第13話「公開統計」
王宮記録室が異様な緊張に包まれたのは、朝一番のことだった。
重厚な扉の前に、通常より多くの書記官が並ぶ。通達文の写しが整然と束ねられ、封蝋の印が次々と押されていく。
その中央に立つのは、第二王子アルベルト。
隣には宰相グレゴール・ハイゼン。
そして少し離れた位置に、エレノア。
「婚約破棄発動件数の統計を、過去十五年分、概要のみ公開する」
アルベルトの声は落ち着いている。
「発動条文別の件数、家門規模別の傾向、地域分布」
グレゴールが静かに補足する。
「ただし、個別案件の詳細は非公開とする」
妥協点。
完全な透明化ではない。
だが前進だ。
書記官たちが通達文を携え、各所へ散っていく。
王都の広場、教会、主要商会、貴族邸。
“数字”が、街に放たれる。
数刻後。
商業区ではすでに人だかりができていた。
「三年前から急増しているぞ」
「小貴族だけじゃない、公爵家もだ」
「これ、偶然か?」
ざわめきが広がる。
エレノアは別邸の窓から、遠くの街並みを見つめていた。
「波紋は広がっています」
セシルが報告する。
「教会でも議論が始まったと」
「予想通りです」
胸の奥がわずかに熱い。
だが同時に、冷たい予感もある。
扉が叩かれる。
「殿下がお呼びです」
執務室へ向かう。
室内にはアルベルトと、グレゴールがいた。
老宰相は穏やかな笑みを浮かべている。
「ヴァレンティス嬢」
低く、よく通る声。
「お初にお目にかかる」
「こちらこそ」
礼を交わす。
彼の目は柔らかいが、奥が読めない。
「統計公開、見事な一手です」
穏やかに言う。
「だが」
一拍置く。
「数字は誤解も生みます」
「誤解?」
「件数が増えたことと、不当であることは別だ」
静かな理屈。
「国家は常に変化する。発動件数が増えること自体は、必ずしも悪ではない」
正論。
だが。
「では」
エレノアは視線を外さない。
「なぜ三年前から急増したのですか」
部屋の空気がわずかに張る。
グレゴールは微笑みを崩さない。
「安全保障環境の変化です」
「戦費増強と関連していますか」
アルベルトの視線がわずかに動く。
グレゴールは一瞬だけ沈黙し、やがて言う。
「国家の財政運営は、複雑です」
否定しない。
「婚約破棄は、その一部にすぎない」
「一部でも」
エレノアは言う。
「家門が潰れ、民が路頭に迷う」
グレゴールの瞳が、初めてわずかに鋭くなる。
「国家を守るためには、犠牲は必要だ」
はっきりと。
「王族もまた、犠牲になる」
アルベルトが静かに言う。
「私も、兄上も」
「もちろんです」
グレゴールは頷く。
「王族は国のために存在する」
その言葉は、揺るぎない信念。
エレノアは理解する。
(この人は、本気だ)
第一王子を動かしているのは、理念かもしれない。
「宰相閣下」
エレノアは静かに言う。
「国家とは、何ですか」
グレゴールは少しだけ驚いたように瞬く。
「民の集合体」
「では、その民を削って守る国家とは?」
沈黙。
アルベルトの視線が、エレノアへ向く。
グレゴールはゆっくりと答える。
「守るために削るのではない」
「ならば」
「守るために、選別する」
冷たい言葉。
それが本音。
部屋の空気が重くなる。
「ヴァレンティス嬢」
グレゴールは穏やかに続ける。
「あなたは聡明だ。だが国家を知らない」
どこかで聞いた言葉。
「感情は尊い。しかし、国家は感情で動かぬ」
アルベルトが低く言う。
「国家は人でできている」
「だからこそ」
グレゴールが即座に返す。
「人を管理せねばならぬ」
視線が交差する。
理念の衝突。
やがて、グレゴールは一礼する。
「統計公開は受け入れましょう」
「……」
「だが、これ以上の拡大は、慎重に」
釘を刺す。
老宰相が去る。
扉が閉まる。
沈黙。
「厄介だ」
アルベルトが呟く。
「敵、ですか」
「敵ではない」
首を振る。
「国家そのものだ」
エレノアは窓の外を見る。
街では、まだざわめきが続いている。
数字は出た。
だが。
制度の設計者は、揺らいでいない。
「殿下」
「何だ」
「これは、第一王子との戦いではありません」
「……ああ」
「国家観の戦いです」
アルベルトが静かに頷く。
「退路は、もうない」
「はい」
胸の奥が熱い。
恐怖もある。
だがそれ以上に、確信がある。
婚約破棄は、ただの条文ではない。
国家の思想だ。
それを変えるなら――
思想を揺らさなければならない。
外で鐘が鳴る。
王都に、静かな波が広がっていた。




