第8話「数字は嘘をつかない」
夜が更けても、執務室の灯りは消えなかった。
机の上には、エレノアが作成した表が広げられている。
十五年分の婚約破棄件数。
家門の規模。
派閥。
財政規模。
軍との関係。
整然と並ぶ数字。
アルベルトは無言でそれを眺めていた。
「ここを」
エレノアが指先で示す。
「三年前から、商会との直接取引を持つ家門が集中しています」
「軍備拡張期と重なる」
「ええ」
窓の外では夜警の足音が響く。
「婚約破棄で家門を弱体化させ、その資産を王家管理下へ再編」
「軍費へ流す」
アルベルトが淡々と続ける。
「兄上は表向き、国境防衛を理由にしている」
「実際に脅威は?」
「ある」
即答。
「だが急ぎすぎている」
エレノアは目を伏せる。
戦の匂い。
制度は内政の刃であり、外征の準備でもある。
「……ならば、私の件も」
「派閥整理の一環だろう」
はっきり言われると、胸がわずかに痛む。
「ヴァレンティス家は、軍費増強に慎重だった」
「父は、段階的整備を主張していました」
「それが遅いと判断された」
合理。
だが冷酷。
沈黙が落ちる。
エレノアは紙を一枚取り出す。
「こちらは、非公開案件の比率です」
「ミレイユか」
「ええ。直接ではありませんが、傾向は掴めました」
非公開案件は三年前から増加。
理由は“国家機密”。
「情報統制も強まっている」
アルベルトの声が低くなる。
「兄上は盤面を閉じ始めている」
「ならば、こちらは開きましょう」
エレノアが言う。
「どこを」
「噂から」
机の端に別の紙を置く。
「王都の商業区。教会の説教。貴族の夜会」
「数字を直接出すのは危険だ」
「ええ。ですが“増えている”という印象は植えられます」
アルベルトは腕を組む。
「誰が動く」
「リリアナ様の商会は情報網があります」
「巻き込むのか」
「既に巻き込んでいます」
彼は小さく息を吐く。
「君は本当に、退かないな」
「退く理由がありません」
視線が交わる。
怒りではない。
決意。
「……慎重にやれ」
「はい」
その時、扉が叩かれる。
「殿下」
副官の声。
「入れ」
扉が開く。
「第一王子殿下が、明日、教会にて婚約法の正当性について声明を出されます」
やはり。
先手を打たれた。
「内容は」
「“王家婚約法は神意に基づく秩序維持の柱”とのこと」
エレノアの胸が冷える。
神意。
宗教を盾にする。
「聖教会は」
「巫女アマリア様が同席予定です」
アルベルトの表情がわずかに動く。
「……彼女は盲目的ではない」
「ですが、教会は王家寄りです」
「今のところは」
副官が退出する。
静寂。
「神意と結びつけられれば、改正は困難になる」
エレノアが呟く。
「ならば」
アルベルトが言う。
「神意の解釈を揺らす」
「教会内部から?」
「可能性はある」
エレノアは考える。
制度は法律。
だが正当性は信仰。
「……アマリア様とお会いできますか」
「直接は難しい」
「間接的でも」
アルベルトは少し考え、
「機会を作る」
短く言う。
机の上の数字が、蝋燭の光で揺れる。
「エレノア」
「はい」
「この道は、引き返せない」
「承知しています」
「兄上は容赦しない」
「私もです」
一瞬、空気が張る。
彼はゆっくりと頷く。
「明日の声明後、動く」
「噂を?」
「いや」
彼の瞳が鋭くなる。
「公開の場で、異議を唱える」
心臓が強く跳ねる。
「殿下が?」
「そうだ」
「それは……」
王位争いの明確化。
「覚悟はあるか」
問われる。
エレノアは迷わない。
「あります」
沈黙。
やがて、アルベルトは小さく笑う。
「君は、本当に危うい」
「殿下ほどでは」
わずかな冗談。
だがすぐに真顔に戻る。
「数字は嘘をつきません」
紙を見つめる。
「ですが、数字を読む人間が嘘をつく」
「だからこそ、読む目を増やす」
王都に。
教会に。
商会に。
小さな波を重ねる。
外で風が吹く。
鉄柵がかすかに鳴る。
囲いの中。
だがここは、戦略室でもある。
アルベルトが静かに言う。
「明日から、兄と私の対立は隠せなくなる」
「望むところです」
「強いな」
「強くなりました」
彼と目が合う。
甘さはある。
だが今はそれよりも、緊張が勝る。
婚約破棄は終わった。
だが。
制度の破棄は、まだ遠い。
蝋燭の炎が揺れる。
その光の中で、エレノアは確信する。
数字は嘘をつかない。
だが、数字だけでは足りない。
次は――
信仰を揺らす。




