番外編 「うるせぇ女」ー刹那目線
最初は、ただの鬱陶しい夢だった。
知らない庭園。
見覚えのない洋館。
やたらと綺麗な花と、馬鹿みたいに澄んだ空。
そして。
『ねえ!』
……うるせぇ女。
それが、雨宮さくらに対する第一印象だった。
⸻
十二歳の俺には、自由な時間なんてほとんどなかった。
朝は決まった時間に起こされ、学校が終われば家庭教師。週末には語学やピアノ、経営に関する勉強まで詰め込まれていた。
父親はよく言っていた。
「お前には、人の上に立つ責任がある」
その意味が分からないほど、俺は子どもじゃなかった。
自分が将来、何を継ぐのか。
そのために何を求められているのか。
嫌というほど理解していた。
だからこそ、余計なことは考えないようにしていた。
やるべきことをやる。
結果を出す。
失敗しない。
それだけだ。
……少なくとも、あいつに出会うまでは。
⸻
初めてあの庭園を訪れたとき、俺は夢だとすぐに理解した。
見知らぬ場所に突然立っていたのだから、当然だ。
どうせなら静かに過ごそうと、ベンチに腰を下ろして本を開いた。
そこへ現れたのが、あいつだった。
『ねえ、ここどこか知ってる?』
「知らねぇ」
『えー、そうなの?』
「見りゃ分かんだろ」
『……なんか、嫌な人』
……こっちの台詞だ。
初対面のくせに遠慮がない。
やたらと話しかけてくるし、勝手に隣に座るし、俺が何を読んでいるのかまで聞いてくる。
しかも、十二歳だと言ったら驚かれた。
……何がそんなに珍しいんだよ。
正直、面倒くさかった。
だから、さっさと消えればいいと思っていた。
……はずだった。
『……あれ?』
突然、あいつの輪郭が白く霞み始めた。
『そろそろ起きるみたい』
「……は?」
『じゃあね!』
そう言って、あいつは笑った。
何の躊躇いもなく。
まるで、最初から別れることが決まっていたみたいに。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
「……おい、待てよ」
あいつが振り返る。
『……え?』
「……行くなって!」
自分でも、何でそんなことを言ったのか分からなかった。
ただ。
あの騒がしい声が消えた途端、庭園が妙に静かになった。
……それが、気に食わなかった。
⸻
次にあいつが現れたとき、俺は少し驚いた。
同じ夢を二度見るなんて、珍しい。
しかも、また同じ女がいる。
『あっ! また会えた!』
「……またお前かよ」
そう言うと、あいつは頬を膨らませた。
……本当に、表情がころころ変わる奴だ。
名前は、雨宮さくら。
聞いてもいないことまで、嬉しそうに話してきた。
好きな食べ物。
学校であったこと。
最近見つけた面白い本。
どうでもいい話ばかりだった。
けれど、不思議と退屈はしなかった。
それどころか。
いつの間にか、俺はあいつが来るのを待つようになっていた。
……もちろん、認めるつもりはなかったけどな。
⸻
あいつと会うようになってから、夢を見るのが少しだけ楽しみになった。
現実では、誰も俺をただの子どもとして扱わない。
教師は期待する。
親は結果を求める。
周囲の大人たちは、俺の名前や立場ばかり気にする。
けれど、さくらは違った。
『刹那って、本当に意地悪!』
「お前が馬鹿なだけだろ」
『また馬鹿って言った!』
「事実だろ」
俺が何者なのかなんて、あいつは気にしない。
跡継ぎだと話しても、態度を変えなかった。
ただ、当たり前みたいに言った。
『ここなら、誰にも怒られないでしょ?』
……馬鹿だと思った。
そんな簡単な話じゃねぇんだよ、とも。
でも。
『それに、私もいるよ!』
そう言って笑った顔が、妙に頭から離れなかった。
現実では、弱音を吐くことも許されない。
疲れたと言えば、甘えるなと言われる。
できないと言えば、できるまでやれと言われる。
だから、誰にも言わなくなった。
……なのに。
あいつには、少しだけ話してしまった。
