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第8話 王家のザクロ酒

僕とナエは、黙ってダンジョンを進んでいた。


話すことがなかったわけじゃない――むしろ、ギルドであんなことがあったあとで、二人ともどこから話を切り出せばいいのかわからなかったのだ。


とはいえ、沈黙は長くは続かなかった。


「つまり、依頼は簡単だ」と、やっとナエが言った。「依頼人はばあさんだ。夜中に、おとぎ話の本を盗まれたらしい」


「本?」


「ああ。古いやつだ。俺の見たところ、よっぽど大事なものらしい」


僕は少し考えた。


「中に、お金、隠してた?」


「かもな。だが、パッキーに金が要るとは思えねえ」


僕は彼のほうへ顔を向けた。


「パッキー?」


「緑色のちっこい連中だ。いたずらが好きでな。何か盗んだり、隠したり、人をバカにしたり、ほかにもどうでもいいもんを投げつけてきたりする」


僕は、ついこのあいだ僕を隅に追い詰めて、僕をネタに見世物を始めた二匹のちっこいやつらを思い出した。


『あいつらだけは勘弁してくれ』


「それで、何もしない?」


「どういう意味だ?」


「えっと……殺したり、しない?」


ナエは少し黙った。


「心配すんな。あいつらは絶対に殺さねえ」


少しの間。


「わざとは殺さねえ、ゴホン。うっかりなら、ある。まあ、めったにないが」


僕は歩きつづけた。


完全に無害なはずのパッキー二匹に、ついこのあいだ、穴があったら入りたいくらいの気分にさせられたことは、なるべく考えないようにした。


『素晴らしい』


✧✦✧


僕たちはどんどん奥へ進んでいった。ここの通路はとてつもなく大きかった。


天井ははるか上の闇に消え、どっしりした石壁のあいだには、古い階段や崩れた通路、苔に覆われた場所がときどき現れる。


ナエはまったく落ち着いて歩いていた――彼にとって、これはどうやら普通の散歩みたいなものらしい。


僕のほうは、しょっちゅうあたりをきょろきょろしていた。


「そういや」とナエが言った。「このあたりのダンジョンのほとんどは、ひとりのケルドが造ったって話だ」


「だれ?」


「ケルドだ」


「あ、種族?」


「ああ。肌が青い。たいてい鉱山やダンジョンに住んでる」


僕はうなずいた。


『まるでドワーフだな。ここの住人に驚くのは、もう無駄なのかもしれない』


「で、そいつが昔、ここのことを全部仕切ってた。すげえ職人だったらしい」


「それで、どうなった?」


「飲んでた」


僕は彼を見た。


「どういう意味?」


「ずっと飲んでた」


少しの間。


「しらふじゃ、釘一本まともに打てなかったらしい。飲んだら最後、右に出る者はいなかったって話だがな」


僕は鼻を鳴らした。


『偉大な建築家。天才職人。そしてそのあいだのどこかに、酒瓶。完璧な人間なんて、本当にいないんだろうな』


✧✦✧


しばらくして、僕たちは大きな部屋に出た。ここは植物がずいぶん少なかった。


石壁からはもうほとんど苔が消えていて、根やシダの代わりに、古い戸棚や机や本棚が並んでいた。


本。ものすごくたくさんの本。床にそのまま置かれたものもあれば、机の上に山積みにされたものもある。


そばには古い巻物や紙切れ、それに何に使うのか想像する気にもなれない物がどっさり散らばっていた。


それから、酒瓶。空っぽの。たくさん。


僕はそれを見て、それからナエを見た。ナエもそれを見た。


「ほら、証拠だ」


「なんの?」


ナエは酒瓶のほうにあごをしゃくった。


「あのケルドが本当に年中酔っぱらってたって証拠だ」


「あ」


『まあ、これは十分説得力があるな』


僕たちは手分けして部屋を調べた。僕は例のおとぎ話の本を探しながら、戸棚から本を一冊ずつ引き出していった。


ときどき、まったくわけのわからない物も出てくる。巻物、書きつけ、金属の角がついた分厚い本。


いくつかの本には、古い染みが残っていた。赤っぽい染みだ。


表紙の上でただ乾いているものもあれば、硬いかたまりのようになっているものもある。


僕はマントの端で、そのひとつをつついてみた。


『結晶? わからない』


まあ、今はどうでもいい。


ナエはそのあいだ、机と、その上の巻物を調べていた。


「なんかあったか?」


「まだ、ない」


僕はもう一冊引き出し、それから次の一冊、さらにもう一冊。そして、また一冊を引っぱったとき――。


カチッ。


僕は固まった。


「えっと……」


本棚がかすかに揺れた。それから、その一部がゆっくりと横へずれていった。


その向こうに、細い通路が現れた。


