第10話「切り札の代償」
別邸へ戻る頃には、王都の空は薄闇に沈んでいた。
聖堂での対峙は、既に噂となって広がり始めているだろう。
第一王子と第二王子が、公の場で婚約法を巡って意見を違えた。
それだけで十分な衝撃だ。
執務室に入ると、アルベルトはすでに戻っていた。
軍装の上着を脱ぎ、机に肘をついている。
「動いたな」
短い言葉。
「はい」
「アマリアは?」
「資料を求めました」
アルベルトの目がわずかに細まる。
「教会が割れれば、兄上は面倒だ」
「完全には割れません」
「だろうな」
彼は立ち上がり、窓辺へ歩く。
鉄柵の向こう、夜警の灯りが揺れる。
「兄上から書状が届いた」
振り返らずに言う。
「何と」
「“内輪揉めを公にするな”と」
予想通り。
「従いますか」
「従えば、今日の発言は無意味になる」
静かな声。
「従わなければ、対立は深まる」
王位継承戦争の、明確な幕開け。
エレノアは机に広げた資料を整える。
「殿下」
「何だ」
「私は、盾になります」
振り返るアルベルト。
「どういう意味だ」
「婚約破棄の当事者は私です」
視線を逸らさない。
「私が前に出れば、殿下の政治的負担は減る」
「甘く見るな」
低い声。
「君が前に出れば、攻撃も君に向く」
「承知しています」
「……命の危険もある」
「承知しています」
繰り返す。
アルベルトは数秒、無言で見つめる。
「なぜ、そこまで」
「怒っているからです」
静かな答え。
「私だけではない。リリアナ様も、他の令嬢も」
喉の奥が熱い。
「制度は、静かに人を殺します」
アルベルトの瞳が揺れる。
「だから、私は前に出る」
沈黙。
やがて彼は歩み寄る。
「君は私を王にする気か」
「違います」
「ならば」
「王であろうとするあなたを、正しい方向へ押すだけです」
大胆な言葉。
だが真実。
アルベルトは小さく笑う。
「君は本当に危険だ」
「殿下もです」
距離が近い。
呼吸が交わる。
「兄上は、次の一手を打つ」
「何を」
「婚約」
その一言で、空気が凍る。
「私に、新たな縁談を持ち込むだろう」
政治的包囲。
「……誰と」
「隣国の王女か、あるいは大公家の娘」
胸の奥がきゅ、と締め付けられる。
だが顔には出さない。
「受けますか」
「断れば、兄上の思う壺だ」
合理。
「受ければ」
「君はさらに孤立する」
正直な言葉。
痛い。
だが逃げない。
「殿下」
「何だ」
「私は、飾りではありません」
「知っている」
「あなたが他の女性と婚約しても、私は止まりません」
声は震えない。
胸は揺れている。
アルベルトの目が、はっきりと揺れる。
「……嫉妬は」
「します」
即答。
沈黙。
「ですが、それ以上に怒りがあります」
制度への。
「個人の感情で、目的を見失いません」
アルベルトがゆっくりと息を吐く。
「君は、強すぎる」
「殿下が弱いからです」
思わず言ってしまう。
一瞬、空気が止まる。
だが彼は怒らない。
むしろ、苦笑する。
「確かに」
そして、真剣な目で見つめる。
「だが、私は君を失う気はない」
低い声。
甘い。
だが重い。
「政治と愛は別だと言ったな」
「はい」
「だが、別だからといって切り離せるわけではない」
彼の手が、そっとエレノアの手を包む。
温かい。
「私は王位を取るかもしれない」
「はい」
「だが、その隣に立つのは」
一瞬、言葉を探す。
「君だ」
胸が強く打つ。
「今は名を与えられない」
「承知しています」
「だが、位置は決めている」
甘い。
だが未来は未確定。
それでも。
「ならば」
エレノアは手を握り返す。
「私は、あなたを王にするのではなく」
まっすぐ見つめる。
「王にふさわしい制度を作ります」
アルベルトの瞳が、深くなる。
「……大きく出たな」
「最初から、そのつもりです」
静かな笑い。
だがその直後、扉が激しく叩かれる。
「殿下!」
副官の声。
「入れ」
扉が開く。
「クローディア伯爵家への監査が、予定より早まりました。今夜です」
空気が凍る。
「理由は」
「匿名の密告」
エレノアの背筋が冷える。
「……罠」
アルベルトが低く言う。
「兄上は、こちらの動きを読んでいる」
机の上の資料が揺れる。
「殿下」
エレノアが即座に言う。
「私が行きます」
「無理だ」
「彼女は私を信じた」
拳が震える。
「ここで切れば、私は制度と同じになる」
沈黙。
アルベルトは数秒考え、
「馬を出せ」
副官が走る。
「エレノア」
「はい」
「これは戦だ」
「はい」
「覚悟はあるな」
「最初から」
外で兵が動く音。
夜の王都がざわめき始める。
甘さは消えた。
残るのは緊張と決意。
切り札には、代償がある。
だが。
彼女はもう、退かない。




