第三章⑥
深夜の王都を、影を縫うようにして走り抜け、二人はようやくサジュマン家の屋敷へと辿り着いた。
正門から堂々と入る度胸はなく、裏手の庭を突っ切り、勝手知ったる使用人専用の出入り口へと滑り込む。
「……よし、開いてる。お嬢様、足元に気をつけてください」
「ええ、大丈夫よジャック。ふふ、なんだか泥棒になったみたいで楽しいわね」
ロランヌは顔を煤で汚し、ドレスの裾をボロボロにしながらも、冒険の余韻を楽しむように声を弾ませた。
対照的に、ジャックの心拍数は別の意味で跳ね上がっていた。
無断外出。しかも、お嬢様を連れ出しての「花売り」との死闘。
ただの情報収集のはずが、戦いになってしまったため、予定よりも帰宅時間が遅くなってしまった。
これまで夜の出歩きをバローに咎められたことはないが、今夜は状況が違う。
ジャックのことは放っておいたとしても、ロランヌの不在に気づかれてしまうのはまずい。
無事に切り抜けて屋敷に帰り着けたことよりも、嫌な予感がしていて、ジャックは落ち着かなかった。
静まり返った廊下に足を踏み入れ、一つ目の角を曲がった、その時だった。
廊下の突き当たりに、岩のような巨大な影が立っていた。
灯りもつけず、腕を組んで仁王立ちになっているその男──バローの放つ威圧感は、正直言って「花売り」の殺気よりも恐ろしかった。
「……どこをほっつき歩いとったんだ、この不良が」
低く、地を這うような声。バローの鋭い眼光がジャックを一瞥し、射抜く。ジャックは思わず「ひっ」と短く喉を鳴らして足を止めた。
たったひと言とその視線だけで、自分の悪事がすべてバレているのがわかる。ただ不在にしていただけで怒るほど、この執事長が狭量でないことは知っているからだ。
バローの視線は次に、ジャックの隣でマントを深く被り、俯いている小柄な人影へと移った。
「……して。隣にいる、そのお嬢さんは?」
バローの声に、戸惑いと、隠しきれない困惑が混じる。
ジャックは咄嗟に考えた。
ロランヌは今、平民の娘に変装している。煤汚れと暗がりのせいで、もしかしたら……いや、これに賭けるしかない。
「……と、友達、です。街で知り合った……」
「友達、だと?」
バローが眉間に深い皺を刻み、一歩歩み寄る。
「こんなに綺麗な嬢さんと、どこで知り合ったんだ。ええ? ジャック。お前のような愛想のないガキに、夜道で隣を歩いてくれるような殊勝な友達ができるとは、初耳だな」
バローの追及に、ジャックはしどろもどろになった。
「い、いや、その、意気投合というか、趣味が合うというか……」
「ほう。どんな趣味だ。お散歩か? 夜の街歩きか? で、何だってそのお友達を連れて帰ってきたというんだ? 年頃の娘さんを家に送り届けもしない男に育てた覚えはないがな」
バローの追及は真っ当で、そして容赦がなかった。その場しのぎの無計画な嘘でどうこうできるわけがなかったのだ。
逃げ場がない。隣のロランヌは、困ったように顔を伏せたまま、肩を微かに震わせている。
バローはもう一度ジャックとロランヌを交互に見つめると、深々と、屋敷の土台が揺らぐほどの溜め息をついた。
「……ジャックの大馬鹿者だけならいざ知らず、お嬢様まで一緒になって何をされているのですか」
「あら。……ふふ、バレてしまったのね、バロー」
観念したロランヌがフードを脱ぎ、煤のついた顔でいたずらっぽく笑った。バローは天を仰ぎ、大きな手で自分の顔を覆った。
「バレるも何も……変装が下手すぎます。こんなに愛らしくて、立ち居振る舞いの身ぎれいな平民の娘が、この界隈にいるわけがないでしょうが。節穴だと思われちゃ困りますな」
「あら、そう? ジャックが選んでくれた服、似合っていると思ったのだけれど」
「お嬢様、そういう問題では……」
バローは頭を抱え、情けなさと安堵が混ざり合ったような、複雑な表情で二人を見据えた。
彼にしてみれば、ジャックだけでなくロランヌまで姿が見えなくなっているのだから、さぞ肝を冷やしただろう。
無事な姿を確認するまで、もしかすると生きた心地がしなかったのかもしれない。
無鉄砲で向こう見ずなところはあるが、ジャックにもそのくらいの想像力はある。
というよりも、ほっとしつつも明らかに疲れ果てた様子のバローを見れば、自分たちの行動がいかに彼に心労を与えたのか理解できたのだ。
「二人とも、説教だ。……いいな。ジャック、特にお前は覚悟しておけ。朝まで寝かせんぞ」
悩ましげに吐き捨てられたその言葉に、ジャックとロランヌは顔を見合わせ、ただ苦笑いするしかなかった。
(やっぱ、怒られるよなぁ……でも、調べないわけにはいかなかった。何より、大事な情報は得られたわけだし)
これからどんなふうに叱られるのだろうかと考えると憂鬱ではあったが、ジャックは仕方ないとあきらめていた。
おとなしくしていることなど、できなかったのだから。
日常のすぐそばまで、嫌な感じが近づいてきている。
それはきっと自分やロランヌに無関係なことではない──そんな予感を、ひしひしと肌に感じていた。