僕とナエは、しばらくただそっちを見つめていた。


「ほらな」とナエが言った。


僕も暗闇を見た。


『僕、もう冒険者なんだよな』


もう一度見る。


『たぶん、冒険者にとってはこれが普通なんだ』


ナエはもう中へ入っていた。僕は急いであとを追った。


✧✦✧


本棚の向こうの通路は、さっきの部屋よりもさらに大きかった。


高い石壁がずっと先まで続いていて、そのいちばん奥に、大きな赤い扉が見えた。


扉の向こうから、かすかな金貨の音と、誰かの声が聞こえてくる。


僕たちは二人とも立ち止まった。ナエが片手を上げて、動くなと合図する。


僕は固まった。


前方の瓦礫のあいだで、何かがちらりと動いた。もう一度。


パッキーが二匹。一匹は見覚えのある本を持って、これ見よがしに振り回していた。


『このクソガキ!』


もう一匹は、何かのレバーのそばに立っていた。


ナエが僕のほうへかがんで、かすかな声でささやいた。


「静かにしろ」


僕がうなずくと、彼はゆっくりとリュックを肩から下ろし、中に手を突っ込んだ。僕はそれを見ていた。


彼が取り出したのはクロスボウだった――小さいけど、れっきとした本物だ。


『こういうのも使うんだ』


レバーのそばのパッキーが、こっちを見た。そして、ゆっくりと、ほとんどからかうように、レバーへ手を伸ばした。


ナエは動かない。


パッキーは手を伸ばしつづける。


もう少し。


もう少し。


指先が、もう柄に触れそうだ。


ナエがさっとクロスボウを構えた。


バシュッ。


矢がうなりを上げて、脇をすり抜けていった。


パッキーは驚いてびくっとした。


レバーが下りた。


僕は目をつぶった。ナエもだ。


一秒。二秒。


何も起きない。


静寂。


僕はゆっくりと片目を開けた。


『どうやら、無事だったらしい』


「ふう……たぶん、壊れて――」


足もとの床が、いきなり開いた。


言い終わる暇もなかった。


一瞬、僕たちは二人とも、ただ空中に浮いていた。


僕はナエを見た。ナエも僕を見た。彼の顔は、僕とまったく同じ表情をしていた。


ついさっき、ほっとしたばかりだったのに。


「うわあああああああああ!」


そして、僕たちは落ちていった。


✧✦✧


暗闇。


僕は全力で叫んでいた。どこか近くで、もうひとつの叫び声がこだましている。


ナエだ。


その声はだんだん遠ざかっていく。そして、彼の最後の言葉が聞こえた。


「このクソバカやろ――」


残りはごうごうという音にかき消された。彼が何を言おうとしたのか、僕にはさっぱりわからなかった。


それから、衝撃で全部が終わった。


真っ暗。


✧✦✧


気がつくと、僕は石の床の上にいた。最初に目に入ったのは天井だった。さっきまでよりずっと低い。四メートルくらいだろうか。


『さっきよりはマシだ』


ゆっくり起き上がって、あたりを見回す。空の酒瓶、散らばった本、木の机、本棚、そして何匹かのパッキー。


僕は即座に針をつかんだ。恐怖が一気に戻ってくる。前回、このちっこい連中に何ができるかはもう見ていた。


隅に追い詰められ、マントを引っぱられ、僕が何もできないとわかったうえで、ただ好き放題にからかわれた。


今回は、待つつもりはなかった。


僕はパッキーをもっとよく観察した。体はほとんど全部ツタでできている――腕も、足も、胴体も、枝が絡み合っているだけだ。


頭を見る。木のお面。目の穴の奥には、真っ暗な闇しかない。


『炉だ』


炉はどんなモコにもある。それはもう知っていた。体がまるごとツタでできているなら、炉はその中のどこかに必ずあるはずだ。


僕はもう一度頭を見た。


『炉がすべてのモコにあるなら、残るは頭しかない』


僕はお面の目の穴に視線を移した。


✧✦✧


机の上に、ひときわ大きなパッキーが座っていた。爪で紙に何かを描いていたけど、僕の気配に気づいて手を止めた。


ゆっくりと顔を上げて、僕を見る。


それから、小さく手を振った。


ほかのパッキーたちが、いっせいに飛び出してきた。


僕は待たなかった。背を向けて、走った。


パッキーたちが追ってくる。


『前は、追い詰められるまで待ってた。でも今回は、作戦が違う』


僕はわざと連中を引き連れて走った。何度も振り返っては、距離を確かめる。パッキーたちは遅れずについてくる。


もう少し。


もう少し……。


そして、一匹が十分に近づいたところで、僕はくるりと振り返った。


パッキーは止まりきれなかった。


僕は針を突き上げ、お面の目の穴めがけてまっすぐ突き出した。


一撃。


針が突き刺さり、向こう側まで貫いた。


