第2話「王家婚約法第十二条」
王宮の外廊は、夜になると驚くほど静かだ。
祝宴の喧騒が遠ざかるにつれ、靴音だけが石床に反響する。エレノアは足を止めなかった。止まれば、崩れる気がした。
「エレノア様!」
背後から駆け寄る足音。
振り返ると、ヴァレンティス家の侍従長が息を切らしていた。顔色は蒼白だ。
「旦那様が……」
それだけで理解する。
「拘束、ですか」
侍従長は目を見開いた。
「なぜ、それを……」
「今夜の流れで予測できます」
横領、派閥誘導、国家反逆未遂。
婚約者だけを切るなら、罪状は一つで足りる。三つも重ねるのは、家門ごと処理するためだ。
王家婚約法第十二条。
その発動は、対象家門の財産凍結を伴う。
つまり。
(これは婚約破棄ではない。粛清だ)
回廊の先に、近衛兵の影が見えた。こちらを確認すると、無言で一礼する。
敬意はある。だが距離がある。
既に“王太子妃殿下”ではない。
「屋敷へ戻ります」
短く告げ、歩き出す。
王宮の大階段を降りると、夜風が強く頬を打った。馬車は既に用意されている。王家の紋章はなく、簡素なものだ。
帰路、窓の外に広がる王都の灯りを眺めながら、エレノアは頭の中で条文を反芻する。
――王家は、国家安寧を脅かす恐れがあると判断した場合、婚約を一方的に破棄する権利を有する。
“恐れ”。
実害ではなく、可能性で足りる。
恣意的な運用が可能な文言。
だがこれまで、十二条が公の祝宴で発動された例はほとんどない。記録上、直近十年で二件。いずれも小規模貴族。
公爵家に対して使うのは、異例だ。
屋敷が見えてくる。
門の前に、王家の近衛が立っていた。
胸の奥が、わずかに軋む。
馬車が止まる。
降り立った瞬間、父の声が聞こえた。
「エレノア!」
玄関ホールの中央で、父は二人の近衛に挟まれていた。腕を取られているが、まだ拘束具はつけられていない。形式上の敬意は残されている。
「お父様」
駆け寄りたい衝動を抑え、歩み寄る。
父の目には怒りも焦りもあるが、恐怖はない。
「すまない。巻き込んだ」
「いいえ。まだ何も確定しておりません」
近衛の一人が淡々と告げる。
「ヴァレンティス公爵。王家命令により、一時的な身柄拘束となります。詳細は追って通達されます」
父は頷いた。
「娘には手を出すな」
「現時点では、その予定はございません」
“現時点では”。
便利な言い回しだ。
近衛が父を連れていく。
重い扉が閉じる。
母がその場に崩れ落ちた。
「エレノア……どういうことなの……?」
震える声。
抱きしめたい。だが、今は違う。
「お母様。まずは財務室の鍵を」
「え……?」
「凍結前に、手元の帳簿を確認します」
母は呆然としたまま、鍵を差し出す。
財務室に入ると、蝋燭に火を灯す。書棚に並ぶ帳簿を次々と机に積む。
横領。
ありえない。
だが“ありえない”では足りない。
証明が必要だ。
紙をめくる音だけが響く。
数字は正確だ。誤差はない。支出も収入も整然としている。
では、どこから“罪”を作る?
