第4話「監視の気配」
翌朝、目覚めた瞬間に、ここが王宮ではないことを思い出した。
天蓋のない寝台。装飾の少ない天井。静かすぎる空気。
窓の外では、既に兵の交代の足音がしている。
(規則正しい……)
軍の管理下だとわかる音だ。
「おはようございます、エレノア様」
侍女が二人、完璧な所作で一礼する。
「セシルと申します」
黒髪をきっちりとまとめた、無表情の若い女。
「マリアンです」
柔らかな笑みを浮かべる、もう一人。
対照的だが、共通点がある。
目が冷静だ。
観察している。
「よろしくお願いします」
微笑み返しながら、エレノアは気づく。
部屋の配置が絶妙だ。
窓は高い位置。外からの侵入は困難。
廊下は一直線で、死角が少ない。
部屋の隅、花瓶の陰に小さな穴。
(……音を拾える)
盗聴とまでは言わない。
だが、音の通り道は設計されている。
「殿下より、資料が届いております」
セシルが机を示す。
既に積まれた書類。
王宮記録室の封印が押されている。
動きが早い。
椅子に座る。
封を切る。
タイトル。
――王家婚約法発動事例一覧(過去十五年)
心臓が一拍、強く打つ。
十五年。
祝宴では十年と考えた。
彼は、より長い。
「閲覧は自由ですか」
「殿下の許可は既に」
セシルが淡々と答える。
つまり。
彼は想定していた。
自分がここまで踏み込むことを。
ページをめくる。
年号、家名、発動条文、処理結果。
最初の数年は散発的。
だが。
八年前から、明らかに増えている。
特に三年前から急増。
(兄上が実権を握り始めた時期……)
数字が語る。
婚約破棄は偶発ではない。
政策だ。
「エレノア様」
マリアンが控えめに声をかける。
「お食事を」
「後で」
即答する。
視線を上げない。
セシルが一瞬、目を細める。
観察。
評価。
彼女はただの侍女ではない。
「殿下は」
エレノアは書類から目を離さずに問う。
「今朝は軍務に」
セシルの返答は簡潔。
「本邸にはお戻りになりません」
「……本邸」
王宮ではない、彼の政治拠点。
軍と法務を握る第二王子。
この別邸は、その延長線。
「外出許可をいただきたいのですが」
ペンを走らせながら言う。
「どちらへ」
「王宮記録室」
「却下される可能性が高いかと」
感情のない声。
「理由は」
「王都滞在禁止命令」
やはり。
机に置いた手に、わずかに力が入る。
「では、記録官をこちらへ」
「申請は可能です」
「お願いします」
短い応酬。
静かだが、主導権の探り合い。
セシルが一礼し、部屋を出る。
扉が閉まる音。
マリアンが気遣わしげに近づく。
「お疲れではありませんか」
「いいえ」
顔を上げる。
「ここは、安全ですか」
マリアンが一瞬、言葉に詰まる。
「殿下の管理下ですから」
「それは、はい」
安全と自由は別だ。
書類に視線を戻す。
ある家名に目が止まる。
クローディア伯爵家。
三年前、婚約破棄。
理由:国家財政への不当介入。
処理結果:家門縮小、当主隠居。
(……聞いたことがある)
令嬢はどうなった。
ページをめくる。
備考欄。
――本人は商会にて活動中。
生き残っている。
婚約破棄=即死ではない。
処理は家ごと、だが個人は残る場合がある。
その差は何か。
派閥。
利用価値。
椅子から立ち上がる。
窓へ向かう。
鉄柵の向こう、兵が巡回している。
こちらを一瞬見るが、視線を逸らす。
守っている。
同時に、閉じ込めている。
扉が叩かれる。
セシルが戻る。
「記録官ミレイユ殿が、午後に参ります」
「……早いですね」
「殿下の指示です」
やはり。
最初から。
「殿下は、どこまでご存じなのですか」
思わず口に出る。
セシルはわずかに首を傾げる。
「どの件についてでしょう」
「婚約破棄の急増」
「存じ上げません」
即答。
だが、その目は揺れない。
嘘ではない。
だが全ても言っていない。
アルベルトの影。
この屋敷は、彼の意思で動く。
書類に戻る。
年ごとに表を作り始める。
破棄件数、発動条文、処理結果、派閥。
数字が並ぶ。
視界が狭くなる。
時間が溶ける。
ふと、違和感。
ある年だけ、件数が極端に少ない。
五年前。
その年、何があった。
記憶を辿る。
――隣国との停戦交渉。
王都が不安定だった。
(……外圧があると、破棄は減る?)
内部整理より、外への安定優先。
つまり。
婚約破棄は、国内政治が安定している時期に集中。
意図的。
確信に近づく。
ペン先に力が入り、再び軋む。
深く息を吐く。
そのとき。
部屋の外で、低い声が響いた。
「エレノア」
振り向く。
扉が開き、アルベルトが立っている。
軍装のまま。
硬い表情。
「進んでいるな」
「十五年分、確認しました」
机の上の表を示す。
彼が近づく。
距離が自然に近い。
肩が触れそうになる。
「……三年前から急増」
「兄上が内政主導を握った時期だ」
やはり。
「偶然ではありません」
「だろうな」
彼は即答する。
視線が机に落ちる。
「君は、怒っているか」
唐突な問い。
手が止まる。
「……はい」
正直に答える。
「だが、感情では動きません」
「それでいい」
低い声。
「怒りは燃料だ。操縦桿にするな」
軍人らしい言い回し。
目が合う。
距離が近い。
呼吸がわずかに触れる。
「殿下」
「何だ」
「私は、ここから出ます」
彼の眉がわずかに動く。
「いずれ」
「いえ。出ます。自分の足で」
言い切る。
「その時、止めますか」
沈黙。
兵の足音が遠くで響く。
アルベルトはゆっくりと首を振る。
「止めない」
「……信じてよろしいですか」
「君は、信じると決めたら疑わないだろう」
核心を突く。
目を逸らす。
「だからこそ、私も軽率には動かない」
静かな約束。
甘い言葉ではない。
だが確かだ。
アルベルトが一歩離れる。
「記録官が来る。情報は私経由で整理する」
「監視ですか」
「共同作業だ」
わずかに口元が緩む。
それは笑みかもしれない。
彼が出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
エレノアは机に戻る。
表を見つめる。
婚約破棄。
数字。
条文。
そして自分の名。
ペンを持つ。
紙に書き加える。
――目的:制度の運用実態解明。
その下に。
――最終目標:王家婚約法改正。
小さく、しかし確かに。
監視の中で。
彼女は、もう動き始めていた。