パッキーは固まった。


ほかの連中も固まった。


僕はじっと動かなかった。マントの端が震えていた。


「で、できた……?」


パッキーたちは一瞬で散っていった。机の上にいたやつまで飛び出して、天井の穴の中へ消えた。


僕はひとり残された。


倒れたパッキーを見る。


『……仕留めた』


たまたまじゃない。


わざと、タイミングを選んだ。わざと、狙ったところを突いた。


そして、うまくいった。


✧✦✧


壁の向こうから、声が聞こえた。


「おーい! そこにいるか? なんか物音がしたぞ」


すぐにわかった。


「ナエ? ナエ、だよね?」


ここからでも、彼が大きくため息をつくのが聞こえた。


「ほかに誰がいる」


少しの間。


「バカが」


「なんで!?」


壁の向こうに、ナエの姿がちらりと見えた。


僕たちのあいだの石積みはところどころ崩れていて、隙間や穴から、ようやくお互いの姿が見えた。


彼は数秒こっちを見てから、余計なことは言わずに本題に戻った。


「まあいい、それは置いとく。モ、そっちは何が見える?」


僕はあたりを見回した。ついさっきまでパッキーが座っていた机。


本棚――一部の本はまだ背表紙をこっちに向けて並んでいて、どの背表紙にも赤い文字がひとつずつ書いてある。


床には本が散らばっていて、そのそばに、倒したばかりのパッキー。赤い扉と……ものすごくたくさんの、空のガラス瓶。


「えっと……瓶。本棚、本、散らかってる。赤い扉。あと、瓶」


「よし。こっちも全部同じだ」


僕は少し黙った。


「ナエ?」


「ん?」


「なんで、ずっと黙ってた?」


「どういう意味だ?」


「えっと、僕、もう倒した。『パッキー』。たぶん」


ナエはようやく死骸を見た。


「ああ。さっきの物音はそれか」


少しの間。


「ゴホン……俺のほうが頭を強く打って、長く伸びてたらしい」


僕は何も答えなかった。


✧✦✧


数秒後、今度は彼のほうから声をかけてきた。


「モ?」


「ん?」


「全部同じだって言ったな。赤い扉も、そっちにあるのか?」


「うん」


「そこに何がある?」


僕はもう一度、自分の側の扉を見た。


「星、ある」


ナエは少し黙った。


「太陽じゃねえのか?」


「ううん。星」


「いや、太陽も星だろ」


彼が何を言いたいのか、すぐにはわからなかった。


「知ってる。でも、太陽じゃない」


少しの間。


「じゃあ、お前の思う太陽ってのは、どんな形だ?」


僕は考えた。そういえば、ちゃんと眺めた覚えがない。


「えっと……丸い、やつ?」


沈黙。


僕は数秒待った。


「ナエ……?」


間が、妙に長くなった。


「お前、ずっと地底世界で暮らしてたのか?」


「えっと……まあ、うん……」


ナエの声がすぐにやわらいだ。


「あー……悪い。空は見たか?」


「うん」


「太陽は見たか?」


僕は考えた。


「……見てない。たぶん……」


ナエは数秒黙っていた。


「太陽は丸くねえ。古い巻物の中でだって、そんな形だったことは一度もない」


僕は扉を見た。


「じゃあ、どんな形?」


「ちょっと十字に似てる。四芒星だ。わかるかどうか知らねえが」


僕はもう一度、赤い扉を見た。そこには確かに、四芒星が描かれていた。


そして今になって、僕はナエとの会話で自分がどれだけ間抜けに見えていたか、じわじわとわかりはじめた。


僕は黙り込んだ。


「おい! 大丈夫か? なんで静かになった?」


僕はびくっとした。


「あっ! ご、ごめん……」


僕は慌ててマントの端で口をふさぎ、落ち着いた声を出すように自分に言い聞かせた。


「大丈夫。どうやって、出る? 扉、取っ手ない。鍵も、ない」


ナエは自分の側を少し調べた。


「ふむ。押してみろ。それか、なんとか引いてみろ」


僕は扉に近づいた。全身で押してみる。


何も起きない。


手前に引こうとしたけど、つかむところすらない。僕は扉のふちをよく調べた。


隙間もない。蝶番もない。鍵もない。


「ううん。ぜんぜん、だめ」


「まったくか?」


「うん。蝶番もない。扉、偽物か、開け方、違う」


ナエはしばらく黙っていた。それからまた声をかけてきた。


「うーん。モ、そっちの太陽にも、何か文字が彫ってあるか?」


僕は近づいた。四芒星に沿って視線を走らせる。


「うん。そっちも?」


「ああ」


ナエが短く息を吸った。


「ゴホン、ゴホン」


それから、彼は声に出して読みはじめた。


ひとりめの 友の住まうは とこしえの闇

石と炎と つるはしと鉱(あらがね)

