番外編 「この気持ちは」ー刹那目線
雨宮さくらは、俺の夢に出てくる女だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思っていた。
少なくとも、少し前までは。
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「……おい、さくら」
『なに?』
「お前、今日何かあった?」
『え? どうして?』
「……やけに機嫌いいから」
『いつも機嫌いいよ!』
「そうだったな。馬鹿は悩みがなくて羨ましいわ」
『ひどい!』
頬を膨らませるさくらを横目に、俺は本を閉じた。
こいつと出会ってから、もう何年も経つ。
最初は鬱陶しいだけだった。
それがいつの間にか、夢の中でこいつを探すのが当たり前になっていた。
現実では、相変わらず忙しい。
学校が終われば予定が詰まっているし、休みの日には父親の仕事に同行することも増えた。
人前で失敗することは許されない。
一度教わったことは覚えて当然。
求められるのは、いつだって完璧な結果だった。
別に、それが嫌なわけじゃない。
……いや。
嫌だと思ったところで、どうにもならないだけだ。
けれど、夜になれば。
『刹那!』
あの馬鹿みたいに明るい声が聞こえる。
俺が何者だろうと関係なく、勝手に隣へ座ってくる。
そして、くだらねぇ話を延々と続ける。
……それが、案外悪くなかった。
⸻
あいつに告白された男がいると聞いたのは、中学三年の頃だった。
『今日ね、同じクラスの男の子に告白されたの!』
最初は、聞き間違いかと思った。
「……は?」
『だから、告白されたんだって!』
……何でそんな嬉しそうなんだよ。
「……で、返事は?」
『まだしてないよ』
「……好きなのかよ、そいつのこと」
『うーん、分かんない』
……分かんねぇなら付き合うなよ。
喉まで出かかった言葉を、結局そのまま口にした。
「好きでもねぇ奴と付き合ってどうすんだよ。馬鹿じゃねぇの」
正論だ。
間違ったことは言っていない。
なのに、あいつがその男の話をするたび、どうしようもなく苛立った。
優しい。
面白い。
サッカーが上手い。
……だから何だよ。
そんな奴、どこにでもいるだろ。
俺の知らない場所で、俺の知らない男が、あいつと同じ時間を過ごしている。
そんな当たり前のことが、妙に気に食わなかった。
……我ながら意味が分からねぇ。
そもそも、あいつは夢の中の人間だ。
現実にいるはずがない。
夢の中の女が、夢の中で誰と付き合おうが、俺には何の関係もない。
そう考えているのに。
「……変な奴と付き合うんじゃねぇぞ」
結局、そんなことしか言えなかった。
⸻
決定的だったのは、あのハロウィンの夜だ。
目を開けた瞬間、庭園が馬鹿みたいに飾りつけられていた。
かぼちゃに、ランタンに、紫色の噴水。
……何だ、この悪趣味な夢は。
しかも、俺まで妙な燕尾服を着せられていた。
最悪だ。
そう思っていたところに、あいつが現れた。
『刹那!』
振り返った俺は、一瞬だけ言葉を失った。
黒と紫のドレス。
小さな魔女の帽子。
いつも無造作に下ろしている髪も、今日は少しだけ綺麗に整えられていた。
『どう? 似合う?』
そう言って、あいつはその場でくるりと回った。
ふわりと広がるスカート。
楽しそうに細められた目。
……何だよ。
いつもと同じ顔だろ。
なのに。
「……まあ、悪くねぇんじゃね」
それだけ言うのが精一杯だった。
『えー! もっと褒めてよ!』
……無茶言うな。
こっちは今、どういう顔すりゃいいのかも分かんねぇんだよ。
⸻
晩餐会では、妙なことばかり起きた。
勝手に動く料理。
宙を飛ぶおばけ。
やたらと陽気な骸骨の楽団。
その中で、一番厄介だったのが。
「まあまあ、仲のよろしい恋人さんたち!」
……あの余計なことを言ったおばけだ。
『こ、恋人じゃありません!』
「誰がこんな馬鹿と!」
反射的に否定した。
当たり前だ。
恋人なわけがない。
……ただ。
あいつがあんなに慌てて否定したことが、少しだけ面白くなかった。
