第二章⑥
メイグース王国の春は晴れの日が多いのだが、今日はその中でも特別よく晴れている。
鮮やかな青空に白い雲が浮かびらそれを彩るように花びらが舞っている。
赤、黄、白、ピンク、オレンジ──それらはすべて薔薇の花びらだ。薔薇をこよなく愛する女王の生誕を祝う日だから、空を飾るのも薔薇なのだ。
国民は空を仰ぎ、降り注ぐ光と花びらを見つめる。だが、彼らが待ち望んでいるのは、青空よりも花びらよりも、さらに美しいものだ。
それは、唐突に現れた。少しくらい音はしているのかもしれないが、それが現れた途端、人々の間から歓声が上がるから、あっという間にかき消されてしまう。
大きな、白金の船体を持つ飛行船が群衆の見上げる青空を横切っていく。女王が住む、飛空城だ。
今日はいつもより高度を低くとっているため、地面に落とす影も大きい。そのことに国民たちはいつもより女王陛下を近くに感じられると喜んでいる。
女王を乗せた飛空城はゆっくりと速度を落とし、この国で最も高い建物である時計塔の近くで停まった。そして船体から伸びた金の美しい梯子を伝って、女王が降りてきた。
日頃ジャックがどれだけ誘おうとも「不敬だわ」のひと言で時計塔に登ることはないロランヌも、今日は登っていた。そして、謁見を許可された限られた人間たちと共に、女王が降り立つのを見守っていた。
女王は、薄紅色のドレスの裾を風になびかせながら、ゆっくりゆっくりと梯子を下ってくる。幾重にも布地が重なったドレスは、間違いなく重たいはずだ。だが、そんな重さを一切感じさせない軽やかな足取りである。
地上へと近づいてくると、そのドレスが薄紅一色ではなく、裾に近づいていくにつれ紅さを増していくグラデーションになっているのがわかる。腰を細く絞って見せるサッシュも肘のあたりから大きく広がる袖も、すべて絶妙に色味の異なるグラデーションだ。
「まるで、薔薇の花の精だわ……」
ロランヌが思わずといった様子で呟いたが、女王の姿はまさに精霊のようだった。しかも、そんじょそこらの精ではない。精霊界の女王だ。
薔薇の花弁を思わせるドレスに身を包み、圧倒的美しさを振りまきながら、女王は時計塔の上へと降り立った。
そこからは、謁見を許された貴族や有力者、教会の人間たちが祝辞を述べた。女王は彼らの言葉に笑顔で応じ、短く挨拶をした。
その様子を許可された新聞記者が必死にメモをし、隣にいる画家もスケッチを取っていた。彼らの記事は、多くの国民が期待するものだ。特に女王のこの日のドレスを詳細に書き記した画家の絵は、多くの女性たちが待ち望んでいる。
定期的に女王のポートレートは新聞や雑誌に載って女性たちのファッションの指針になるのだが、この日は撮影が許されていないため、画家の絵だけが頼りなのだ。
そして女性たちはこの生誕祭のときの女王のドレスの色や形を、今年の最も素敵なものとして服飾に取り入れるのだ。
来賓たちの祝辞が終わると、ついにロランヌの番が来た。ロランヌはこの日のために丹精込めて育てた薔薇を手ずから摘んで花束にしたものを、女王に献上するためだけに今日ここにいるのだ。
本来ならば、これはサジュマン家当主の役割だ。だが、十二年前からずっとロランヌの役目になっている。
自分の番が来たロランヌは、花束を手に女王が鎮座する壇上へと進み出た。女王もロランヌの姿を確認すると、椅子から立ち上がってそれを迎えた。
「陛下、おめでとうございます。今年も今日という喜ばしい日を無事に迎えられましたことを、心から嬉しく思います」
ロランヌは恭しく膝を折り、花束を捧げ持った。今年の花束は、少し変わった花弁の色の薔薇を集めたものだ。どの花も、全体的に煙がかったような色味なのだが、くすんだ色なわけでも枯れているように見えるわけでもなく、鮮やかなだけが美しさではないことを感じさせる。
「ありがとう、ロザリーヌ。今年の薔薇も、特別きれいだわ。こんな色の花、見たことがない」