(偽造か。あるいは、外部口座)
視線が、隅の補助帳簿に止まる。
ここ数か月、王宮関連の支出が増えている。
王妃教育のための寄付、儀式費用、寄進金。
正規の手続き。
だが、もしその一部が改竄されていれば。
背筋が冷える。
コン、と扉が叩かれた。
「エレノア様」
侍女の震える声。
「王家より、通達が届いております」
封蝋は王家の紋章。
受け取り、静かに開封する。
短い文面。
――ヴァレンティス家の財産を一時凍結する。
――当主は王宮にて事情聴取。
――エレノア・ヴァレンティスは王都滞在を禁じる。
王都滞在を禁じる。
つまり、追放。
婚約破棄と同時に、政治的隔離。
見事な手際だ。
(準備されていた)
即興ではない。
今日という日を選び、祝宴という場を選び、書記官を増やし、近衛を配置し、通達を用意していた。
偶然ではない。
椅子に腰を下ろす。
初めて、胸の奥がわずかに重くなる。
悔しい、のではない。
理解が追いついたからだ。
これは個人的な不和ではない。
王太子と婚約者の破談でもない。
王家婚約法の発動。
制度の行使。
扉が再び叩かれる。
「……エレノア様。第二王子殿下が」
時間が止まる。
顔を上げる。
「……お通しして」
アルベルトが来る。
なぜ。
何のために。
廊下に、規則正しい足音。
扉が開く。
そこに立っていたのは、祝宴の時と変わらぬ装いの第二王子だった。だが表情は違う。
静かで、硬い。
「夜分に失礼する」
「いいえ、殿下」
立ち上がり、礼をする。
彼は部屋を見渡す。積み上げられた帳簿、散らばる書類。
「もう動いているのか」
「状況確認は必要です」
アルベルトの口元が、わずかに緩む。
「君らしい」
沈黙。
蝋燭の火が揺れる。
「殿下。本日の件は、事前にご存じでしたか」
直球。
逃げ場を与えない。
アルベルトは視線を逸らさない。
「察してはいた」
「止められなかった?」
「証拠がなかった」
短い応酬。
だがその裏にある重みは、十分に伝わる。
「では、今夜ここにいらしたのは」
「迎えに来た」
心臓が、わずかに跳ねる。
「ここにいれば、君は潰される」
冷静な声。
「王都を離れろ」
「命令、ですか」
「提案だ」
静かに言う。
「だが、受け入れなければ――」
一瞬、言葉を切る。
「君は、次の条文の対象になる」
次の条文。
王家婚約法第十五条。
国家反逆が確定した場合、家門断絶。
喉が、ひどく乾く。
だがエレノアは目を逸らさない。
「……私を、守るのですか」
問い。
アルベルトの瞳が、わずかに揺れた。
「守る」
即答。
その声は迷わない。
だが同時に、別の色がある。
「だが、それだけではない」
ゆっくりと続ける。
「君がここで消えれば、兄上のやり方は固定される」
固定。
つまり、前例になる。
「これは最初ではない。だが、公爵家に対して行えば、抑止は消える」
エレノアの思考が、静かに繋がる。
婚約破棄は、派閥整理。
十二条は、便利な刃。
「……制度の問題、ですか」
アルベルトは頷く。
「そうだ」
その一言で、確信する。
これは恋の終わりではない。
戦いの始まりだ。
アルベルトが一歩近づく。
「エレノア・ヴァレンティス。王都を離れ、私の管理下に入れ」
管理下。
甘くない言葉。
「君を守る」
だがその瞳は、嘘をついていない。
蝋燭の火が揺れる。
屋敷の外で、風が鳴る。
エレノアは、蒼玉のブローチを机に置いた。
「条件があります」
アルベルトの眉が、わずかに上がる。
「何だ」
「私は、守られるだけではいられません」
声は静かだ。
「事実を確認し、記録を集めます」
横領の証明。
婚約破棄事例の調査。
制度の検証。
「その自由を」
アルベルトは、数秒だけ考えた。
そして。
「許可する」
即答。
「最初から、そのつもりだ」
胸の奥で、何かが熱を持つ。
恐怖でも、悲しみでもない。
高揚。
婚約破棄は終わりではない。
王家婚約法第十二条。
その条文を、彼女は破ることはできない。
だが。
使い方を暴くことはできる。
窓の外、王都の灯りが揺れている。
祝宴はまだ続いているのだろう。
だが、もう戻らない。
エレノアはアルベルトを見上げる。
「では、参りましょう。殿下」
第二王子は、静かに頷いた。
祝宴の夜は、終わらない。
だが、物語は動き出した。