いや、俺だって否定したけど。
……くそ。
何なんだよ、この気分。
そのあと、ダンスに誘われた。
あいつは踊れないと言って困っていた。
俺だって、わざわざ夢の中でまで踊るつもりはなかった。
それなのに。
『……刹那、踊れるの?』
期待したような目で見上げられて。
「……一応な」
気づけば、手を差し出していた。
……本当に、調子が狂う。
あいつの手は、思っていたより小さかった。
肩に触れた指先が、少しだけ震えている。
『……だって、近い』
「……踊るんだから当たり前だろ」
そう答えながら、俺も妙に落ち着かなかった。
音楽に合わせて、あいつの身体を導く。
一歩。
二歩。
そして、三歩目で足を踏まれた。
「……いってぇ!」
『ご、ごめん!』
……ったく。
やっぱり、こいつはこいつだ。
そう思ったら、少しだけ緊張が解けた。
何度も足を踏まれながら、ようやく一曲踊り終えた。
そのとき、あいつが笑った。
『……楽しいね』
……ああ。
楽しかった。
現実で習わされたダンスなんて、何度もある。
正しい姿勢。
正しい足運び。
正しい礼儀。
間違えないことばかり考えていた。
けれど、あいつとのダンスはひどい出来だった。
何度も足を踏まれたし、途中で笑ってしまったし。
きっと採点されたら、散々な結果だっただろう。
……それなのに。
今まで踊ったどの曲よりも、楽しかった。
⸻
あの夜から、俺は少しおかしくなった。
さくらが近くに座るだけで、妙に意識する。
腕を引っ張られると、その手を見てしまう。
目が合うと、先に逸らしたくなる。
……馬鹿馬鹿しい。
相手は、俺の夢が勝手に作り出した女だぞ。
そんなものに何を期待してんだ。
そう思うのに。
『刹那!』
名前を呼ばれるだけで、嬉しくなる。
『今日も会えたね!』
笑いかけられるだけで、安心する。
……認めたくなかった。
こんな感情、俺には必要ない。
ましてや、現実には存在しない相手に向けるものなんて。
どう考えたって、無駄だろ。
でも。
もし、これが恋じゃないとしたら。
俺はもう、恋なんて一生分からない気がした。
⸻
高校生になった春。
あいつは、新しい制服の話を嬉しそうにしていた。
『今日から高校生なの!』
「……知ってる。昨日も聞いた」
『だって嬉しいんだもん!』
……よく飽きねぇな。
そう思いながらも、俺はその話を最後まで聞いていた。
新しい教室。
新しい友達。
これから始まる学校生活。
俺の知らない、あいつの日常。
その中に、俺はいない。
当然だ。
俺は、こいつの夢の中にしかいないんだから。
……それが、妙に悔しかった。
もし、現実で会えたら。
一緒に学校へ行ったり。
くだらねぇことで喧嘩したり。
放課後に寄り道したり。
そんなことも、できたんだろうか。
……何考えてんだ、俺。
ありもしないことを想像して、どうする。
俺は小さく息を吐いた。
すると、あいつがこちらを覗き込んできた。
『……刹那?』
「……何」
『どうしたの?』
「……別に」
『ふーん?』
……ほんっと、勘のいいときと悪いときの差が激しい奴。
俺はあいつの額を軽く小突いた。
「……余計なこと考えてねぇで、さっさと行くぞ」
『痛っ! もう、何するの!』
……そうだ。
今は、これでいい。
今だけは。
⸻
異変に気づいたのは、それから少し経った頃だった。
最初は、気のせいだと思った。
庭園で過ごせる時間が、以前より短い。
本を一冊読み終えるどころか、数ページめくっただけで景色が霞み始める。
洋館へ行っても、何かを始める前に終わってしまう。
……おかしい。
明らかに、おかしい。
俺は夢の中で時計を探した。
洋館の廊下にある古時計。
書斎の置き時計。
寝室の壁時計。
けれど、どれも針の進み方が滅茶苦茶だった。
夢の中で時間を測ろうとすること自体、無意味なのかもしれない。
……くそ。
分からねぇ。
原因も、法則も。
どうすれば長くいられるのかも。
現実なら、調べればいい。
問題があるなら、解決策を探せばいい。
けれど、夢にはそれが通用しなかった。