「何年か前から着手してきた品種改良が成功したんです。落ち着いた美しさが、きっと陛下にお似合いだろうと思いまして」
「嬉しいわ。そういえば、今年のドレスは去年あなたがくれた薔薇をイメージして作らせたの。内側から外側にかけて花弁の色が濃くなる、可愛い花だったから」
花束を受け取った女王は、ロランヌと親しげに言葉を交わす。美しい女王と可憐なロランヌが並ぶ様は、現実離れした光景だ。
実際に、あり得ない光景なのは間違いないのだ。女王は本当なら、ロランヌの祖母であってもおかしくないくらいの年齢だ。かつては母娘であってもおかしくない見た目だったのが、ロランヌの成長とともに姉妹に見えるようになった。つまり、女王はこの十二年で全く衰えていないのだ。
この十二年というのはあくまでロランヌたちの観測範囲内というだけで、国民の目には即位してからずっと、時を重ねていないように見えている。
そのことを改めて目の当たりにして、ジャックは恐ろしく思っていた。
だが、恐ろしく感じようとも、美しいと思わないわけではなく、女王とロランヌの並びはやはり美しいと思う。
濃い栗色の髪に青い目が人目を惹く女王と、銀髪に紫の目という珍しい容姿のロランヌは、どちらも甲乙つけがたい美貌の持ち主だ。
日頃、ロランヌだけを美しく特別な女性であると信奉するジャックも、〝この美しさこそ我が国の力〟と言わしめる女王の美貌を前にすると、美しさには様々な形があると思わざるを得なかった。
そしてその強力な美しさと並んでも決して見劣りしない主の美しさを、誇りに思った。
「……俺たちには、絶対に手に入らないものだよなぁ」
記者のひとりの呟きが、ジャックの耳に届いた。何気ない、大した意味を持たない呟きだったのだろう。だがそれは、ジャックの胸に突き刺さった。
(そんなこと、言われなくてもわかっている。……手に入るなんて思ったこと、一度もない)
そんなことを心の中で言い返したが、小さく刺さった棘のようなものが、ロランヌの美しさを誇らしく思う気持ちを萎ませてしまった。
どれだけ美しいと思っても、どれだけ愛しく思っても、それがロランヌとの関係を変えることは絶対にないのだ。
勘違いしたことなどなかったはずなのに。夢見たことなど、なかったはずなのに。
耳に届いた記者の呟きに、ジャックは不用意に傷つけられてしまった。
そんなふうにもやもやしていたからだろうか。
その日の夜、ジャックは夢を見た。
こちらに背を向けて立つロランヌに、必死に手を伸ばす夢だ。疲れたときなどに時々見る夢だった。
どれだけ近づこうとしても、どれだけ走っても、なぜだか距離が縮まらないのだ。そのせいか、焦がれる気持ちが強くなる。
ロランヌがほしくて、ロランヌを自分の手中に収めたくて、狂いそうになる。
それは恋慕というよりも、もっと暴力的な感情だった。嵐のように目の前の景色ごとなぎはらってしまいたくなるような、そんな荒々しい感情だ。
そんな想いに突き動かされそうになりながら、心の別の場所ではそれをよしとしていない自分がいるのも感じていた。
ロランヌには、ずっと笑っていてほしい。できれば自分のそばでがいいが、無理なら遠くの安全な場所ででもいい。
とにかく、彼女の幸せを守るためならどんなものとでも戦うという、そんな想いだ。
美しい景色の中、絵の中の少女のように完璧で完全で神々しいロランヌが佇んでいるのを見て、ジャックはこちらの感情こそが自分の本心だと気がついた。
傷つけたいわけがない。美しい花を自分のものにするために摘み取るようなことはしたくない。そう自分に言い聞かせた。
その花を愛でたいのなら、ずっと咲き続けられるよう守るべきだ。自分のものにはできずとも、その花をそばで眺め続ける幸福というものもある。
そう気がつくと胸の中の嵐が収まり、夢から遠ざかっていくのがわかった。同時に光の中のロランヌからも離れていく。
だが、それでいいのだ。
もうすぐ夜が明ける。朝になれば、また新しい一日が始まる。
ロランヌのそばで、彼女の快適で幸福な生活を支える一日が。




