第9話「神意の名の下に」
王都中央大聖堂は、朝から人で溢れていた。
白亜の石壁に陽光が反射し、巨大な鐘楼が影を落とす。貴族、商人、市井の民までが集まっている。
第一王子が声明を出す――その噂は一夜で広がっていた。
エレノアは馬車の中から広場を見つめる。
フード付きの外套を羽織り、目立たぬ装い。
公式に出ることはできない。
だが、見ることはできる。
「位置はここで」
セシルが低く告げる。
聖堂側面の回廊。正面広場より少し離れ、しかし声は届く距離。
やがて、ざわめきが波のように広がる。
第一王子ルシアンが現れた。
白と金の装束。背筋を伸ばし、堂々と歩む姿は、まさしく王の器。
(……憎めない)
そう思ってしまう自分に、わずかに苛立つ。
彼は冷酷だ。
だが、信念はある。
壇上に立ち、民衆を見渡す。
「諸君」
よく通る声。
「近頃、王家婚約法に関し、不穏な噂が流れている」
ざわめきが止む。
「婚約破棄が乱用されている、と」
エレノアの指が外套の内側でわずかに握られる。
「だが、断言しよう」
ルシアンは一歩踏み出す。
「王家婚約法は、国家安寧を守るための盾である」
強い言葉。
「我らは私情で婚約を破棄することはない」
視線がまっすぐ前を向く。
そこに、迷いはない。
「すべては、国を守るため」
背後から、柔らかな声が続く。
「神の御心もまた、秩序を重んじます」
聖教会の巫女、アマリア。
白い法衣に身を包み、静かに立つ。
その姿は清廉で、嘘をつかぬ人間の顔だ。
「神は、混乱を望まれません」
民衆が頷く。
信仰は強い。
(……強固だ)
エレノアは冷静に分析する。
法律と宗教。
二重の正当化。
崩すには、どちらも揺らさねばならない。
「王家婚約法第十二条は、軽々しく使われるものではない」
ルシアンが続ける。
「だが、国家に害をなす可能性があるならば、王家は決断する義務がある」
害。
可能性。
曖昧な言葉。
「犠牲はある」
その一言に、広場がざわめく。
「だが、王は選ばねばならない」
彼の瞳に、覚悟が宿る。
嘘ではない。
彼は本気で国を優先している。
だからこそ、危険だ。
その時。
「ならば、基準を明示すべきだ」
別の声が響いた。
低く、よく通る。
広場の空気が揺れる。
第二王子アルベルトが、階段を上がってくる。
公式な登場。
ざわめきが広がる。
兄弟が、同じ壇上に立つ。
「兄上」
アルベルトは静かに礼をする。
「婚約法の正当性を疑うつもりはない」
民衆が息を呑む。
「だが、運用の透明性は必要だ」
ルシアンの瞳が、わずかに細まる。
「透明性?」
「発動基準と、発動後の処理について、記録を公開するべきだ」
広場に波紋。
「国家機密だ」
ルシアンが即座に返す。
「すべてではなく、統計でよい」
アルベルトは冷静。
「婚約破棄が急増している事実を、民に説明すべきだ」
エレノアの心臓が強く打つ。
言った。
公の場で。
ルシアンの視線が鋭くなる。
「急増?」
「三年前から」
静かだが、はっきり。
ざわめきが広がる。
数字は出していない。
だが印象は植えた。
アマリアが二人を見比べる。
「……殿下方」
柔らかな声。
「神は、真実を恐れません」
一瞬、空気が止まる。
「もし民が不安を抱いているならば、説明は必要でしょう」
ルシアンの表情がわずかに変わる。
教会が完全に味方ではない。
アルベルトは一礼する。
「感謝します」
ルシアンは数秒、沈黙し。
「検討しよう」
それだけを言う。
完全な拒否ではない。
だが、受諾でもない。
広場はざわめきのまま解散へ向かう。
兄弟は視線を交わす。
無言の対峙。
そして、別方向へ去る。
回廊の陰で、エレノアは深く息を吐いた。
「……成功ですか」
セシルが小声で問う。
「第一歩は」
完全勝利ではない。
だが、対立は公になった。
婚約破棄は、もはや密室の決定ではない。
民衆の前に出た。
馬車に戻る途中、背後から柔らかな声がかかる。
「エレノア様」
振り向く。
アマリアが立っていた。
至近距離。
「少し、お時間をいただけますか」
その瞳は、澄んでいる。
だが迷いもある。
エレノアは頷く。
「もちろんです」
セシルが距離を取りつつ警戒する。
回廊の奥、小さな庭。
人目はあるが、耳は遠い。
アマリアが静かに言う。
「婚約破棄の件、あなたのことは存じています」
「光栄です」
「光栄ではありません」
きっぱり。
「あなたは、無実ですか」
直球。
「はい」
即答。
アマリアは目を閉じる。
「神は、不義を望みません」
「ならば」
エレノアは一歩踏み出す。
「神意の名で、どれだけの家門が切られたのか、ご存じですか」
静かな問い。
アマリアの瞳が揺れる。
「……すべては把握していません」
「ならば、共に確認を」
数字を思い浮かべる。
「真実を知ることは、信仰に背きません」
沈黙。
庭の噴水の音だけが響く。
やがてアマリアは小さく頷く。
「資料を、拝見させてください」
胸の奥が熱くなる。
「喜んで」
手を差し出す。
アマリアはその手を取る。
柔らかいが、力強い握手。
制度と信仰。
二つの柱の一つに、ひびが入る。
遠くで鐘が鳴る。
それは祈りの音か、戦の合図か。
エレノアは確信する。
婚約破棄は終わった。
だが今、王家婚約法そのものが、民衆の視線に晒された。
そして。
彼女はもう、囲いの中の存在ではない。
盤上に戻ったのだ。
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