬉しくなって笑った。
『……休むのも大事ですよ』
彼は、静かに私を見た。
「……以前にも、誰かにそう言われた気がします」
『……え?』
「……いえ。昔の話です」
私は小さく頷いた。
『……そうなんですね』
⸻
しばらくして、私は彼の本に目を向けた。
『……そういえば、神城さんって子どもの頃から本が好きだったんですか?』
「……ええ」
『……やっぱり』
「……やっぱり?」
『何となく、そんな気がして』
彼は少しだけ笑った。
「……昔は、よく庭で読んでいました」
『……庭?』
「……ええ。静かな場所が好きだったので」
私は、ふとあの夢を思い出した。
白いベンチ。
難しい本。
いつも不機嫌そうな男の子。
『……実は、私も』
言いかけて、止まる。
彼がこちらを見る。
「……何でしょう」
『……昔、本を読んでる人に、よくちょっかい出してたんです』
彼は一瞬だけ動きを止めた。
「…………」
『……邪魔しちゃ悪いなって思うんですけど、つい話しかけたくなっちゃって』
私は照れくさくなって笑った。
『……迷惑だっただろうなぁ』
彼は、しばらく黙っていた。
それから。
「……案外、そうでもなかったかもしれませんよ」
『……え?』
「……その人も」
彼は庭園を見つめた。
「……本当は、嬉しかったのかもしれません」
胸が、少しだけ温かくなった。
『……そうだったら、いいな』
⸻
午後三時を過ぎた頃。
庭園の奥で、小さなイベントが開かれていた。
昔ながらの遊びや、簡単なゲームを体験できる催しらしい。
『……あ、チェスだ!』
テーブルに並べられた盤を見つけ、思わず声を上げた。
彼が隣に立つ。
「……お好きなんですか」
『……好きっていうか、昔ちょっとだけ』
「……そうですか」
『でも、すっごく弱いんですよ』
「……それは、見てみたいですね」
『……えっ』
彼は、少しだけ口元を緩めた。
「……一局、いかがですか」
『……絶対負けますよ?』
「……やってみなければ分かりません」
『……うーん』
私は少し悩んだあと、頷いた。
『……じゃあ、やります!』
⸻
向かい合って座る。
彼は白い駒。
私は黒い駒。
盤面を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
『……懐かしい』
「……そうですか」
『はい。昔、よくやってたんです』
彼は駒を動かした。
「……では、お手並み拝見ですね」
『……期待しないでくださいね』
私は慎重に駒を動かす。
彼は、ほとんど迷わず次の手を指した。
『……早っ』
「……そうでしょうか」
『……もうちょっと悩んでくださいよ!』
「……必要がありませんので」
『……むっ』
彼は小さく笑った。
⸻
十分後。
『……えっ、待って』
私は盤面を見つめた。
『……これ、もう負けてません?』
「……そうですね」
『……ひどい!』
「……勝負ですから」
『……少しくらい手加減してくれてもいいじゃないですか!』
彼は静かに首を傾げた。
「……手加減されて、嬉しいですか」
『……それは、嫌ですけど!』
「……では、問題ないでしょう」
『……うぅ』
私は頭を抱えた。
そのとき。
「……ほら」
彼が、盤面の一角を指さした。
「……ここ、見落としてますよ」
『……え?』
「……まだ、一手だけ残っています」
私は顔を上げた。
『……本当ですか!?』
「……ええ」
私は慌てて駒を動かした。
すると、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「…………」
『……どうしました?』
「……いえ」
彼は、私の動かした駒を見つめていた。
「……その手を選ぶんですね」
『……えっ、だめでした?』
「……いいえ」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「……昔、同じ手を選んだ人がいたので」
⸻
心臓が、どくんと鳴った。
『……昔?』
「……ええ」
『……その人も、チェスが苦手だったんですか?』
彼は少しだけ笑った。
「……驚くほど」
『……ひどい言い方!』
「……事実ですから」
私は思わず笑った。
けれど。
胸の奥が、ざわついていた。
昔。
夢の中で、刹那とチェスをしたことがある。
何度やっても勝てなくて。
悔しくて。
最後に、彼が一手だけ教えてくれた。
あのとき。
私は、何と言ったんだっけ。
⸻
刹那は、目の前の女性を見つめていた。
十年前。
夢の中で、少女が同じように盤面を覗き込んでいた。
――ねえ、これって、まだ勝てる?
「……一手だけな」
そう言って、駒の動かし方を教えた。
少女は嬉しそうに笑って。
そして。
――これで勝てたら、私の実力ってことでいいよね!
