第二章④
ロランヌの朝の支度と朝食に付き添ったあと、ジャックは使用人用食堂であくびを噛み殺しながら新聞を読もうとしていた。
昨夜、ロランヌを部屋に送り届けてから、ジャックも自室に戻って眠ろうとしたが、やはり眠ることはできなかった。意識が途切れた瞬間はあったものの、それで体が休まるわけはない。休まらなくても朝が来れば、こうしてまた一日の仕事は始まる。
「ジャック、また眠れなかったのか」
何度めかのあくびを噛み殺していると、テーブルを挟んで向かいの席でコーヒーを飲んでいたバローに声をかけられた。
ジャックと同じお仕着せに身を包んでいるが、布地を押し上げるように全身に筋肉をまとっているため、とても同じものには見えない。何より、この姿で街を出歩いても、知らない人には執事には見えないだろう。
「いえ、全く眠れなかったというわけでは……」
「その顔色でよく言う。眠れんのは、疲れが足りんからだろう。今日から日中しっかり体を動かしておくように。何なら、稽古をつけてやる」
バローはそう言って、服の上からでもわかる力こぶを作ってみせた。そんなことをしたら布地が裂けてしまうのではと思ったが、裂けても縫うのはこの男だ。
サジュマン家の使用人はバローとジャックの二人だけだから、繕い物でも何でも、どちらかがやらねばならない。そして断然、この筋骨隆々のバローのほうが器用にこなしてしまう。
「……遠慮しときます。今夜もし眠れなかったら、調べものでもしますんで」
「たるんどるぞ。そんなんでお嬢様をお守りできるのか?」
「できます。最近は新しいことができるようになって、その自主練習もしてるん、で……!」
ジャックが言い終わる前に、何かが飛んできた。すぐ後ろの壁を見ると、小型のナイフが刺さっている。バローが放ったものだ。
「避けたな。だが、避けるだけではだめだ。避けた先にお嬢様がいたらどうする? 掴む、弾き返す、叩き落とす──やれることはもっとあると覚えておけ」
「……はい」
暗器──東方の国から伝わったとされる隠し持てる小型の武器──使いの達人であるバローに言われると、ジャックは何も言い返すことはできなかった。
従者は主人の護衛役も兼ねている。特にロランヌにとって護衛は飾りではないため、ジャックは拾われてすぐからバローに格闘術を仕込まれていた。いざとなれば体ひとつでロランヌを守れるよう訓練しているが、まだこの男には敵わないと思う。
バローも、主人たちを亡くした日からずっと、強くなろうと鍛錬を欠かしていないのだから。
「それにお前、パズルばかりではなくきちんと新聞の記事にも目を通しなさい。本も読むんだ。世事に通じておくのも主人のためだ」
「いや、今ちゃんと読んでますし……」
バローが小言を続けようとするのが嫌でジャックは反射的に言い返したくなったが、尻すぼみになった。日頃、ジャックが新聞で熱心に目を通すのは数字を並べていくパズルくらいのものだから、こう言われても仕方がないのだ。
「何だ、読んでるのか。……あの野犬のように荒くれていたジャックがな。そうか、新聞を読むのか」
ジャックが本当に新聞を読んでいるとわかったからか、バローが感慨深げに呟いた。自分を拾ってくれ、育ててくれた人ではあるものの、こんなふうに親心のようなものを滲ませられると、落ち着かなくなる。
「いや、気になる事件があって、それについて何か書かれていないか目を通してるだけだ」
「事件? どんな事件だ?」
「倒れて目覚めない人がいるらしいんです。あと、通り魔だのかが出没するとか……」
言いながら、バローの顔がどんどん険しくなっていくのにジャックは気がついた。思えば、この逞しい執事は都市伝説だとか噂話などということを軽蔑していて、ジャックが幼い頃オバケに怯えただけでも怒られたものだ。だから当然、この手の話題を快く聞いてくれるはずがなかった。
「……その手の内容は、新聞の仕事ではないぞ。そういうものに用があるなら、雑誌でも読めばいい。そんなことより、本を読むべきと思うがな」
バローは、呆れて物が言えないところをやっとのことで口を開いたといった様子で言った。
別に彼に認められるために新聞を読んでいるわけではないのだが、あからさまに落胆されてジャックはムッとした。
「マダム・ブランシュが、新聞に載っていたって言ってました」
「マダムが? ……ご婦人が読む新聞と、我々が読む新聞はものが違うかもしれんぞ。それに、雑誌で読んだものを新聞で読んだと混同しているのかもしれんし」
顔見知りの名前が出た途端、バローは歯切れが悪くなった。ロランヌが贔屓している仕立屋の店主であるマダムの悪口は言いにくいのだろう。
「……あった」
バローがどう言ったものかと悩んでいる間に、ジャックはお目当ての記事を見つけだした。小さな、よく見なければ見落としてしまいそうな隅にだが、『通り魔か』の文字が踊っていた。
ジャックが指差すそれを見て、バローは再び顔をしかめた。その顔には呆れと動揺も同時に浮かんでいたが、それはやがて憤りに変わった。
「……新聞も、落ちたものだな」
バローはジャックの失敗した料理を食べたときのような、苦々しい顔で言う。
新聞がなんぼのものかわからないが、伝聞と推定口調ばかりのこの記事からは確かなことは何もわからないということには、ジャックも同意だった。