そして何より。
俺には、どうしても認めたくないことがあった。
……あいつと離れるのが、怖い。
たったそれだけのことが。
今まで経験したどんな失敗よりも、怖かった。
⸻
その日、俺たちは洋館の書斎でチェスをしていた。
『今日は絶対勝つからね!』
「……何回目だよ、それ」
『今日こそは!』
「はいはい」
いつもどおりだった。
いつもどおりのはずだった。
なのに。
『……あれ?』
窓の外が、白く滲み始めた。
……嘘だろ。
まだ、始めたばかりだぞ。
「……ふざけんなよ」
思わず、声が漏れた。
あいつが不安そうに俺を見る。
『……刹那?』
「……何でだよ」
何で、こんなに早い。
何で、もっと一緒にいられない。
何で。
……何で、こいつなんだよ。
現実にいる女なら、会いに行けばいい。
連絡先を聞けばいい。
約束すればいい。
でも、こいつには何もできない。
俺がどれだけ望んだところで、夢が終われば消えてしまう。
『……また明日、会えるよ』
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「……それ、何の保証があんだよ」
言った瞬間、後悔した。
あいつが悪いわけじゃない。
そんなこと、分かってる。
「……悪ぃ。今のは忘れろ」
俺は顔を背けた。
すると、あいつが近づいてきた。
『……私も、もっと一緒にいたいよ』
……やめろ。
『……最近、全然足りないもん』
そんな顔で言うな。
そんな声で、俺を呼ぶな。
期待しちまうだろうが。
気づけば、手を伸ばしていた。
頬に触れたかった。
あいつがここにいることを、確かめたかった。
けれど、途中で止めた。
……何やってんだ、俺。
夢の中の女に、本気になって。
どうしようもねぇだろ。
それでも。
「……まだ行くなよ」
あいつの手を掴んでいた。
「……頼むから」
情けねぇ。
こんな声、誰にも聞かせたことがない。
『……私だって、行きたくないよ』
……っ。
『……もっと一緒にいたい』
その瞬間。
胸の奥で、何かが決定的に変わった。
ああ。
……そうか。
俺は、こいつが好きなんだ。
今さら、何を。
ずっと前から分かっていたくせに。
認めたくなかっただけだ。
夢だから。
現実にはいないから。
好きになったって、どうにもならないから。
……そんなの、全部言い訳だった。
「……だったら、ずっとここにいろよ」
言ってから、自分の身勝手さに嫌気が差した。
そんなこと、できるわけがない。
それでも、手を離せなかった。
白い光が、あいつを包んでいく。
「……さくら」
名前を呼ぶ。
もう一度。
けれど、声は届かなかった。
そして。
俺の手の中から、あいつが消えた。
⸻
目を覚ました俺は、しばらく天井を睨んでいた。
静かな寝室。
閉じられたカーテン。
机の上には、今日の予定が書かれた手帳。
いつもと変わらない朝だった。
……なのに。
胸の奥に、どうしようもない空白があった。
俺は片手で顔を覆った。
「……くそ」
笑えてくる。
神城家の跡継ぎ。
何でもできて当たり前。
誰よりも優秀でいなければならない。
そうやって育てられてきた俺が。
たった一人の、夢の中の女に。
こんなにも振り回されている。
「……馬鹿じゃねぇの、俺」
誰もいない部屋に、声が落ちた。
それでも。
もう、認めるしかなかった。
俺は雨宮さくらが好きだ。
うるさくて。
馬鹿で。
泣き虫で。
人の都合なんかお構いなしに、俺の世界へ入り込んできた女。
……あいつが、好きだ。
俺はゆっくりと目を閉じた。
今夜も会えるだろうか。
明日も、その次も。
あの庭園で、あいつは笑っているだろうか。
もし、いつか会えなくなる日が来るのなら。
その前に。
……せめて、一度くらい。
ちゃんと伝えたい。
「……好きだって」
声にしてみると、思っていたよりずっと苦しかった。
俺は小さく息を吐き、ベッドから起き上がった。
今日も、やるべきことは山ほどある。
それでも。
今夜だけは、早く眠りたいと思った。
あいつに、会いたかった。




