第27話 黒い煙
巨大な扉。
その向こうから重苦しい気配が流れ込んでくる。
まるで空気そのものが震えているようだった。
俺はゆっくりと黒い扉へ手を伸ばす。
「行こう」
「はい」
シズクが静かに頷く。
たるとは杖を胸の前で握り締めた。
ノエルも大盾を構え、一歩前へ出る。
「はい」
その声に迷いはなかった。
少し前まで涙を流していたとは思えないほど、真っ直ぐな瞳だった。
俺は小さく笑う。
「頼りにしてるね」
その一言だけ返し、ゆっくりと扉を押した。
ギギギギギ……。
重い音を響かせながら巨大な扉が少しずつ開いていく。
その瞬間。
濃密な魔力が一気に押し寄せてきた。
「っ……!」
ノエルが思わず息を呑む。
シズクの表情も引き締まる。
「かなり強い魔力です」
俺は黙ったまま前を見据えた。
間違いない。
この先にいるのがこのダンジョンの主だ。
◇
扉の先は巨大な空間だった。
見上げても天井が見えない。
壁には青白い結晶が埋め込まれ、薄暗い広間をぼんやりと照らしている。
静寂。
あまりにも静かだった。
その静寂を破るように――。
ドン……。
低い振動が足元へ伝わる。
続けて。
ドン……。
ドン……。
地面が揺れる。
奥の暗闇から巨大な影がゆっくりと姿を現した。
四メートルを超える巨体。
全身を覆う黒褐色の体毛。
岩のように隆起した筋肉。
丸太のような腕。
その先には人間など容易く引き裂けそうな鋭い爪が伸びている。
口を開けば、大剣ほどもある牙が並んでいた。
技巧ではない。
魔法でもない。
ただ圧倒的な膂力だけを追い求めたような魔物だった。
「……大きい」
ノエルが思わず呟く。
自然と大盾を握る手へ力が入る。
シズクも《白晶》を構えた。
「気を付けてください」
「あの巨体です」
「一撃でもまともに受ければ危険です」
熊型魔物はゆっくりとこちらを見下ろす。
赤黒い双眼が四人を映した。
そして。
ギャオォォォォォッ!!
耳をつんざく咆哮。
広間全体が激しく震え、天井から無数の小石が降り注ぐ。
凄まじい威圧感だった。
ノエルは一歩前へ出る。
大盾を正面へ構え、俺たちを守るように立ちはだかった。
「皆さんは私が守ります!」
俺はその背中を見て、小さく声を漏らす。
「あ」
ノエルが振り返った。
「どうしました?」
俺は《朧》へ手を掛ける。
静かに刀を抜いた。
黒い刀身が青白い光を映し出す。
「この相手なら」
少しだけ笑う。
「私一人でやらせてもらってもいい?」
「え……?」
ノエルは目を丸くする。
「一人で……ですか?」
「うん」
俺は視線を熊型魔物から外さない。
「久しぶりに本気で戦えそうだから」
その一言にノエルは言葉を失った。
目の前にいるのは、このダンジョンの主。
今まで戦ってきた魔物とは格が違う。
それなのに不思議と怖くはなかった。
久しぶりにちゃんと強い相手と戦える。
胸の奥が静かに高鳴っていた。
「でも……」
ノエルが思わず口を開く。
すると、たるとが優しく微笑んだ。
「ガウなら大丈夫です」
シズクも静かに頷く。
「後方はこちらで守ります」
「ガウは戦闘に集中してください」
俺は小さく頷いた。
「ありがとう」
そしてノエルを見る。
「今回は見ててね」
ノエルは一瞬だけ迷った。
それでも俺の顔を見て、ゆっくりと頷く。
「……分かりました」
「お気を付けてください」
「うん」
俺は前へ歩き出す。
シズクが《白晶》を掲げた。
淡い光が広がり、たるととノエルを包み込む。
透明な結界が幾重にも重なり、二人の前へ展開された。
「これで大丈夫です」
「お二人には近付けません」
「頼んだよ」
俺は短く返事をすると再び熊型魔物へ視線を向けた。
巨大な魔物は低く唸りながら、ゆっくりと爪を構える。
広間に緊張が満ちていく。
そして――。
熊型魔物が大きく地面を踏み締めた。
次の瞬間。
その巨体が弾けるように駆け出した。
ドゴォォン!!
踏み込みだけで地面が砕ける。
四メートルを超える巨体とは思えない速度。
一直線に俺との距離を詰めてきた。
「速い……!」
ノエルが思わず声を漏らす。
巨大な右腕が振り上げられる。
鋭い爪が空気を裂き、そのまま俺へ振り下ろされた。
ズガァァァン!!
床が爆ぜる。
岩石が宙へ舞い、土煙が広がった。
「ガウさん!」
ノエルが叫ぶ。
しかし。
土煙の中に俺の姿はなかった。
「……後ろです」
シズクが静かに呟く。
熊型魔物の背後。
俺はすでに《朧》を構えていた。
「遅い!」
ヒュンッ!
