第5話「記録官ミレイユ」
午後三刻。
約束の時刻ぴたりに、別邸の応接間へ通されたのは一人の女性だった。
三十前後だろうか。栗色の髪を後ろでひとつに束ね、飾り気のない濃紺のドレスを着ている。胸元には王宮記録室の徽章。
その歩き方は、貴族の優雅さとも侍女の従順さとも違う。
職業人のそれだ。
「王宮記録室責任者、ミレイユ・ラドゥリエと申します」
簡潔な礼。
頭は下げるが、卑屈ではない。
「エレノア・ヴァレンティスです」
互いに名乗る。
肩書きはもうない。
応接間の隅にはセシルが立っている。壁際には私兵が一人。
ミレイユの視線が一瞬、部屋をなぞる。
「……殿下の“管理下”と伺いました」
言葉に含みがある。
「その通りです」
「なるほど」
それ以上は言及しない。
鞄から分厚い書類束を取り出し、卓上に置く。
「過去十五年分の婚約破棄関連文書。公開可能範囲です」
「公開“可能”」
「はい。非公開文書は王族の許可が必要です」
つまり。
アルベルト経由。
最初から分かっている。
ミレイユがエレノアを見る。
「単刀直入に申し上げます」
声は落ち着いている。
「なぜ、そこまで調べるのですか」
「無実だからです」
即答。
ミレイユの眉がわずかに上がる。
「無実の証明なら、ご自身の件のみで足りるのでは?」
「いいえ」
書類をめくりながら言う。
「私だけが狙われたのではない」
数字を示す。
「三年前から急増。家門の傾向も偏っています」
ミレイユが近づき、資料を覗き込む。
「……お早いですね」
「職業病です」
皮肉を込める。
ミレイユの口元がわずかに緩む。
「記録は嘘をつきません」
「ええ」
「ですが、解釈は人間が行う」
視線が交わる。
「あなたは、何を証明したいのですか」
一瞬、言葉を選ぶ。
「婚約破棄が、国家安寧のために適切に運用されているかどうか」
建前。
だが本質でもある。
「……大胆ですね」
ミレイユは椅子に腰を下ろす。
「王家婚約法は、神聖不可侵とされてきました」
「条文は人が書いたものです」
「改正は容易ではありません」
「改正できるかどうかは、まだ考えていません」
正直に言う。
「まずは、事実を知る」
沈黙。
セシルの気配が静かに揺れる。
ミレイユはしばらくエレノアを見つめた後、小さく息を吐いた。
「……私は記録官です。感情では動きません」
「それで結構です」
「ですが」
指で書類の一角を叩く。
「非公開扱いの案件が増えている」
「いつ頃から」
「三年前」
やはり。
「理由は」
「国家機密」
便利な言葉。
エレノアは机に広げた表に、印をつける。
「非公開案件の家門を教えていただけますか」
「正式には無理です」
「正式でなくても」
視線を外さない。
ミレイユがわずかに笑う。
「……殿下の許可があれば」
つまり。
彼女は完全な味方ではない。
だが敵でもない。
「協力の対価は」
ミレイユが問い返す。
取引だ。
「あなたの記録が、後世に正確に残ること」
即答する。
「歪められずに」
ミレイユの瞳が、わずかに揺れた。
「理想論ですね」
「ええ」
「ですが、嫌いではありません」
立ち上がる。
「三日後、追加資料を持参します」
「ありがとうございます」
形式的な礼。
だがその間に、何かが成立した。
ミレイユが退出する。
扉が閉じる。
セシルが一歩近づく。
「……信頼なさいますか」
「完全には」
「危険です」
「承知しています」
椅子に座り直す。
「殿下は」
「今夜戻られます」
静かな報告。
窓の外、夕陽が沈みかけている。
光が鉄柵に反射する。
閉じ込められた場所。
だが同時に、情報が集まる場所。
机の上に、破棄事例の家名が並ぶ。
クローディア伯爵家。
他にも、いくつか。
ある共通点が浮かび上がる。
(商会と繋がりの強い家門……)
財政。
軍費。
次の瞬間、背筋が冷える。
もし。
婚約破棄が財源整理の手段なら。
不要な派閥を切り、資金を再配分する。
戦争準備。
窓の外、遠くで軍鼓の音が微かに響いた気がした。
偶然か。
それとも。
扉が再び開く。
アルベルトが戻る。
軍装のまま、疲労の色を隠さない。
「記録官はどうだった」
「実務的です」
「利用できるか」
「取引次第で」
彼は頷く。
「兄上は、近く教会と会談する」
「教会」
「婚約法の“神意”について」
やはり。
宗教の裏付け。
「強固にしますか」
「だろうな」
静かな肯定。
エレノアは机に置いた紙を彼に差し出す。
「ご覧ください」
彼が目を通す。
「……商会関連家門が多いな」
「ええ」
「軍費増強のための再編か」
彼自身が口にする。
視線が合う。
同じ推測。
「殿下は、戦をお考えですか」
「私は望まない」
即答。
「だが、兄上は違う」
空気が重くなる。
「内を整え、外へ向ける」
「その前に」
エレノアは静かに言う。
「内を壊します」
アルベルトが一瞬、目を細める。
「大胆だな」
「怒っていますから」
初めて、わずかに感情を見せる。
唇が震えるわけではない。
だが声に熱が宿る。
「私だけではない。切られた家門、切られる予定の家門」
彼の視線が鋭くなる。
「予定?」
「クローディア伯爵家。次に狙われる可能性が高い」
アルベルトは数秒考え、
「……警告は難しい」
「承知しています」
「だが」
彼はゆっくりと続ける。
「先に接触する方法はある」
視線が交わる。
共犯。
「殿下」
「何だ」
「私は、ここから出ます」
再び言う。
「彼女に会う」
クローディア伯爵家の令嬢。
婚約破棄を生き延びた者。
アルベルトはしばらく沈黙し、
「明後日、馬車を出す」
低く告げる。
「公式ではない」
「はい」
「護衛はつける」
「構いません」
条件付きの自由。
囲いの中の第一歩。
彼が近づく。
距離が、自然に縮まる。
「エレノア」
「はい」
「無茶はするな」
その言葉だけ、少し柔らかい。
「無茶はしません」
「嘘だな」
わずかに笑う。
その表情を見て、胸の奥が小さく熱を持つ。
甘い。
だが、甘さの裏に戦の匂いがある。
窓の外、夜が落ちる。
鉄柵の影が長く伸びる。
囲いの中で。
だが確実に。
彼女は盤面に戻りつつあった。




