「何かがおかしい」
最近、少しだけ気になることがある。
それは、刹那と過ごす時間のことだった。
以前は、庭園を散歩して、洋館でお茶を飲んで、くだらない話をして。それでもまだ、時間が余るくらいだった。
けれど、最近は違う。
少し話しただけで、景色が白く霞んでしまう。
最初は気のせいだと思っていた。
高校に入ってから毎日が忙しくなったせいかもしれないし、そもそも夢なんて、そういうものなのかもしれない。
でも。
『……ねえ、刹那』
「……あ?」
『最近、時間短くない?』
隣で本を読んでいた刹那の指が止まった。
「……何の」
『ここにいられる時間』
彼は少し黙ってから、本を閉じた。
「……ああ。俺も思ってた」
『やっぱり?』
「前はもっと長かったよな」
『うん……』
噴水の音が、静かに響く。
私たちはしばらく、何も言わなかった。
⸻
『……ねえ、今日は何しようか』
「……お前、昨日もそれ聞いてたぞ」
『だって、やりたいこといっぱいあるんだもん』
「……欲張りだな」
『刹那と違ってね!』
「は? 俺だってやりてぇことくらいあるわ」
『えっ、何?』
刹那は少し考えた。
「……別に、大したことじゃねぇけど」
『教えてよ!』
「……お前と」
そこで言葉が止まった。
『……私と?』
「…………」
彼は気まずそうに顔を背けた。
「……チェス。最近やってねぇだろ」
『あ、確かに!』
「……ったく」
なぜか刹那は、ほっとしたような顔をした。
私は首を傾げながら立ち上がった。
『じゃあ、洋館行こ!』
「……おう」
彼も立ち上がり、私の隣に並んだ。
けれど、数歩進んだところで。
ふいに、彼の手が私の手に触れた。
『……あ』
「……何」
『……手』
「……あ?」
私は自分の手を見つめた。
触れたのは、ほんの一瞬。
それだけなのに、胸が妙に落ち着かなかった。
刹那も何か言いたげに私を見ていた。
「……お前さ」
『……うん?』
「……いや、何でもねぇ」
そう言って、彼は少しだけ歩幅を緩めた。
⸻
洋館の書斎で、私たちは向かい合って座った。
チェス盤を挟んで、刹那が意地悪そうに笑う。
「……今日は何手で負けるつもり?」
『今日は勝つもん!』
「……毎回それ言ってんな」
『うるさい!』
私は白い駒を動かした。
刹那はすぐに黒い駒を動かす。
いつものやり取り。
いつもの時間。
……のはずだった。
『……あれ?』
窓の外が、白く滲んでいる。
まだ、始めたばかりなのに。
『……刹那』
彼も気づいたらしい。
「……嘘だろ」
珍しく、苛立った声だった。
『……まだ全然遊んでないよ』
「……分かってる」
刹那はチェス盤を見下ろした。
そして、乱暴に椅子から立ち上がる。
「……ふざけんなよ」
『……刹那?』
「……何でだよ」
彼は窓の外を睨みつけた。
「……何で、こんなに早ぇんだよ」
私は何も言えなかった。
彼がこんなふうに怒るのは、珍しかった。
『……また明日、会えるよ』
そう言うと、刹那がこちらを向いた。
「……それ、何の保証があんだよ」
『……え?』
「……明日も絶対ここに来られるって、誰が決めた?」
その声は、少し震えていた。
私は息を呑んだ。
刹那はすぐに顔を背ける。
「……悪ぃ。今のは忘れろ」
『……刹那』
私は立ち上がり、彼のそばへ歩み寄った。
『……私も、もっと一緒にいたいよ』
彼の肩が、ぴくりと動いた。
「…………」
『……最近、全然足りないもん』
そう言って笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
刹那は私をじっと見つめていた。
それから、ゆっくりと手を伸ばす。
私の頬に触れそうになって。
……途中で、止まった。
「……っ」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「……くそ」
そして、代わりに私の手を掴んだ。
「……まだ行くなよ」
『……刹那』
「……頼むから」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
いつもは偉そうで、何でもできて。
弱音なんて滅多に吐かない彼が。
今、私の手を握りながら、こんなにも必死な顔をしている。
『……私だって、行きたくないよ』
気づけば、そう答えていた。
刹那は目を見開いた。
『……もっと一緒にいたい』
その瞬間。
彼の手に、ぎゅっと力がこもった。
「……だったら」
低い声。
「……だったら、ずっとここにいろよ」
私は何も答えられなかった。
ただ、彼の手を握り返す。
白い光が、二人の間に溢れていく。
「……さくら」
最後に聞こえたのは、私の名前だった。
⸻
目を覚ました私は、しばらく動けなかった。
胸が、苦しい。
悲しいわけじゃない。
怖いわけでもない。
ただ、刹那と離れることが、こんなにも嫌だったなんて。
『……どうしよう』
私は布団を握りしめた。
以前は、夢から覚めても平気だった。
また会えると思っていたから。
でも今は。
たった一晩でも、会えなくなるのが怖い。
『……刹那』
名前を呼んでも、返事はない。
私はそっと目を閉じた。
――もっと一緒にいたい。
その願いが、少しずつ夢の終わりを早めていることを。
このときの私たちは、まだ知らなかった。




