第6話 声を手に入れろ
僕は大きな机の向かいの椅子に座って、しばらく前から目の前の光景を眺めていた。
机の向こうには、ステッキの男が座っていた。正確には、DMだ。
それが彼の名前で、すでに聞いたところによると、ヴェルの冒険者ギルドのギルドマスターらしい。
ただ、そのギルドマスターは今、なぜかあまり仕事で忙しそうには見えなかった。
机の上には、大きなダンジョンの地図が広げてあった。
その上を、何かの生き物や冒険者をかたどった小さな魔法のフィギュアが走り回っている。DMがサイコロを振った。
サイコロは何度か転がって、止まった。
二十。
「ホッホー! クリティカルですぞ!」
DMは結果にすっかり満足した様子で両手をこすり合わせ、それから指で短く合図をした。
地図の上のフィギュアのひとつが、すぐに片手を上げた。
『うわ』
その手のひらから小さな火の玉が飛び出して、別のフィギュアの一団に命中した。
フィギュアたちは地図の上にばらばらに吹っ飛んだ。
DMは満足そうにうなずいて、またサイコロを手に取った。
僕は黙って彼を見ていた。傘の見知らぬ人も、黙って彼を見ていた。
僕たちは二人とも、ここに招かれたのだ。
何のために――僕にはさっぱりわからなかった。ギルドマスターのほうも、それを説明する気はなさそうだった。
横目で見知らぬ人をうかがう。彼はまったく落ち着いて座っていた。
『この人も待ってるのか?』
どうやら、そうらしい。
僕はまたDMを見た。DMは遊びつづけている。
さらに時間が過ぎた。
僕は、もしかして忘れられてるんじゃないかと疑いはじめていた。
見知らぬ人もときどきDMのほうをちらりと見ていたけど、自分から何か聞くつもりはまったくなさそうだった。
『よし。僕は黙ってる。この人も黙ってる。ギルドマスターは遊んでる。で、どうなるんだ……?』
さらに数分たって、DMはもう一度サイコロを振った。
そして、出た目を見た。
今度は、その目が目に見えて生き生きとした。
「そうだった!」
僕はびくっとした。
DMはすぐに机の上の小さな呼び鈴に手を伸ばし、軽やかに鳴らした。
チリン。
数秒後、執務室の扉が開いて、見覚えのある蛾の女の子が入ってきた。
彼女は触角を小さくぴくりと動かした。
「お呼びでしょうか、マスター?」
DMは、もうすっかり普段どおりの口調で彼女のほうを向いた。
「ええ、呼びましたとも。オレグちゃん、すまないが、お客人にお茶と何かおいしいものを持ってきてくれるかね」
「かしこまりました」
彼女はうなずいて、出ていこうとした。そのとき、DMの片手がふいに体から離れて、宙をふわふわと漂いはじめた。
僕は固まった。
手はやさしく彼女のもとへ飛んでいき、その頭をそっとなでた。オレグちゃんは気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがとうございます、マスター」
彼女は執務室を出ていった。
手は空中でくるりと向きを変えて、落ち着いた様子で元の場所に戻った。僕はさらに数秒、その手を見つめていた。
『よし。これもここでは普通なんだ。……たぶん』
DMはそのあいだに両手の指先を合わせて三角形を作り、机に肘をついた。
「さて」
声が、目に見えて真剣になった。
「おふたりがどなたで、どちらから来られたのか、お聞かせ願えますかな?」
見知らぬ人は少し黙ってから、先に答えた。
「ナエ。旅のモコのテイマーだ。王国の北から来た。ヴェルをこの目で見がてら、ひと稼ぎしにな」
『モコ?』
僕は思わず彼を見た。
モコ。
あのゲームの名前だ。偶然? それとも違う?
