「絶対、迎えに行くから。」
八日目の夜。
私は、もう何も期待しないようにしていた。
期待して、目が覚めて、がっかりする。
そんな朝を、七回も繰り返したから。
それでも、眠りに落ちる直前。
心のどこかで、願ってしまう。
――刹那に、会いたい。
⸻
最初に聞こえたのは、水の音だった。
ちゃぷん、と。
小さな波が、木の船べりを叩いている。
『……え?』
目を開けると、私は小さなボートの上に座っていた。
夜だった。
見渡す限り、静かな水面が広がっている。
そこには、数えきれないほどの薔薇の花びらが浮かんでいた。
淡い桃色や白い花びらが、波に揺られてゆっくりと流れていく。
そして、空には。
『……わあ』
無数のランタンが浮かんでいた。
橙色の光を宿したランタンが、ひとつ、またひとつと夜空へ昇っていく。
星と見間違えるほど遠くにあるものもあれば、手を伸ばせば届きそうなものもある。
水面にはその光が映り込み、まるで空と湖の境目がなくなってしまったようだった。
息をするのも忘れるほど、美しい景色。
けれど、私はすぐに気づいた。
ボートの向かい側。
そこに、見慣れた男の子が座っていることに。
『……刹那?』
彼は俯いていた。
私の声を聞いた瞬間、ゆっくりと顔を上げる。
「…………さくら?」
その声が、信じられないほど小さかった。
『……刹那!』
立ち上がろうとすると、ボートが大きく揺れた。
「おい、馬鹿! 立つな!」
慌てて伸びてきた手が、私の腕を掴む。
懐かしい声。
懐かしい温かさ。
それだけで、涙が溢れた。
『……っ、刹那……!』
「……おい」
『会いたかった……!』
気づけば、私は彼の胸に飛び込んでいた。
ボートがまた揺れる。
「……っ、危ねぇだろ!」
そう怒鳴りながらも、刹那は私を突き放さなかった。
むしろ、背中に回された腕が、痛いくらい強くなる。
「……七日」
耳元で、低い声がした。
「……七日も、何してやがった」
『……だって、夢が見られなくて……』
「……知るかよ」
『……ごめんね』
「……謝んな」
彼は私の肩に顔を埋めた。
「……俺も、会えなかった」
その声が震えていて。
私は、何も言えなくなった。
⸻
どれくらい、そうしていただろう。
ようやく体を離すと、刹那はいつものように不機嫌そうな顔をしていた。
ただ、目元が少し赤かった。
『……刹那、泣いた?』
「……泣いてねぇよ」
『ほんと?』
「……うるせぇ」
私は笑った。
七日ぶりに、心から笑えた気がした。
刹那は私を見つめ、ふっと息を吐く。
「……ったく。笑ってんじゃねぇよ」
『だって、嬉しいんだもん』
「……そうかよ」
彼は私の手を握ったまま、離さなかった。
⸻
ボートは、誰も漕いでいないのにゆっくりと進んでいた。
空にはランタン。
水面には薔薇。
どこからか、静かな音楽が聞こえてくる。
『……綺麗だね』
「……ああ」
『こんな夢、初めて』
「……俺も」
刹那は空を見上げた。
「……いつもの庭じゃねぇんだな」
『……うん』
『でも、刹那がいてよかった』
彼は私を見た。
そして、何かを決めたように、小さく息を吸った。
「……さくら」
『……なに?』
「……話がある」
いつもと違う声だった。
私は自然と背筋を伸ばした。
『……うん』
刹那は少しだけ眉を寄せる。
「……先に言っとくけど、笑うなよ」
『……笑わないよ』
「……絶対だからな」
『うん』
彼は一度、目を伏せた。
「……俺さ」
言いかけて、止まる。
「……くそ。何でこんな言いづれぇんだよ」
『……刹那?』
「……ちょっと黙ってろ」
『……はい』
私は思わず笑いそうになって、慌てて口を閉じた。
刹那は深く息を吐いた。
「……最初、お前のこと嫌いだった」
『……えっ』
「……うるせぇし、馬鹿だし、勝手に人の隣座ってくるし」
『……ひどい』
「……でも」
彼の指が、私の手を握り直した。
「……いつの間にか、お前が来るのを待ってた」
私は顔を上げた。
「……学校で何かあっても、ここに来ればお前がいるって思ってた」
「……面倒くせぇことばっかの毎日でも、お前と話してりゃ、どうでもよくなった」
刹那は少しだけ笑った。
「……俺、ずっと自由になりたかったんだよ」
『……うん』
「……でも、今は違う」
彼は私をまっすぐ見つめた。
「……自由になったら、何したいか分かった」
『……何?』
「……お前と、どっか行きてぇ」
胸が、大きく鳴った。
「……こんな夢じゃなくてさ。普通に街歩いて、飯食って、くだらねぇことで喧嘩して」
彼は照れくさそうに視線を逸らす。
「……お前が好きそうな花、見に行ったり」
『……刹那』
「……何でもいいんだよ。お前となら」
私は息を呑んだ。
刹那はもう一度、こちらを向いた。
その瞳は、真剣だった。
「……さくら」
『……うん』
「……俺、お前が好きだ」
その瞬間。
夜空に、大きな花火が咲いた。
――ドンッ。
金色の光が、空いっぱいに広がる。
続いて、桃色、白、淡い紫。
無数のランタンの向こうで、花火が次々と咲いていく。
水面にも光の花が映り、二人を包み込んだ。
けれど、私は花火を見ることができなかった。
