第四章①
花売りとの衝突から数日が経つが、ジャックはまだ情報収集に向かえていなかった。三番街であのあと類似の事件が起きていないか調べたかったし、東方人街に行ってやらなければいけないこともあったのに。
日々、屋敷での仕事に追われている。それが本来のジャックの仕事ではあるのだが。
「おい、ジャック! 二階の掃除が終わったら次は馬小屋だぞ!」
「はい! わかってます!」
階下から呼ばれ、ジャックははたきを手に大声で返事をした。
かつては多くの使用人を抱え、彼らが手分けをして手入れしていた大きな屋敷だ。ロランヌの部屋を含めた主人たちの部屋をすべてきれいにするのは、なかなかに骨が折れる。
細かい装飾品が飾られていて慎重に掃除をしなければならない書斎部屋は後回しにしていて今ようやく着手したのだが、バローのあの声を聞く限り早々に切り上げて馬小屋に向かったほうがよさそうだ。
あの日、もう晩餐の時間にギリギリ滑り込むように帰宅したことを、ジャックはバローにひどく咎められた。それもそのはずで、二人とも貧しい身なりをして、ジャックにいたっては戦闘によって怪我こそしていないがよろよろになって帰ってきたのだから。
せめて服装を取り繕う暇があったらよかったのだろうかと考えたが、問題はそこではないようだ。外出したことがバレたのがいけなかったのだ。というより、変装してまで出かけていって危ない目に遭ったことが悪かった。
ジャックはバローに、ロランヌを危険に晒したことをひどく叱られ、その罰としてものすごく忙しく働くことを命じられている。日頃は数日に分けて行う屋敷の掃除を毎日きっちりやらせることに加え、暗器を使った格闘術の稽古もこれまでとは比べ物にならないほど厳しくやらされている。
おそらくは、しばらくジャックを外の世界から遠ざけておくためだろう。花売りとの一件を詳しく話したわけではないのだが、バローはジャックが何か面倒なことに首を突っ込もうとしていることに勘づいているようだ。
「だからってさ、こんなにこき使う必要ないよな」
汚れた藁をかき出し、新しい藁を敷いてやりながら馬たちに話しかけると、彼らは冷ややかな目線を向けてから鼻を鳴らした。日頃掃除をして可愛がってくれるバローの悪口を聞かされても、馬たちは同意しかねるということらしい。というより、早くブラッシングをしろとすら思っているのかもしれない。
ジャックは馬車を操るのがうまくないのだが、その原因は馬たちとの信頼関係を築けていないせいもあるのだろう。ロランヌと街に出るとき辻馬車をよく利用するのはそのためだ。
「あー、はいはい」
ブルルという不満げな声に急かされ、ジャックは飼い葉桶に新しい食事を用意してから、丹念に馬たちの毛並みを整えた。本当だったら専用の世話人をつけて、この馬たちももっと快適に過ごさせてやるべきなのだが、バローのこだわり上それはできない。
「バローさん、終わったよ」
片づけてから屋敷に戻ると、バローは洗濯室で洗い桶と格闘していた。屈強な男が小さくなって洗い桶に向き合っている姿は、何とも言えない気持ちにさせられる。
「……通いの洗濯メイドくらい、雇えばいいのに」
ふと思ったことを口にすると、ジャブジャブやっていたバローがジャックに視線を向けた。その目には鋭さがある。
「その慢心でお嬢様を守れなかったらどうする」
その一言には、十二年前の惨劇に対する並々ならぬ思いが込められているのがジャックにはわかった。
かろうじてロランヌのことは守れたが、ほかは全滅だ。主人も、サジュマン家の親戚たちも同僚である使用人たちも、すべて。おまけに犯人が誰だったのか、どのようにして屋敷に侵入したか、それすらもわかっていないのだ。
バローの中であの惨劇は、まだ終わっていない。というよりも、いつまた誰かが大切なものを奪いに来るかもしれないと考えている。
だから、誰も屋敷には入れたくないのだろう。それが通いの洗濯メイドだったとしても。
「……俺ならいいの? 外の人間だけど」
バローが惨劇のことを口にすると、ジャックの胸には暗い影が落ちる。バローやロランヌにとってあの惨劇が拭えぬ辛い記憶であるように、ジャックにとっても得体の知れない自分の記憶の始まりだ。犯人が捕まっていない以上、自分の存在に対する得体の知れなさは拭えない。そのことを突きつけられるたび、恐ろしくて嫌になるのだ。
「私が息子同然に鍛えたお前だ。何を心配する必要がある?」
バローが、ジャックをまっすぐ見つめて言う。それは、どんな言葉にも代えられない肯定の言葉だった。