今のところはわからない――オレンジコのときだって、たまたま当たっただけだったし。
DMは満足そうにうなずいた。
「ふむふむ、なるほどなるほど。今どきテイマーとは、珍しいですな」
彼は僕のほうを向いた。
「では、我が小さき友よ、君は?」
僕は固まった。
「ヴェルに来てからというもの、ひと言も発しておられませんな」
『まあ、そうだよな』
僕はマントの片端を持ち上げて、説明しようとした。わけのわからない動きになった。もう一度やってみる。
DMが僕を見ている。ナエも。
僕は、わかりきったことをどうやって伝えればいいのか、頭の中で必死に方法を探しはじめていた。
ナエがふと、何かを見せようとするように、僕のほうへ少し身を寄せた。
けれどそのとき、DMがいきなり手を打った。
「ホーッホッホッ! なんと、声がないのですかな? それならなぜ早く言わなかったのです!?」
僕は固まった。
『言えるわけないだろ!?』
DMは笑った。
「ホッホ、失敬失敬。今、手を貸しましょう」
彼はかがみ込んで、机の引き出しから何かを取り出した。小さな銀色の鈴だった。
DMはそれを指先でくるくる回してから、ひょいと僕に放った。
僕はマントをばたつかせて、どうにかそれを受け止めた。数秒のあいだ、ただそれを見つめる。
『鈴……』
一瞬、妹の顔が浮かんだ。
『……で、これをどうしろと?』
ナエが僕の肩に軽く触れた。
彼は僕の体の上のほう、普通の生き物なら首があるあたりを指さした。
僕は彼を見た。
それから鈴を。
それからまた彼を。
『え?』
彼はため息をついた。
そして、鈴を手に取ると、そのまま僕の体の中に押し込んだ。文句を言う暇もなかった。
『おい!』
DMが勢いよく後ろにのけぞった。
「まあっ、なんと破廉恥な!」
その声にはわざとらしい恐怖がたっぷりこもっていて、まるでナエがたった今、とんでもなくいかがわしいことをしでかしたかのようだった。
僕は声に出して文句を言おうとした。
チリン。
そして本当に、僕の体から音がこぼれた。
「あ……?」
僕は固まった。
ナエも動きを止めた。
僕はゆっくりとマントの端を持ち上げて、今しがた鈴を押し込まれたところに触れた。
『今の、僕が言ったのか!?』
もう一度やってみる。
「す、すみません……」
聞き慣れない声だった。自分の出した音に、僕自身がちょっとびくっとしたくらいだ。
「あ……えっと。ありがとう!」
DMがにやりと笑った。
「おや、感謝の言葉が聞こえませんなあ、我が若き友よ」
僕は数秒黙っていた。それから、ようやく意味がわかった。
「ありがとう、ございます」
言葉がまた声になった。僕は前を見つめた。不思議な感覚だった。今、言いたいことを言ったのだ。考えたんじゃない。
想像したんじゃない。
言ったんだ。
『僕、しゃべれる』
思わず、もう一度言ってみる。
「ありがとう、ございます」
今度は、それほど他人の声には聞こえなかった。
DMは満足そうにうなずいた。
「ホッホー! ですが残念ながら、吾輩にできるのはここまで。ちゃんとした声がほしければ、店の職人を訪ねることですな」
僕は、銀色の鈴を入れられたあたりを見下ろした。
『つまり、これは本物の声じゃない。でも、これだけでも……もう質問できる。答えられる。自分が誰なのか説明できる。せめて、助けが必要だって言うことくらいはできる』
僕は数秒、黙っていた。
そして急に、何から話せばいいのかわからないことに気づいた。
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TIPS:苔むした小山の巣穴と、オレンジ色の茂み――それは低レベルエリアの確かな目印。ここの食べ物と水は安全で、地元のモンスターもたいした脅威にはならない。
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オレグちゃんはわりとすぐに、小さなワゴンを押して戻ってきた。
そこから先、彼女が机に何を並べていたのか、僕はあまりちゃんと見ていなかった。
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TIPS:冒険者ギルドでパーティー登録をすると、特別なダンジョンへの挑戦権が得られる。冒険に出る前は、食料、ポーション、そして……50フィートのロープを必ず用意しておこう。ロープは、君が思っているよりずっと多くの命を救っている!
