「この気持ちの名前は」
その夜、私はいつもより早く布団に入った。
目を閉じれば、きっと会える。
そう思っていたのに、なかなか眠れなかった。
昨日の刹那の声が、耳から離れない。
――だったら、ずっとここにいろよ。
あんな顔、初めて見た。
『……ずるいよ』
小さく呟いて、布団を頭までかぶった。
⸻
目を開けると、庭園には雨が降っていた。
細い雨粒が噴水の水面を叩き、薔薇の花びらを濡らしている。
いつものベンチに刹那はいなかった。
『……刹那?』
返事はない。
私は洋館へ向かった。
玄関を抜け、長い廊下を歩く。
書斎にも、音楽室にもいない。
胸の奥が、少しずつ冷たくなった。
『……刹那!』
ようやく見つけたのは、二階の大きな窓の前だった。
彼は腕を組み、雨の庭園を見下ろしていた。
「……遅ぇよ」
振り返った刹那は、いつもどおり不機嫌そうだった。
私は思わず駆け寄った。
『よかった……!』
「……は?」
『いないかと思った』
「……いるだろ、普通に」
『だって、どこにもいないんだもん』
「……お前が勝手に騒いでただけだろ」
ひどい言い草だ。
でも、その声を聞いた途端、張りつめていたものが緩んだ。
刹那は私の顔を見て、眉をひそめる。
「……おい。泣くなよ」
『泣いてない!』
「……じゃあ、その顔何だよ」
『知らない!』
彼はため息をついた。
それから、私の頭にぽんと手を置いた。
「……いるっての。馬鹿」
たったそれだけで、泣きそうになった。
⸻
雨がやむまで、私たちは窓辺の長椅子に座っていた。
『……ねえ、刹那』
「……ん」
『昨日のこと、怒ってる?』
「……何で」
『だって、すごく怖い顔してたから』
彼はしばらく黙っていた。
「……お前に怒ってたわけじゃねぇよ」
『……うん』
「……ただ、気に食わねぇだけ」
『何が?』
「……俺の思いどおりにならねぇこと」
刹那らしい答えだった。
私は小さく笑う。
『刹那でも、そういうことあるんだね』
「……当たり前だろ」
『何でもできるのに?』
「……何でもできるわけじゃねぇよ」
彼は窓の外に視線を戻した。
「……現に、夢ひとつどうにもできねぇ」
その横顔が、ひどく寂しそうに見えた。
私はそっと、彼の袖をつまんだ。
『……私、ここに来るのが一日の中で一番楽しみなんだ』
「…………」
『学校も楽しいよ。友達もいるし、やりたいこともいっぱいある。でもね』
私は自分の指先を見つめた。
『嬉しいことがあると、刹那に話したくなるの』
彼がこちらを向いた。
『嫌なことがあったら、刹那に聞いてほしいし。面白いものを見つけたら、一緒に見たいって思う』
言葉にしてみると、不思議だった。
今まで当たり前だと思っていたことが、急に特別なことのように感じられる。
『……だから、会える時間が短くなるの、すごく嫌』
刹那は何も言わなかった。
けれど、私の袖をつまんでいた手に、彼の指が重なった。
「……俺もだよ」
『……え?』
「……何かあるたび、お前なら何て言うか考える」
彼は苦々しそうに眉を寄せた。
「……くだらねぇことでも、話したくなる。自分でも意味分かんねぇ」
胸が、どくんと鳴った。
「……お前のせいで、調子狂うんだよ」
『……それ、私が悪いの?』
「……悪ぃだろ」
『ひどい!』
いつもなら、ここで笑い合うはずだった。
けれど。
刹那は笑わなかった。
ただ、私をまっすぐ見つめていた。
「……さくら」
『……なに?』
「……お前さ」
そのとき。
窓の外の雨音が、ふっと遠のいた。
『……あ』
景色の端が白く滲んでいる。
まだ、来たばかりなのに。
刹那も気づいたらしい。
「……っ、またかよ」
彼は立ち上がり、私の手を掴んだ。
「……まだ行くなよ」
『……うん』
「……話、終わってねぇだろ」
『……うん』
握られた手が、温かい。
私は彼を見上げた。
『……ねえ、さっき何を言おうとしたの?』
刹那は唇を結んだ。
しばらくして、低い声で答えた。
「……忘れた」
『嘘つき』
「……うるせぇ」
それでも、彼は手を離さなかった。
白い光が足元から広がっていく。
『……明日、教えてね』
「……気が向いたらな」
『約束!』
「……勝手に決めんな、馬鹿」
最後に見えた刹那は、少し困ったように笑っていた。
⸻
目を覚ました私は、天井を見つめたまま動けなかった。
刹那の言葉が、頭の中を何度も巡る。
――何かあるたび、お前なら何て言うか考える。
『……私と同じだ』
そう呟いた瞬間、胸がきゅっと苦しくなった。
私は刹那のことを、いつからこんなに考えるようになったんだろう。
会えないと寂しくて。
会えると嬉しくて。
手を握られるだけで、心臓がうるさくなる。
『……あれ』
そこまで考えて、私はようやく気づいた。
この気持ちには、名前がある。
『……好き、なのかな』
声に出した途端、顔が熱くなった。
私は慌てて枕に顔を埋める。
『……うそ。どうしよう』
夢の中の男の子を、好きになってしまった。
しかも、あんな口の悪い、意地悪な奴を。
それなのに。
思い浮かぶのは、優しく頭に触れた手と、私を呼ぶ低い声ばかりだった。
⸻
同じ朝。
遠く離れた場所で、神城刹那は目を覚ました。
ベッド脇の時計を見て、舌打ちする。
「……短すぎんだろ」
まだ、言えていないことがあった。
あいつが笑うと嬉しい。
泣いていると腹が立つ。
他の男の話をされると、面白くない。
それなのに、どうして自分がそんなふうになるのか、ずっと考えないようにしていた。
刹那は片腕で目元を覆った。
「……マジかよ」
ようやく分かった。
分かってしまえば、馬鹿みたいに簡単なことだった。
「……好き、なのかよ」
誰もいない部屋に、呆れた声が落ちる。
よりによって、夢の中の女に。
刹那は深く息を吐いた。
そして、昨夜の続きを思い出す。
――お前さ。
あのあと、何を言おうとしていたのか。
本当は、忘れてなんかいなかった。
「……言えるわけねぇだろ。馬鹿」
けれど、その口元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。