ふたりめの 友の住まうは 陽の庭

実は赤々と 古き夕映え


読み終えると、彼は少し黙った。


「以上だ。ほかには何も書いてねえ。そっちは?」


僕は自分の扉を見た。そして、何も答えなかった。


僕は文字を見つめながら、ここに来て初めて、本物の不安を感じていた。答えなきゃいけないのはわかっている。でも、できない。


問題は、なぞなぞですらなかった。


『僕、字が読めないんだった。よりによって、今……』


これまでは、言葉を知らなくてもほとんど困らなかった。


話し言葉はわかるし、身ぶりで伝えられるし、観察して、推測することもできた。


でも今、ナエは落ち着いて自分の半分を読み上げ、順番が僕に回ってきた。


『これ以上、恥をかきたくない……』


それに、ナエはもう僕のせいで、ギルドへの借金に巻き込まれている。


僕は数秒黙ったまま、どうにか切り抜ける方法を考えた。


「えっと……どう言えば、いいか……」


ナエはすぐに、僕が口ごもったのに気づいた。


「どうした?」


僕は引きつった笑みを浮かべた。


「僕たち……友達、だよね? へへ……」


笑い声は、あまりにもわざとらしかった。


ナエは飾り気なく答えた。


「お前のギルドへの借金が消えるまではな。で、なんだ?」


僕はすっかり言葉に詰まった。


「いや、その、実は……」


「さっさと言え。もったいぶってんじゃねえ」


僕は気持ちを落ち着けた。


「字、読めない」


沈黙。とても長い沈黙。


僕は彼の反応を待った。


何もない。


しばらくしてから、ナエが落ち着いて答えた。


「ああ。そういうことか」


僕は拍子抜けして、思わず少しびくっとした。


「モ?」


「ん……?」


「そこに書いてあるの、書き写せるか?」


そして今になって初めて、彼の声に、思いがけないなぐさめの響きが混じった。


僕はあたりを見回した。大きなパッキーの姿はとっくに見えない――机の上に、あいつが描いていた紙だけが残っていた。


『そうだ』


あいつが爪で紙に描いていたのを思い出す。それから死骸を見て、パッキーの木の鉤爪を見た。


それをつなぎとめていたツタは、もうほとんどゆるんでいる。そっと引っぱると、鉤爪は簡単に抜けた。


『悪くない』


僕はそれを拾い上げて、黄ばんだ紙のそばに置いた。紙を机に押さえつけて、もう一度扉の文字を見る。


一文字目。二文字目。三文字目。


鉤爪で、ゆっくりとそれをなぞっていく。せめて形だけでも真似できるように。すると、すぐにある法則に気づいた。


同じ文字が何度も出てくる。似たような位置に置かれている文字もある。


いくつかの部分は、まるで同じ役割を果たしているように見える。


僕は眉をひそめた。


『この文字は知らない』


鉤爪でひとつの文字をなぞる。


『でも、こういう書き言葉がどう働くかは、知ってる』


確かに、日本語に似ていた。文字そのものじゃない――それはまったく見たことのないものだった。


でも、並び方、構造、ある文字がほかの文字のそばで何度もくり返される感じ……。


『漢字とひらがなみたいな組み合わせだ。……知りすぎてるくらい、知ってる』


僕は書き写しつづけた。最初はゆっくりと、それから少しずつ自信を持って。書き終えると、紙を丸めて、壁の穴から差し出した。


✧✦✧


ナエは紙を広げた。数秒、黙って読んでいる。


僕は待った。


それから、彼が読み上げた。


ふたりそろえば 黄金にまさる わが宝

坑にもなければ 蔵にもあらず

ひらくは仕事を 終えて帰りし者のため