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また前を見たとき、机の上は食べ物でいっぱいになっていた。
サモワール。クッキー。カップケーキ。ワッフル。
僕は迷わずワッフルを取った。
DMは小指を立てて、落ち着いてお茶を飲んでいた。
まるでここがギルドマスターの執務室じゃなく、どこかの格式ある晩餐会であるかのように。
ナエは両手でマグカップを包み込むように持っていた。
僕は二人を見た。
『変なの』
でも、何も聞かなかった。僕がワッフルを食べているあいだ、DMも急ぐ様子はなかった。執務室は驚くほど穏やかだった。
ギルドであんなことがあったあとだと、この静けさがむしろ心地よく感じられた。
やがて、DMがカップを机に置いた。
「さて」
彼は僕を見た。
「おいしくいただき、楽しいひとときを過ごしましたな……」
少しの間。
「ですが残念ながら、今度はこの催しにかかった経費を、せめて一部でも回収させていただかねばなりません」
『……なるほど』
僕はワッフルの残りを、ゆっくり食べ終えた。
DMは、今度はもっと事務的な口調で続けた。
「依頼を受けられるようになるには、ギルドへの登録が必要です。こちらは有料となっております」
そりゃそうだ。
「今お金がなくても、ご心配なく。登録料は後払いにもできますぞ」
僕はマントの端を少し持ち上げた。
「ギルドがあなたの登録料を立て替え、その金額があなたの借金となります。依頼の報酬からは、まず通常のギルド手数料が差し引かれ、それから借金の返済分が差し引かれます。もちろん、借金を全額返し終えるまでです」
DMはにっこりした。
「つまり、すぐに稼ぐことはできます。ただ、手元に入る額が少しばかり減るだけ。ホッホ」
『そういうことか』
僕は彼を見た。酔っぱらいの馬鹿から助けてもらった。声をもらった。ごちそうしてもらった。
そして今、そのすべてをなんとか支払う方法を提案されている。
『おとぎの世界にも、請求書はあるらしい』
僕はまた空になった皿を見た。
『タダより高いものはない、ってやつか』
DMがふいに指を一本立てた。
「とはいえ、もうひとつ方法がありますぞ。ホッホ」
僕は彼を見た。
「パーティーで登録すれば、借金の利率が下がるのです」
『パーティー?』
ちょうどお茶を飲んでいたナエが、とたんにむせた。
「は、はあ? 今なんて?」
DMは落ち着いて彼を見た。
「お聞きのとおりです。パーティーは共同で借り入れができます。その場合、借金はメンバー全員で分担することになります」
僕はナエを見た。それからDMを。それからまた見知らぬ人を。
『待って……』
つまり……。
僕はもう一度ナエを見た。
彼はもう、ついさっきまでのような落ち着いた顔ではなかった。
「そしてもちろん」とDMは続けた。「パーティーは共同で依頼を受ける権利を得ます。報酬は、取り決めに従ってメンバーのあいだで分配されます」
ナエはゆっくりとカップを置いた。
彼は僕を見た。僕も彼を見た。今何が起きているのか、僕にはまだよくわかっていなかった。
でも、彼の表情からすると、彼にはわかっていた。
そして、それがまったく気に入らないらしかった。
『つまり……?』
僕はマントの端を少し持ち上げた。
『僕、パーティーが必要ってこと?』
見知らぬ人は、同じ目で見返してきた。疑わしげな目。ものすごく疑わしげな目。
それでも、このまま立ち去ろうとしているようには見えなかった。
『えっと……』
僕たちはさらに数秒、黙って見つめ合った。
どうやら、二人とも次にどうすればいいのか、わかっていなかった。




