アリス・ロック
ジョンは休日に近くの中華料理店で先日の諜報員であるアリス・ロックと待ち合わせをした。中は複数の部屋に仕切られていて他の客に話を聞かれることがないので商談に使う客も多い。少し狭いが洒落た部屋でアリスとジョンは二人きりになるが、二人を恋人だとからかう者はいない。アリスは貴族らしく上品だし、情報技術分野で働いていた時の依頼主だとジョンがフォレストフィッシュの常連客と両親に説明すると珍しそうな顔をしたが誰も深入りしなかった。淑女の些細な悩みを地味な料理人が聴くだけだ。
食費は割り勘かジョンが奢るべきだろうと父親は勧めたが、アリスは料理代をアリスが奢ってジョンがチップを払えばよいと提案した。中華料理店の店員達は丁寧だがどことなくよそよそしい。フォレストフィッシュでは母親が客の話し相手になったり愛想よく注文を確認をしたり手際よく料理を運ぶ。チップはそこそこの値段をもらっている。ここの中華料理店は料理自体が高いのでチップはやや低めでもかまわないとジョンは思った。
早めに来たジョンが部屋で暫く待っているとアリスが来た。アリスは微笑みながら挨拶した。ジョンもぎこちなく返事をした。アリスは二歳年下の三十三歳だがMI6諜報員としての凄みと貴族としての気品があり、ジョンは緊張してしまう。アリスは仕事をしっかり誉めてこまめに労う優しい女性だが、少し近寄りがたい。アリスは暫く先日のジョンの料理と母親の接客を誉め、父親の慈善活動を応援していた。様々な民族・宗教・思想・性的少数者・障碍者が気楽に来て冗談や皮肉を楽しむフォレストフィッシュの客層を楽しそうに興味を示している。アリスは相変わらず観察眼が鋭いとジョンは感じた。
本題は何だろうとジョンが気になり始めた時にアリスは微笑みながら、
「貴方はクマムシに執着しているでしょう」
ジョンは息を飲んだ。自分の背筋が寒くなるのが分かる。ジョンは目を丸くして、
「ハッキングしたのですか」
アリスは苦笑いして、
「同僚が貴方のアクセスに違和感を感じて調べたの。上司がそれを知って私に貴方に会えと命じた」
ジョンは青白い顔をしてうつむいた。体が冷めているのに汗が出てくる。アリスは穏やかな声で、
「監視は確かに気持ち悪いけれど、政府も私達も貴方を罰するつもりはない。ただ、貴方のクマムシへの見解が知りたい」
ジョンは顔を上げて、
「貴方達はクマムシをどこまで知ってますか。クマムシはどうなりますか」
「クマムシは日本の問題だから私達や我が国がどうこうするつもりもないしできない。けれどもクマムシはあなたが思う以上に危険だよ」
ジョンの目が泳いだ。




