第三章②
その日は本来何の予定もない、穏やかな一日になるはずだった。
だが、突然電話で連絡を受け、ロランヌとジャックはマダム・ブランシュの店へと向かっていた。いつも朗らかでどっしりとしたマダムの慌てる声に、不吉な予感を感じている。
こんな日に限って馬車をすぐに出すことができず、そろそろ御者を雇ったほうがいいのではと、ジャックは本気で考えていた。そのくらい、気が急くほど嫌な感じがした。
「おお……! お嬢様! 来てくださって、ありがとうございます。私、不安で不安で……」
やっとのことで店に到着すると、憔悴しきったマダム・ブランシュに迎えられた。ドアに閉店の札はかけられていないが、とても営業できそうには見えない。ロランヌは駆け寄って、ようやく立っている様子のマダムを支えた。
「マダム、一体どうなさったの? 顔色がすごく悪いわ」
「私はね、大丈夫なんですが、クロエがすっかり怯えきってしまって……店に来てもずっと震えていて、これはもしかしたらお嬢様のお力を借りなければどうにもならないかもしれないと思って、それでご連絡したんです」
マダム・ブランシュはクロエのことを心配しているが、彼女自身が動転してしまっていて話になりそうにない。だからロランヌはジャックに目配せして、奥へ行ってクロエを連れてくるよう指示した。
命じられたジャックは、作業場のノックしてからドアを開けた。
作業場の中は布製品などの独特の匂いと共に、落ち着かない静寂に満ちていた。作業台に向かってお針子たちは手を動かしているが、どこか気もそぞろといった感じだ。来店して表で接客されているときにドアの隙間からうかがい知る作業部屋は、いつも若い娘たちのおしゃべりと活気に満ちていたのに。
「すみません、クロエさん。マダムに呼ばれてお話を聞きに来たのですが……」
「お嬢様が? すみません、わざわざ……今行きます」
ジャックが声をかけると、別のお針子に背中をさすられていたクロエが顔を上げた。それから目尻を拭って立ち上がると、ドアのほうへとやって来る。
「すみません、お嬢様。来ていただいて……でも、きっとお嬢様にお願いしないとどうにもならないと思って。お医者様が原因がわからないって言うんですもの」
クロエは作業部屋から出てきたが、不安でたまらないのだろう。目に涙をいっぱい溜めて、息継ぎをしながらやっとのことで言葉を発している。
「クロエ、大丈夫よ。落ち着いて、ゆっくり話していいの。一体、何があったというの? 大変なのは、あなた? それとも別の人?」
ロランヌはクロエをなだめるように、子供に話すみたいな優しい声で言った。おそらくクロエのほうが少し年上のはずだし、身長も見た目も彼女のほうが大人に近い。それなのに今は、ロランヌのほうが遥かにお姉さんのように見える。
「えっと、あたしじゃなくて、友達が。友達が大変なことになってしまったんです」
ロランヌの声を聞いて、少し落ち着きを取り戻したらしい。クロエは深呼吸を何度か繰り返してから、自分の友人のことについて話し始めた。
動揺している人間の話というのは、行きつ戻りつしてわかりにくいことがほとんどだ。クロエの話も、なかなか要領を得ないものだったが、ロランヌはそれに適宜相槌を打ち、補足し、質問を重ね、筋の通ったものにしていった。
「怪しい花売りの女に切りつけられて、それでショックで倒れてしまったということなのね?」
「そうなんです。でも、傷自体は大したことがないし倒れるようなものではないから、目覚めない理由はわからないってお医者様が……」
クロエの話では、同じ借家に暮らす幼馴染の女性が、おかしな花売り娘に声をかけられて突然切りつけられたのだという。間一髪それを逃れた女性だったが、帰宅してクロエに事情を話すと、ぱったり倒れて目覚めなくなったそうだ。
突然倒れて目が覚めないという話に覚えがあるロランヌとジャックは、そっと顔を見合わせた。
「わたくしたちがこの前目撃した人と、状況は似ているわね」
「そうですね。……偶然にしては話ができすぎている」
不安を隠してそう言い合ったが、ジャックは自分だけが知っている情報とも符号しているため、余計に心がかき乱されていた。
このタイミングで花売り娘の話を聞くことになるなんて、あまりにもできすぎていると言うしかない。
「その花売りの方とお友達は、面識があったのかしら? それとも、全く知らない人に切りつけられたの?」
ロランヌが努めて平静を装って尋ねると、クロエは怖さを思い出したのかまた震えだした。
「全然、知らない人だって言ってました。それに意味不明なことを言われたって」
「どんな?」
「『きれいに咲いたね。今が一番いいときだね』って……」
あまりの不気味な内容に、ロランヌが言葉を失ったのがわかった。ジャックも顔に出さないよう努めたが、内心では相当に焦っていた。
(その女、高値で取引されるって花を収穫しようとしたのか? ということは、やっぱりその花は冥界の花なのか……?)
フレールからの情報と結びつけ、ジャックは事態の深刻さについて考えていた。もう、単なる噂話ではない。身近なところで事が起きてしまった。そしておそらく、このきな臭い何かに、気づかぬうちに関わってしまっていたのだ。
「……恐ろしいことだよ。きっと若さを妬んで切りつけたんだね。そいつが何者かわからないけど、おかしなやつがまた現れたんだ。そいつはきっと、同じことをまだまだ繰り返すよ」
マダム・ブランシュも怯えて、恐ろしい予言でもするように言った。元々、切り裂き魔を恐れていた人だ。この件で彼女の恐怖は現地味を帯びてしまったのだろう。
「そのお友達は、まだどうにか助けられるのよね? そのために、わたくしを呼んだのでしょう?」
恐怖に心を支配されてしまっている二人をなだめるために、ロランヌは落ち着いた声で語りかけた。
この出来事を伝えるためだけに、クインガーデナーを呼ぶわけがない。昏睡の原因が冥界にあり、それをどうにかできないかと考えて呼んだのだろう。内心動転していても、ロランヌはそのことをきちんと理解していた。
「そうでした。……本来なら、私ら庶民がクインガーデナーに冥界の花樹を診てもらうことなんか、できないのはわかっているんです。でも、その子が死んだらクロエがどうなってしまうか……考えるだけで可哀想で」
「お金は、あたしが頑張って払います! だから、あの子を助けてほしいんです」
自分たちがロランヌを呼んだ理由を思い出し、マダム・ブランシュもクロエも必死で訴えてきた。
ジャックは、知り合いのよしみでタダで診てくれとでも言うかと思っていただけに、クロエの発言に少し驚いた。
冥界の花樹は常人には見ることができない。だからこそ、信じない人間も、それを見るガーデナーを心のどこかで軽んじる人もいる。
だがクロエは、ロランヌの力を信じて頼り、相応の対価を払うと言ったのだ。主人のことを認められているとわかって、ジャックは安心した。
「我々はクロエさんのご友人のところに、お見舞いに行くだけです。ねえ、お嬢様?」
ジャックが尋ねると、ロランヌは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。その顔にはジャックの配慮に気づいて感心する表情が浮かんでいる。
「ええ、そうね。わたくしたちはただクロエのお友達が心配で、お見舞いに行くだけよ。だから、何も心配しなくていいのよ」
ロランヌがそう言って微笑むと、マダム・ブランシュもクロエもひどく安心した顔をした。




