第7話「優しい人の冷たい決断」
別邸に戻ると、空気がわずかに張り詰めていた。
門の兵の数が増えている。
中庭の巡回も、いつもより密だ。
(……動きがあった)
馬車を降りると、セシルが低く告げた。
「殿下は執務室に」
「急ぎですか」
「はい」
足早に廊下を進む。
扉の前に立つ私兵が一礼し、道を開ける。
中から低い声が漏れていた。
「……それでは遅い」
アルベルトの声。
「証拠を揃える前に動かれれば、こちらが不利になる」
誰かと話している。
副官だろうか。
エレノアが近づくと、扉の向こうで足音が止まった。
「入れ」
短い許可。
扉を開ける。
室内にはアルベルトと、灰色の軍服を着た男がいた。
「下がれ」
男は一礼し、退出する。
重い沈黙。
「何がありましたか」
エレノアが問う。
アルベルトは机に広げた書類を示す。
「クローディア伯爵家に監査が入る」
心臓が強く打つ。
「時期は」
「三日以内」
早い。
「理由は」
「商会資金の流れが不透明、という名目だ」
名目。
実際は牽制。
「……私が動いたからですか」
「可能性はある」
正直な答え。
胸の奥が冷える。
リリアナの笑顔が脳裏に浮かぶ。
「殿下は、止めますか」
静かに問う。
アルベルトは数秒、無言でエレノアを見る。
「止められる」
「ですが」
「止めれば、兄上は私が背後にいると確信する」
王位争いが一段階進む。
準備が整う前に。
「……では」
「切るしかない」
その言葉は、冷たい刃のようだった。
「一時的にだ」
「一時的でも」
声がわずかに震える。
初めて。
「あなたは彼女を共犯にした」
アルベルトの声が低くなる。
「守ると言ったな」
「はい」
「守るとは、常に目の前の人間を優先することではない」
痛いほど理性的な言葉。
「制度を壊すなら、感情で動くな」
自分が言われた言葉。
怒りは燃料、操縦桿にするな。
だが。
「……納得は、できません」
はっきり言う。
アルベルトの瞳が揺れる。
「だから、君は必要だ」
「必要?」
「私一人なら、合理で切る」
机の端を指で叩く。
「だが君は、そこに人間を見る」
沈黙。
「監査は入る」
続ける。
「だが潰させはしない」
「どうやって」
「別の案件をぶつける」
視線が鋭くなる。
「より大きな標的を」
理解する。
兄の派閥の中枢に、疑惑を投げる。
「危険です」
「承知している」
互いに同じ言葉を繰り返す。
それでも進む。
「殿下」
「何だ」
「私は、駒ではありません」
再び言う。
「知っている」
「ですが、あなたもまた」
言葉を選ぶ。
「私の王ではありません」
一瞬、空気が凍る。
兵の気配が遠くで動く。
アルベルトは怒らない。
ただ、じっと見つめる。
「……そうだな」
静かな肯定。
「私はまだ、王ではない」
「王になっても、です」
息を呑むほど大胆な言葉。
だが逸らさない。
「私は、あなたの隣に立ちたい」
告白ではない。
立場の宣言。
アルベルトの瞳が、初めて柔らかくなる。
「隣か」
「はい」
「従うのではなく?」
「共に決める」
沈黙。
長い沈黙。
やがて、彼は椅子から立ち上がる。
一歩、近づく。
距離が縮まる。
「君は、危うい」
「よく言われます」
「私を止める」
「必要なら」
わずかに口元が上がる。
「ならば」
彼の手が、そっとエレノアの頬に触れる。
驚くほど優しい。
「共に責任を負え」
低く、真剣な声。
「制度を壊すなら、私も君も無傷では済まない」
「承知しています」
「嘘ではないな」
「ええ」
彼の指先が離れる。
ほんの一瞬の温もり。
甘い。
だが甘さは一瞬。
「副官を呼ぶ」
すぐに現実へ戻る。
「クローディア家への監査は形式的なものに留めるよう圧力をかける」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
机に向かう背中。
「兄上は次の手を打つ」
「私に対して?」
「あるいは、別の家門に」
連鎖。
止まらない刃。
エレノアは深く息を吸う。
「ならば」
「何だ」
「先に世論を動かします」
アルベルトが振り返る。
「世論?」
「婚約破棄が連続している事実を、ささやかに広める」
「証拠は」
「数字があります」
机の上の表を示す。
「統計は嘘をつきません」
彼は数秒考え、
「危険だ」
「承知しています」
視線がぶつかる。
恐怖はある。
だが、それ以上に燃えるものがある。
アルベルトはゆっくりと頷いた。
「慎重にやれ」
「はい」
「私の名は出すな」
「もちろん」
短い合意。
外で、鐘が鳴る。
夕刻。
祝宴から数日。
だが王都の水面下では、波が広がり始めている。
アルベルトが最後に言う。
「エレノア」
「はい」
「君を愛している」
唐突な言葉。
息が止まる。
「だが」
やはり、続きがある。
「それとこれは別だ」
甘く、そして冷たい。
胸の奥が強く震える。
「私もです」
小さく答える。
愛しているとは言わない。
だが同じ温度を返す。
甘さと刃が同居する部屋で。
彼女は確信する。
これは恋の物語では終わらない。
制度と王位と、そして愛。
全てを巻き込む戦いが、静かに始まっていた。




