第五章②
「これ、飲んどきな。気休めにしかならないけど」
走りながら、ピーが何かを差し出してきた。変な色をした丸薬だ。マスクをずらして彼も同じものを口にしているらしいことがわかって、ジャックも素直に受け取って口に放り込んだ。
「……にがっ! くさっ……これ、何だ? 舌の先がピリピリするし」
「元気になる薬。でも、疲れや痛みを誤魔化してるだけで、本当に元気にしてくれるわけじゃない」
「……そっか」
聞いてから飲めばよかったと思ったが、少しすると本当に体が軽くなってきた気がしてきた。手足が怠くて、肺が痛くて、もう走りたくないという気持ちが薄れている。
つらくはあるが、まだやれるという気持ちになった。やらなければ、どうにもならないわけだし。
「大丈夫だよ。お嬢さんは、まだ生きてる」
何も言えずに走っているジャンルに、ピーが言った。それは気休めというより、確信があるように聞こえる。
「そうであってくれと思うけど……なんで?」
「お嬢さんはあくまで女王に対する交渉材料だから。殺してしまっては交渉できないことくらい、敵はわかってるはずだ。女王を飛空城から引きずり下ろすために、必死なんだよ」
「……くそだな」
同じように冥界の庭を見ることができる能力を持ちながら、片や手厚く保護されたクインガーデナーと、粛清されたランバージャック。
納得がいかないのも悔しいのも理解できるが、十二年の惨殺事件は到底許せるものではない。
その上、女王に何かを訴えるために、女王を引きずり下ろして国の仕組みを変えるために、たくさんの人々を犠牲にして、唯一の生き残りであるロランヌを拐ったことは許せるはずがない。
自分が何者であるか怯える気持ちはなくならないが、ジャックは初めて今、明確に怒りと殺意を抱く存在を見つけてしまった。
「俺がちゃんと全部周りに頼ってたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに……」
ずっとひとりで事件を追っていたことを、ひどく後悔した。
だが、言えなかったのは、自分が何者であるかわからなかったから。
「俺、記憶がない状態で十二年前に拾われて、サジュマン家で起きたことを教えられて、ずっと怖かったんだ。だから、事件の犯人のことを知ろうとした。身近でおかしなことが起きてるときは、その情報を集めた。今回のこともそんな感じで、結局自分のためだったんだ。……だから、怖くて誰にも話せなかった。そのせいで、こんなことになっちまった」
走りながら口からこぼれてくるのは、虚しい後悔だった。
こんなことを口にしながらも、時を戻したところで自分が誰にも相談できないのを知っている。
「まあ、自分のことわかんないって、怖いよ。僕も怖い。でも、怖いなら知っていくしかないんだよ」
息苦しくなったのか、それとも話の流れか。ピーがペストマスクを外した。月明かりの下に、彼の黒髪黒目があらわになる。ジャックが親近感を覚える、東方の血を感じさせる色だ。
「ジャックは、ずっと自分が切り裂き魔じゃないかって怯えてたんだろ。その恐怖からは逃れられた。じゃあ、今度は『自分はどこから来たんだ?』って不安になると思うな。僕にもあるから、それはわかるよ」
「ピーにも、そんな気持ちになることがあるんだ……」
「あるよ。だから、自分たち薬売りのことや持って生まれた能力、そのルーツを知りたいってずっと思ってる」
ペストマスクの下で、飄々とした態度の内側で、ピーがそんなことを考えていたのだとジャックは今知った。
神出鬼没で、路地裏の怪人のように思っていたのに。ほんの欠片でも中身を知れば、自分と同じ人間なのだということがわかる。
「これまでのことを悔いる気持ちはわかるけど、後悔はあとで」
あとでというのは、ロランヌを取り戻したあとでということなのだろう。まるでこれから軽く用事を済ませるかのような口調に、ジャックは笑ってしまった。
「ロール様を取り戻して敵をぶっ倒したら、後悔なんかなくなってるかもしれないもんな」
やるしかないのだと覚悟が決まったら、ジャックの気持ちも明るくなった。ピーがくれた薬はきっと、苦しみを吹き飛ばす力もあるのだろう。
「全部終わってからも自分の出自が気になるなら、ルーツを探りに行けばいい。僕もいつか行くつもりだよ、東方の国」
「そっか。じゃあ、俺も行く」
「お嬢さんも行きたがるだろうな。だったら、みんなで行こう」
この先、どれだけの戦いが待ち受けているのかわからない。無事に戻れるのかもわからない。だが、帰ってからの目標ができた。
そのことが救いで、それだけが救いで、ジャックはおかしな高揚感の中、時計塔へ向かって走り続けた。




