第三章③
クロエに案内されてやってきたのは、労働者たちが多く暮らす住宅街だった。
四、五階建ての建物が多く、それらを細かく区切って貸し出している賃貸物件ばかりが建ち並んでいる。クロエが住んでいるのは、それらの中でも一等古い、安アパートの一室だった。
「狭いところですみません。メアリ、お嬢様が来てくださったのよ。この子、新聞で陛下とお嬢様が一緒に描かれてるのを見て、あたしのことをすっごく羨ましがってたんです」
アパートはドアを開けるとすぐ台所があり、その奥に部屋があった。その部屋のベッドの上に、メアリと呼ばれた女性は横たわっていた。
赤毛で、そばかすが目立つ白い肌をした女性だ。平時よりもその肌が青白くなっているだろうことは推測できた。
「メアリ、こんにちは。ちょっとあなたの冥界の花樹を見せてもらうわね」
居間に入ったロランヌは、横たわるメアリにそう声をかけた。狭い部屋の中では、ロランヌの美しさが際立った。ベッドに寄り添う姿はさながら宗教画に描かれた天使のようだと思ったところで、ジャックは我に返った。ここに来た目的を見失ってはならない。
「……これは、どういうことですか?」
ジャックはロランヌに倣ってメアリの冥界を覗いて、そこにあったものに戸惑った。
そこには、枯れかけた何かの花と、それとは対照的に青々と葉を茂らせた植物があった。枯れかけの花に絡みつくように生えているそれは、蕾までつけて間もなく花開きそうな状態にまで育っている。
「寄生されているわ。メアリの元々の冥界の花は、この枯れかけたマーガレットね。この余計なものに寄生されて養分を吸い取られたせいで花が弱って、それで倒れてしまったのよ」
ロランヌは弱ったマーガレットに手を添え、何とか寄生したものを引き剥がそうとした。だが、その植物は頑強に根を張り、引き抜こうものならマーガレットまで道連れにすると言わんばかりだ。
「ジャック、あなたの力が必要かもしれないわ。マーガレットを傷つけないように、この植物を断ち切って」
「えっ」
「花鋏は、植物を切るためにあるのよ」
「……わかりました」
言われた通りにやるという選択肢しかないのだと理解して、やるしかないと覚悟した。
手に神経を集中させ、花鋏を出現させた。片方だけでいいと思ったがうまくいかず、いつものように両手に出てきてしまった。それでも、やるべきことは変わらない。呼吸を整え、寄生した植物に向き合った。
「くっ……」
その花鋏が初めて何かに触れる感覚に、ジャックは戸惑った。本来この鋏は、何にも触れられないものなのだ。それはこれが、冥界に属するものだから。だが、当然同じ冥界に属するもの同士だと、干渉することができる。
「ジャック、マーガレットを傷つけることを恐れないで。いざとなれば、わたくしに手立てがあるわ」
ロランヌは、自分の能力に戸惑って次の行動に移れないジャックを励ますように言った。
心配されている、能力がないと思われたくない──プライドが刺激され、ジャックは改めて覚悟を決めた。
鋏に力を込めると、茎が抵抗するように押し返してくる感触がした。そこを無理に断とうとすると絡みつかれたマーガレットの茎が巻き添えを食らってブチブチと千切れそうな音を立てる。だが、ここでためらってしまえば寄生した植物をどうにかすることはできないとわかっている。
ロランヌの言う手立てというものが何なのか、ジャックは全く見当がつかない。それでも、主人が大丈夫だと言った言葉を、従者である自分が信じない理由はないのだ。
「──切ります!」
宣言して、ジャックは鋏に一層の力を込めた。ブチブチという音を通り越して、茎はメキメキという音を立てた。
慣れない感触に手首や指の筋が軋むのを感じながら、それでもジャックは力を込め続けた。頭の中に、この邪悪な寄生植物が断ち切られるのを思い浮かべて。
「あとは任せて!」
ブチンと切れた直後、ロランヌがジャックを押しのけて冥界に手を差し入れた。そして素早くマーガレットの茎を掴む。
マーガレットはやはり、寄生植物に絡みつかれていた影響で千切れかかっていた。だが、ロランヌがその今にも死に絶えそうな茎に触れると、光が瞬いたのちにそれは接ぎ合わされた。
ロランヌの能力は、この接ぎ木の力だと言われている。それを今、彼女は遺憾なく発揮したのだ。
「さあ……この栄養剤を投与したから、もう大丈夫なはずよ」
「ありがとうございます! ……ああ、メアリ。本当だ、顔色が戻ってきてる」
ロランヌがメアリの無事を告げると、そばで見守っていたクロエが感激に涙した。医者にも原因がわからないと言われ、弱っていくのをただ見ているしかできなかったのだ。それが助かったのだから、ほっとして泣くのも無理はない。
「別の植物に寄生されて、養分を吸われていたのがよくなかったの。でも、健康で栄養状態がいい人なら、こうはならなかったはずなのよ」
安堵するクロエとは対象的に、ロランヌは難しい顔をしていた。もしかすると事態は、楽観視できるものではないのかもしれない。
「貧しい、栄養状態が悪い人が、運悪く寄生されているということですか?」
「運悪く、だったらいいわね。……狙ってそうされているのかも。どちらにしても、早い段階でピーから買った薬を服用すれば、救われる人も増えるはずよ」
ロランヌは何かを掴んだようだが、そのときそれを詳しく聞くことはできなかった。
クロエに薬売りのピーの存在を教え、「同じ症状の人ならこれで助けられるかもしれない」と教えてからアパートを出た。それからマダム・ブランシュの店へ戻って同様の説明をして、ピーに今後の相談をしてから屋敷に戻ったのは、もうすっかり夜になってからのことだった。
「ジャック……わたくし、嫌な予感がするの。きっと何か、大きな事が起こる前触れなのよ」
夕食もそこそこにロランヌを就寝させようとベッドへ入れると、彼女は不安そうに目をしばたたかせた。昼間は薄化粧をしているが、夜に寝るときはしていない。それも相まって、今のロランヌは幼く、頼りなさそうに見えた。
嫌な予感というのは、ジャックも当然感じていた。だが、自分がすべきは彼女の不安に同調することではないともわかっていた。
不安がって、何かが進展することはない。もちろん楽観視もできないが、一緒に怯えるよりもジャックにはしなければいけないことがあった。
「大丈夫ですよ、ロール様。あなたを傷つけるものは、俺が絶対に許さない」
少しでも不安を慰められればと、ジャックはロランヌの銀の髪に口づけて部屋を出た。