黒い刀身が閃く。
ギィィン!!
鋭い音が広間へ響いた。
《朧》が熊型魔物の脇腹を捉える。
だが。
「硬い」
分厚い毛皮と筋肉が刃を受け止めていた。
熊型魔物は振り返りざまに腕を薙ぎ払う。
ブォンッ!!
凄まじい風圧。
俺は後方へ跳び、紙一重で回避する。
巨大な爪が目の前を通り過ぎた。
続けざまに左腕。
さらに牙を剥き出しにして噛み付いてくる。
攻撃は止まらない。
振り下ろし。
横薙ぎ。
突進。
踏み潰し。
一撃一撃が致命傷になり得る威力だった。
それでも。
俺には見えている。
「動きは単調」
最小限の動きだけで避け続ける。
右へ半歩。
左へ一歩。
身体を沈める。
跳ぶ。
速い。
重い。
だが。
何をしてくるのかは分かりやすい。
「すごい……」
ノエルが息を呑む。
「あれだけの攻撃を全部……」
たるとは嬉しそうに微笑む。
「ガウは相手の動きを見るのがとっても上手なんですよ」
シズクも静かに頷いた。
「まだ様子を見ています」
「弱点を探しているのでしょう」
熊型魔物は苛立ったように咆哮する。
ギャオォォォォォッ!!
怒りに任せ、再び突進した。
その巨体が目前まで迫る。
俺は迎え撃つように一歩踏み込んだ。
ギリギリまで引き付ける。
熊型魔物の巨大な爪が目前まで迫った、その瞬間。
スッ――。
半歩だけ身体をずらす。
爪は俺の頬をかすめ、空を切った。
「避けた!?」
ノエルが思わず声を上げる。
俺はそのまま熊型魔物の懐へ潜り込む。
《朧》を振るう。
ヒュンッ!
ギィィン!!
再び硬い感触。
刃は弾かれた。
だが。
今度は見えた。
俺は熊型魔物の足元へ視線を落とす。
踏み込んだ瞬間だけ。
分厚い筋肉が動き、毛皮の隙間が僅かに開く。
「そこ」
一瞬の隙。
《朧》が閃く。
ザシュッ!!
「ギャオォォォッ!!」
熊型魔物が初めて苦痛の咆哮を上げた。
後ろへ大きく飛び退く。
今まで通らなかった刃が、確かに熊型魔物の脚へ傷を刻んでいた。
俺は静かに《朧》を構え直す。
「なるほど」
「全部が硬いわけじゃないんだ」
熊型魔物は怒りに満ちた目で俺を睨み付ける。
床を砕きながら何度も地面を踏み鳴らした。
傷付けられたことが許せないのだろう。
「弱点を見つけた……」
ノエルが小さく呟く。
シズクも静かに頷く。
「ええ」
たるとも安心したように笑った。
「ここからがガウの本番ですね!」
熊型魔物が大きく息を吸い込む。
そして。
再び全力で地面を蹴った。
ギャオォォォォッ!!
怒りに任せて巨大な腕を振り抜く。
俺はその一撃を避ける。
ズガァァァァン!!
巨大な爪が広間の岩壁へ激突した。
岩壁が砕け散る。
大小無数の岩が砲弾のような勢いで後方へ飛んだ。
俺は横目でそれを捉える。
だが。
振り返らない。
シズクがいる。
それだけで十分だった。
「頼んだよ!」
小さく呟くと同時に、俺は迷うことなく熊型魔物へ駆け出した。
「しまっ――!」
ノエルが大盾を構える。
この距離では避けられない。
だが。
シズクは一歩も動かなかった。
《白晶》を静かに掲げる。
二人を包んでいた淡い光が強く輝いた。
次の瞬間。
ドドドドドドドッ!!
無数の岩が結界へ激突した。
轟音が広間へ響き渡る。
しかし。
結界は揺らがない。
ひび一つ入ることなく、飛来した岩石をすべて受け止めていた。
「……え?」
ノエルは思わず息を呑む。
あれほどの勢いだった岩が一つ残らず防がれている。
シズクは静かに《白晶》を構えたまま答えた。
「言ったはずです」
「お二人には近付けません」
その表情は変わらない。
結界はなおも淡く輝き続けていた。
「シズクの結界術は世界一です!」
たるとが自分のことのように嬉しそうに声を上げる。
シズクは少しだけ照れたように微笑む。
「これが私の役目ですから」
そのやり取りを見ることなく。
俺は一気に距離を詰める。
熊型魔物は大きく目を見開いた。
後ろへ飛んだ岩を気にも留めず、こちらへ向かってくるとは思わなかったのだろう。
「ギャオォォォッ!!」
怒りの咆哮。
巨大な腕が横薙ぎに振るわれる。
ブォォンッ!!