「……っ」
刹那は、思わず息を止めた。
目の前の女性が、笑いながら言ったのだ。
『……これで勝てたら、私の実力ってことでいいですよね!』
⸻
一瞬。
周囲の音が、遠くなった。
「…………」
刹那は、彼女を見つめた。
十年前と、同じ言葉。
同じように、少し得意げな笑顔。
そして。
同じ盤面で、同じ手を選んだ。
「……雨宮さん」
声が、掠れた。
『……はい?』
「……今、何と?」
『……え?』
彼女は首を傾げる。
『……これで勝てたら、私の実力ってことでいいですよね、って』
「…………」
刹那は、何も言えなかった。
偶然。
そう言い聞かせようとした。
けれど。
名前。
庭園。
ピアノ。
本。
チェス。
そして、今の言葉。
あまりにも、重なりすぎている。
「……神城さん?」
彼女が心配そうに顔を覗き込む。
『……大丈夫ですか?』
刹那は、ゆっくりと息を吸った。
「……ええ」
何とか、笑う。
「……少し、驚いただけです」
『……そうですか?』
「……はい」
彼は、盤面へ視線を落とした。
指先が、わずかに震えていた。
⸻
ゲームを終えたあと。
私たちは庭園の奥へ向かって歩いていた。
私は、さっきの彼の様子が気になっていた。
いつも冷静な人なのに。
あんなに驚いた顔を見たのは、初めてだった。
『……あの』
「……はい」
『……さっき、何かありました?』
彼は少しだけ黙った。
「……昔のことを、思い出しまして」
『……昔のこと?』
「……ええ」
私は、そっと彼を見上げた。
『……大切な思い出ですか?』
彼は、静かに頷いた。
「……とても」
その声が、あまりにも優しくて。
私は、それ以上聞けなかった。
⸻
帰り際。
噴水の前で、彼が足を止めた。
「……雨宮さん」
『……はい?』
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
『もちろんです!』
彼は、少しだけ迷った。
そして。
「……子どもの頃、よく夢を見る方でしたか」
⸻
胸が、どくんと鳴った。
『…………え?』
夢。
その言葉が、頭の中で響いた。
私は、彼を見つめた。
彼は、いつになく真剣な表情をしていた。
「……いえ。少し、気になりまして」
『…………』
どうして。
どうして、そんなことを聞くの。
私は、喉の奥が詰まるのを感じた。
でも。
怖かった。
もし、違ったら。
もし、ただの偶然だったら。
この人との関係が、壊れてしまうかもしれない。
だから。
『……はい』
小さく頷いた。
『……昔は、よく見てました』
彼の目が、わずかに見開かれる。
「……どんな夢を?」
私は、少しだけ笑った。
『……内緒です』
「…………」
『……大切な夢だったので』
彼は、しばらく私を見つめていた。
それから。
「……そうですか」
静かに頷いた。
「……失礼しました」
『……いえ!』
私は慌てて首を振った。
『……神城さんは?』
「……私も」
彼は、噴水を見つめた。
「……昔、よく夢を見ていました」
『…………』
「……もう、見なくなりましたけどね」
その言葉に、胸が痛んだ。
私も。
私も、そうだった。
けれど。
それ以上、何も言えなかった。
⸻
その夜。
刹那は、眠れずにいた。
目を閉じると、今日の彼女の笑顔が浮かぶ。
チェス盤。
あの一手。
そして、あの言葉。
「……これで勝てたら、私の実力ってことでいいよね」
十年前の少女の声と、今日の女性の声が重なる。
「…………」
刹那は、ゆっくりと起き上がった。
書斎へ向かう。
引き出しを開け、古い地図を取り出す。
そこには、幼い文字で書かれていた。
――さくらがいつも座る場所。
彼は、その文字を見つめた。
そして。
「……お前なのか」
誰もいない部屋で、呟いた。
「……本当に、さくらなのか」
返事は、なかった。
⸻
同じ夜。
私は、ベッドの上で膝を抱えていた。
『……どうして、夢の話なんて』
彼の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
――昔、よく夢を見ていました。
――もう、見なくなりましたけどね。
あの庭園。
同じ名前。
同じような思い出。
そして、夢。
『…………』
私は、引き出しから古いノートを取り出した。
最後のページ。
――絶対迎えに行く。だから待ってろよ、馬鹿。
指先で、その文字をなぞる。
『……刹那』
小さく名前を呼んだ。
そして、初めて。
あの夢が、本当に夢だったのか。
分からなくなった。