とざすは最後の ひと口ののち


僕も考え込んだ。


数秒後、ナエが答えた。


「ケルドのザクロ酒だ」


『ケルドの、ザクロ酒?』


僕はすぐに、あの建築家の話を思い出した。ケルド。地下に住んでいた。いつも飲んでいた。執務室には酒瓶。本には赤い染み。


そして今になって、そのすべてがひとつの絵にまとまりはじめた。


ナエも、どうやら前半はわかったらしい。


「だろ。ケルドはたいてい鉱山に住んでる。だから前半はぴったりだ」


『つまり、一人目の友はケルド』


僕はもう一度酒瓶を見た。


『そして二人目は、ザクロ』


「ってことは、答えは酒瓶のどこかにある」とナエが言った。


彼はすぐに、近くの瓶を調べはじめた。僕もだ。


もしかしたら中に鍵か、扉を動かす装置か――とにかく、このいまいましい扉を開けられるものなら何でもいい――が入っているかもしれない。


僕は次の瓶を持ち上げた。


何もない。


元に戻して、次のを取る。


これも何もない。


それを元の場所に戻そうとしたとき、すぐそばに落ちていた本に気づいた。


ん?


僕はそれを拾い上げた。それから、上を見た。


本棚。五段。四つの棚は傾いていて、そこの本はほとんど全部落ちている。


一段だけがまっすぐで、そこにはまだ何冊か本が残っていた。


僕は近づいた。背表紙には文字が書いてある。マントに抱えた瓶を見て、それからもう一度本を見る。


文字のひとつに、見覚えがあった。


僕は固まった。


『待てよ』


もう一度瓶を見る。それから本棚を。


✧✦✧


「ナエ!」


「なんだ?」


「待って」


僕は本を持ち上げて、背表紙を指した。


「見て」


彼が壁の近くまで来たので、僕はできるかぎり自分の考えを説明した。瓶、ラベル、本、本棚。


ナエは自分の側を見た。そっちもまったく同じに見えた。ただ、棚の長さが違う。


僕はもう一度棚を見た。


『そうだ。一段は幅が広い。もう一段は狭い』


言葉の長さが違うんだ。


僕は本を引き出しはじめた。


「たぶん、棚ひとつ、言葉ひとつ」


ナエは少し考えた。


「で、もう一段がもうひとつの言葉か」


僕はうなずいた。


僕たちは本を仕分けはじめた。背表紙の文字を、瓶のラベルで見た文字と照らし合わせていく。ひとつは合う。ひとつは合わない。


三つ目。四つ目。少しずつ、すべてがつながっていった。


僕の側には片方の言葉に必要な文字があったけど、もう片方の文字が足りない。


僕はナエの側を見た。


『あっちは、ちょうど逆だ』


僕たちは壁の穴越しに、もう一度全部を確かめ合った。


『つまり、ひとりずつじゃ完成しない。でも、二人なら……』


僕たちは同時に、本を棚に戻しはじめた。


一冊。二冊。三冊。


僕は文字で順番を確かめた。ナエも自分の側で同じことをしている。


もう一冊。


もう一冊。


最後の一冊が収まったとき、僕は固まった。


ナエもだ。


一秒。二秒。


それから、重たい軋む音が響いた。赤い扉が、ゆっくりと上へ持ち上がっていった。


僕は数秒、ただ開いた通路を見つめていた。


「できた」


「ああ」


✧✦✧


僕たちは、ほとんど同時にそれぞれの部屋から出た。もう、二人のあいだに壁はなかった。


僕はナエを見た。ナエも僕を見た。誰も何も言わなかった。


僕はただ、先へ歩きだした。ナエも隣を歩いた。


そして、僕たちは道を進んでいった。

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