認められているのも、可愛がられているのも知っていた。だが、こんなふうにきちんと言葉にされたのは初めてで、ひどく気恥ずかしい気持ちにさせられる。
「じゃ、じゃあ、俺が洗濯する。洗濯メイドを雇えないなら、俺がやったらいいだろ。バローさん、ただでさえ忙しいんだから」
「させられん。お前はお嬢様の下着を洗いたいだけだろ」
「ち、違う! そういう意味じゃ……」
「手が空いたんならお嬢様にお茶でも持っていって差し上げろ。わがままを言わない方だ。この数日、ご自分の用事を言いつけるのを我慢してらしたはずだからな。従者ならそろそろ、気の使い方を覚えろ」
「……はい」
シッシッと犬でも追うように手で追い払われ、ジャックは洗濯室をあとにした。
言われてみればこの数日、ロランヌの世話どころでなかったのは確かだ。日頃屋敷の仕事は二の次三の次でロランヌのそばにいることを仕事としているのだから、そのジャックがいなくてさぞ不便したことだろう。
ロランヌの世話こそ自分の役目と思い出したジャックは、厨房へ行きお湯を沸かした。厨房の作業台を見れば、盆に乗せられた焼き菓子が用意されていた。バローが他の仕事の合間に作っておいたのだろう。そして、言いつけられた仕事を終えたジャックにお茶を持って行かせることも想定済だったということだ。
さすがは、唯一残った幼き主人と拾い子を養いながら屋敷を維持し、立派に今日まで維持してきた執事なだけある。
こうして実力を見せつけられると敵わないと思ってしまうのだが、だからこそ早く頼ってほしいと思うのだ。
拾われたときからずっと大きくて頼もしくておっかなくて、でも優しい背中だ。だが、十二年前と比べると皺も白髪も増えた。無敵に見える完璧執事も、間違いなく老いるのだ。そのことが時々どうしようもなく悲しくて、ジャックを焦らせる。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
ノックをして呼びかければ、鈴が転がるような愛らしい声で返事が返ってくる。
ドアを開けると、窓際の小さなテーブルで本を読んでいる姿が目に入った。ロランヌの趣味のひとつに読書があるから、待たせたとしてもそこまで手持ち無沙汰にさせなかっただろう。そのことを思い出して、少しだけ安心する。
「こうしてあなたがお茶を運んできてくれたということは、謹慎は解けたのかしら」
本にしおりを挟んだロランヌは、ティーセットの用意をするジャックを見てクスクス笑った。
「謹慎って、あの人、そんなこと言ってたんですか」
「ええ。『しばらく屋敷のことに専念させて反省を促しますから、ご不便をおかけします』って」
「俺にはそんな説明、何もなかったのに……」
「たぶん、体を休ませたかったのよ。ジャックは屋敷に縛りつけておかなくちゃ、すぐにまたきっと危ないことに首を突っ込むから」
クスクス笑いながらも主人が自分を咎めているのがわかって、ジャックはバツが悪くなった。だが、もうコソコソする必要はないし、その余裕もない。
あるとき三番街で倒れていた人物を偶然見かけたあのときから、ずいぶんと根深い部分に関わってきてしまった。これはもう、真相を突き止めるまであとには引けないところまで来ている。
ロランヌを巻き込んでしまったのは計算外だったが、もう退くこともできなくなった。
「謹慎が解けたところでさっそく、行きたいところがあるんですけど」
焼き菓子を食べてロランヌの機嫌がよくなったところて、ジャックは話を切り出してみた。バローを説得するよりロランヌに許可をもらうほうが早いと踏んだのだ。
「いいけれど、どこへ?」
「えっと、東方人街です。ちょっと……お礼をしにいかなきゃいけない相手がいるので」
〝お礼〟といえばお礼だなと思いつつ、ジャックは言葉を濁した。もうロランヌに隠し事はしないが、だからといってすべてを包み隠さず話すつもりもない。知られたくないお行儀の悪い部分は、隠しておきたいのだ。
「それなら、私の用事に付き合ってからにしてくれる? 教会へ行きたいのよ」
「わかりました」
「わたくしを無事に屋敷まで送り届けてバローさんに断ってからなら、許しが出ると思うわ」
「……ありがとうございます」
すべてロランヌとバローの手の内かと思うと何だか複雑な気持ちになったが、ひとまず〝謹慎〟が解かれたのならよかった。
何かが動き出している。そのことを確かめるために、屋敷の中に留め置かれている場合ではないのだ。