別に、理解してほしかったわけじゃない。
慰めてほしかったわけでもない。
ただ、あいつなら。
俺が何を言っても、いつもどおり馬鹿みたいに笑っている気がした。
それが、何となく安心できた。
⸻
月日が経つにつれて、あいつはますます遠慮がなくなった。
勝手に俺の本を覗く。
勝手に腕を引っ張る。
勝手に遊ぶ予定を決める。
……本当に、やりたい放題だ。
一度、池に落ちたときなんか、心臓が止まるかと思った。
橋の板が割れた瞬間。
あいつの身体が水の中へ消えた。
考えるより先に、身体が動いていた。
冷たい水に飛び込み、必死に腕を伸ばした。
ようやく引き上げたときには、怒りで頭が真っ白だった。
……いや。
違う。
怖かったんだ。
もし、間に合わなかったら。
もし、あいつが二度と目を開けなかったら。
そんなことを考えた自分に、腹が立った。
夢なんだから、そんなに必死になる必要なんてない。
頭では分かっていた。
それなのに、震えながら泣くあいつを見たら。
……もう、怒鳴れなかった。
「……もう怒ってねぇよ」
そう言うのが精一杯だった。
⸻
十五歳になった頃。
俺は、あいつの前で倒れた。
最悪だった。
体調が悪いことには気づいていた。
けれど、そんなもの、放っておけばいいと思っていた。
……それが間違いだった。
目の前が暗くなり、気づけばあいつに支えられていた。
『刹那!?』
……情けねぇ。
よりによって、こいつの前で。
弱っているところなんて、見せたくなかった。
なのに、あいつは俺を洋館へ連れていき、ベッドに寝かせた。
冷たいタオルを持ってきて。
下手くそなお粥まで作って。
『……刹那だって、具合悪くなることくらいあるよ』
……そんなの、分かってる。
分かってるけど。
誰かにそう言われたのは、初めてだった。
『今日はちゃんと休んで』
あいつの声を聞いていると、妙に力が抜けた。
気づけば、眠りかけたまま手を伸ばしていた。
「……勝手に消えんなよ」
……何言ってんだ、俺。
そんなこと言ったって、夢はいつか終わる。
分かっている。
それでも。
あいつが隣にいる間だけは、何も考えずに眠っていたかった。
⸻
それから、俺たちは少しずつ大人になった。
あいつは相変わらず、よく笑う。
よく喋る。
よく怒る。
そして、時々泣く。
勉強がうまくいかないと泣いていたときは、正直どうすればいいのか分からなかった。
俺は昔から、泣いたところで何も変わらないと思っていた。
だから、泣くくらいなら手を動かせと教えられてきた。
でも。
あいつが必死に涙を堪えているのを見たら、そんなことは言えなかった。
「……今は泣いとけ」
気づけば、肩を抱き寄せていた。
あいつは俺の服を掴んで、子どもみたいに泣いた。
……いや、まだ子どもか。
俺も、あいつも。
ただ。
その小さな身体が震えなくなるまで、離したくなかった。
それだけだった。
⸻
いつからだろう。
あいつが笑うと、少しだけ安心するようになったのは。
あいつが泣くと、どうしようもなく腹が立つようになったのは。
あいつが他の男の話をすると、面白くなくなったのは。
……考えたくもねぇ。
俺は昔から、分からないことが嫌いだった。
理解できないものは調べる。
解けない問題は、解けるまで考える。
そうやって生きてきた。
けれど。
雨宮さくらという女だけは、どうにも分からなかった。
夢の中にしかいない。
現実には存在しない。
俺の頭が勝手に作り出した、架空の人間。
……そのはずなのに。
「……まだ行くなよ」
別れ際、俺はいつも同じことを言っていた。
あいつは決まって笑う。
『また会えるよ』
……知ってる。
明日も、きっと会える。
それでも。
もう少しだけ、ここにいてほしかった。
あと一分でも。
あと一秒でも。
あいつと話していたかった。
……馬鹿みてぇだ。
夢の中の女に、何を本気になってんだよ。
そう思いながら。
俺は今日も、眠りにつく。
あのうるさい女に、また会うために。