空気が唸る。
俺は身体を沈め、その一撃をくぐり抜けた。
そのまま懐へ潜り込む。
《朧》が閃く。
ヒュンッ!!
ザシュッ!
今度は反対の脚へ浅い傷が走る。
「ギャアァァァッ!」
熊型魔物が苦痛に顔を歪めた。
怒りに任せて拳を叩き付ける。
ドゴォォォン!!
地面が大きく陥没する。
岩盤が砕け、破片が飛び散る。
だが。
その拳が俺を捉えることはない。
右へ。
左へ。
最小限の動きだけで攻撃を回避し続ける。
ノエルは呆然と呟いた。
「一度も攻撃が当たらない……」
シズクも静かに戦いを見つめている。
熊型魔物は完全に苛立っていた。
攻撃が当たらない。
その一方で。
自分の身体には少しずつ傷が増えていく。
怒りのまま、再び大きく腕を振り上げる。
「もういいかな」
俺は小さく呟く。
《朧》をゆっくりと構え直した。
黒い刀身が静かに輝く。
そして。
俺の足元からわずかに黒い煙が立ち上り始めた。
「……黒い煙?」
ノエルが目を見開く。
俺の足元から立ち上る黒煙はゆっくりと身体へ絡み付いていく。
腕へ。
肩へ。
そして《朧》へ。
黒い刀身を包むように煙が流れ始めた。
ノエルは思わず息を呑む。
たるとはどこか懐かしそうに微笑んだ。
「久しぶりですね」
「ガウがアークスキルを使うのは」
シズクも静かに頷く。
「ええ」
そして。
初めて見るノエルへ告げるように口を開いた。
「《黒煙支配》」
「ガウのアークスキルです」
黒煙は音もなく揺らめく。
激しく燃え上がるわけでもない。
何かを破壊するような音もない。
それでも。
空気が変わった。
ノエルは大盾を握ったまま息を呑んでいる。
熊型魔物も本能で危険を察したのか、僅かに後ずさった。
「ギャ……」
さっきまでの勢いが消える。
巨大な身体が警戒するように低く構えた。
俺は静かに《朧》を構える。
「いくよ」
その一言と同時に。
ドンッ!!
地面が弾けた。
今度は俺が駆ける。
「速っ……!」
ノエルの目ではその動きを追えなかった。
黒煙だけが一直線に走り抜ける。
熊型魔物は慌てて巨大な腕を振るう。
ブォォンッ!!
だが。
そこに俺の姿はない。
一歩。
二歩。
三歩。
黒煙だけを残しながら熊型魔物の周囲を駆け抜ける。
「ギャオォォォッ!!」
魔物は怒り任せに腕を振り回す。
だが。
そのすべてが空を切る。
俺は静かに息を吐く。
そして。
《朧》をゆっくりと振り上げた。
黒煙が刀身へ吸い寄せられるように集束していく。
ゆらり。
ゆらり。
黒い煙が刃へ絡み付き。
まるで刀そのものが闇を纏ったかのようだった。
熊型魔物が大きく咆哮する。
「ギャオォォォォォッ!!」
地面を砕きながら再び突進。
一直線に俺へ迫ってくる。
俺は逃げない。
ただ静かに《朧》を構えた。
「《黒煙斬》」
その瞬間。
黒煙が一気に広がり、俺の姿を覆い隠した。
「えっ……!?」
ノエルが目を見開く。
視界一面へ黒煙が広がる。
熊型魔物は標的を見失い、足を止めた。
「ギャッ!?」
次の瞬間。
ヒュンッ――。
黒煙の中から一筋の黒い斬撃が走る。
ザンッ!!
熊型魔物の巨体を斜めに切り裂いた。
一拍遅れて。
俺は熊型魔物の背後へ姿を現す。
《朧》を静かに鞘へ納めた。
カチッ――。
小さな納刀音が広間へ響く。
熊型魔物はその場に立ち尽くしたまま動かない。
「ギャ……」
巨体がゆっくりと揺れた。
そして。
ズズゥンッ!!
轟音とともに地面へ崩れ落ちる。
広間全体を揺らすほどの衝撃。
静寂。
辺りを漂っていた黒煙もゆっくりと薄れていく。
ノエルは呆然と立ち尽くしていた。
何が起きたのか。
ほとんど理解できていないようだった。
見えたのは黒い煙。
そして。
気付いた時にはダンジョンの主はすでに倒れていた。
たるとは嬉しそうに笑う。
「お疲れさまです!」
シズクも柔らかく微笑んだ。
「さすがですね」
俺は《朧》から手を離し、小さく息を吐く。
「思ったより強かったよ」
久しぶりに強い相手と戦えた充足感が胸の奥へ静かに残っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回はガウのアークスキル《黒煙支配》を初披露しました。
ぜひ次回もよろしくお願いします!