刹那から、目が離せなかった。
「……夢の中の奴を好きになるとか、馬鹿みてぇだろ」
彼は困ったように笑った。
「……でも、どうしようもねぇんだよ」
私は、唇を噛んだ。
涙が、頬を伝う。
『……私も』
「…………」
『……私も、刹那が好き』
彼の目が、大きく見開かれた。
『ずっと、会いたかった……』
『……夢でもいいから、刹那に会いたかった』
刹那は何も言わなかった。
ただ、私を見つめていた。
そして。
「……あー、くそ」
片手で顔を覆う。
「……マジかよ」
『……え?』
「……嬉しすぎて、どうにかなりそう」
初めて見る、そんな顔。
私は泣きながら笑った。
刹那も、少しだけ笑った。
⸻
「……そうだ」
ふいに、刹那が呟いた。
『……ん?』
「……何か、入ってる」
彼は制服のポケットに手を入れた。
取り出したのは、小さな箱だった。
「……何だこれ」
『……箱?』
「……見りゃ分かる」
刹那は蓋を開けた。
中には、二つの指輪が並んでいた。
銀色の、細い指輪。
小さな石がひとつずつ埋め込まれている。
『……わあ』
「……ペアリング、か」
刹那はしばらく、それを見つめていた。
それから、ふっと笑う。
「……随分、都合のいい夢だな」
『……ふふっ』
彼は片方の指輪を取り出した。
「……さくら」
『……なに?』
「……手、出せ」
『……え?』
「……いいから」
私はおずおずと左手を差し出した。
刹那は、その手を取ろうとした。
「……今すぐどうこうって話じゃねぇけど」
少し照れくさそうに、彼は言う。
「……いつかさ」
『……うん』
「……ちゃんと大人になったら、お前を迎えに行く」
私は目を見開いた。
「……そんとき、俺と――」
彼の指先が、私の薬指に触れる。
……はずだった。
「…………え?」
指が、すり抜けた。
『……え?』
刹那はもう一度、私の手を掴もうとした。
けれど。
彼の手は、私の手を通り抜けてしまった。
まるで、私が煙になってしまったみたいに。
『……刹那?』
「……おい」
彼の顔から、血の気が引いた。
「……何だよ、これ」
私は自分の手を見つめた。
透けている。
指先の向こうに、夜空のランタンが見える。
『……うそ』
「……ふざけんな」
刹那は私の腕を掴もうとした。
何度も。
何度も。
けれど、そのたびに手は空を切った。
「……おい、さくら!」
『……刹那!』
その瞬間。
――ぱきん。
小さな音がした。
空に、亀裂が入った。
『……え?』
ひび割れた夜空から、星がこぼれ落ちる。
ランタンが、ひとつ、またひとつと光を失っていく。
水面が四角く割れた。
薔薇の花びらが、宙に浮かぶ。
まるで、巨大なパズルを誰かが壊しているみたいに。
世界が、少しずつ崩れ始めた。
「……っ、何なんだよ!」
刹那は叫んだ。
「……まだ、終わってねぇだろ!」
花火が、途中で砕け散った。
金色の光が、無数の破片になって落ちてくる。
『……刹那、怖い……!』
「……分かってる!」
彼は必死に手を伸ばした。
けれど、もう触れられない。
私の身体は、少しずつ透明になっていく。
『……嫌だ』
声が震えた。
『……せっかく、会えたのに』
「……っ」
『……やっと、好きって言えたのに……!』
刹那は歯を食いしばった。
泣きそうな顔だった。
いつも偉そうで、意地悪で。
何でもできるはずの彼が。
今は、どうしようもないほど必死に、私を掴もうとしていた。
「……まだ行くなよ」
いつもの言葉。
けれど、今までとは違った。
「……頼むから、さくら」
『……刹那……』
「……俺、まだ何もしてねぇ」
彼の声が、掠れた。
「……お前と行きてぇ場所、山ほどあんだよ」
世界が崩れる。
ボートが砕ける。
水面が消えていく。
私たちの間に、黒い空間が広がった。
『……刹那!』
彼は最後まで、手を伸ばしていた。
触れられないと分かっていても。
もう、何も掴めないと分かっていても。
それでも、決して諦めようとしなかった。
そして。
「……絶対迎えに行く」
涙を堪えるように、顔を歪めながら。
刹那は、私をまっすぐ見つめた。
「だから待ってろよ、馬鹿」
宙を掴む指先が、震えていた。
私は泣きながら、頷いた。
『……うん』
『……待ってる』
彼の姿が、崩れた世界の向こうへ消えていく。
最後まで、私に向かって伸ばされた手だけが見えていた。
⸻
目を覚ました。
真っ暗な部屋。
いつものベッド。
いつもの天井。
けれど、何かが決定的に違っていた。
『……刹那?』
返事はない。
私は震える手を持ち上げた。
左手の薬指。
そこには、何もなかった。
『……っ』
涙が溢れた。
夢だった。
全部、夢だった。
それなのに。
あの指輪の冷たさも。
刹那の泣きそうな顔も。
最後の言葉も。
何ひとつ、忘れられなかった。
『……待ってるよ』
誰もいない部屋で、私は呟いた。
『……絶対、待ってるから』
窓の外では、夜が静かに明け始めていた。
あの庭園で出会ってから、四年。
初めて好きになった人は、夢の中の男の子だった。
そして、その夜を最後に。
私は二度と、あの夢を見ることがなかった。




