第5話 ギルドとステッキの男
第5話 ギルドとステッキの男
盗んだワッフルを食べたあと、僕はしばらくあてもなくヴェルの町をうろついていた。
町(もう村とは呼ばない)は、上から初めて見たときほど巨大には感じなくなっていた。
でも、だからといって、わかりやすくなったわけでもなかった。
『さて。これからどうする?』
声の店に行ってみることはできる。ただ、お金がない。また盗むのは気が進まない。稼ぐ? どうやって?
声もない、手もない、この町のルールも知らない。
『まずは、ここの人たちがどうやって暮らしてるのか、それだけでも知るべきか?』
冒険者の一団が目に入った。何人かいて、みんな同じ方向へ歩いている。
背負った重そうな袋からは、武器の柄や金属の部品、古い品物が突き出ていた。
袋のひとつは口が少し開いていて、中にすり減った杯がいくつかと、どう見ても全盛期を過ぎたほかの品々が見えた。
『ダンジョン帰りっぽいな』
僕は彼らの背中を見送った。あるアニメを思い出す。
異世界に飛ばされた主人公が、自分がどこに来てしまったのかを知るために、まず冒険者ギルドへ向かう話だ。
『そこで稼げなかったとしても、せめてここの仕組みくらいはわかるはずだ』
決まりだ。僕はあとをついていった。
✧✦✧
最初は簡単だった。距離をとって、ゆっくり歩き、近づきすぎないように気をつける。
そのうち、何人かの通行人がこっちをちらちら見はじめたのに気づいた。
僕は自分の姿を見下ろした。
『まあ、そうだよな。こんなのが家の前をうろついてたら、完全に通報案件だ』
冒険者たちに置いていかれないよう少し足を速めてから、また壁際へ寄る。通行人のひとりが、もう一度僕を見た。
それから、もうひとり。
『うわ』
なぜか、明るいところへ出る気にはまったくなれなかった。でも、今さら立ち止まるのも遅すぎる。
『今出ていったら、わざと隠れてたと思われる』
僕は日陰を歩きつづけた。
『好きに思わせておけばいい』
✧✦✧
冒険者の一団は別の通りへ曲がり、やがて大きな建物が見えてきた。入口がどっしりしている。
この町の家々の中でも、ひときわ堂々として見えた。壁は漆喰で塗られているけど、ところどころ赤レンガがのぞいている。
入口の前はひっきりなしに誰かが通り、扉も大きな生き物が楽に出入りできるくらいの幅があった。
『ギルドだ』
冒険者たちは次々と中へ消えていった。僕は扉の前で立ち止まった。そして急に、これ以上進みたくなくなっていることに気づいた。
危険なら、もう見てきた。針で刺されそうになったし、石板から落ちたし、何度も死にかけた。
でも今怖いのは、それとはまったく別のものだった。ここで何をするのが普通なのかわからない。
どんなふうに話しかけられるのかもわからない。
まずどこかで登録しなきゃいけないのか、それともただ入ればいいのかさえわからない。
それに……僕はもう長いこと、ひとりでどこかへ出かけていなかった。普通のコンビニにすら。
それなのに今、知らない生き物でいっぱいのギルドに入っていかなきゃいけない。
『はぁ……』
もう数秒、その場に立ち尽くした。それから、ついに前へ進んだ。
扉は思っていたよりさらに高かった。ほとんど体を押し込むようにして、なんとか広間に入る。
中は騒がしかった。話し声、笑い声、どこかで食器が鳴り、床を足音が叩く――それが全部、ひとつの大きなざわめきになっていた。
僕は数歩進んだ。すると、そのざわめきがぴたりと消えた。
『そして、静寂……』
僕は固まった。何分もたったように感じたけど、実際にはたぶん二秒くらいだった。
『恥ずかしがってるのを顔に出すな!』
マントの両端を体にぎゅっと引き寄せて、まわりで起きていることにまったく気づいていないふりをしながら歩きつづけた。
数秒後、また話し声が戻ってきた。
『よし。誰も気にしてない』
少し落ち着いて、壁際の薄暗いところへ移動した。ここのほうが話を聞きやすい。
「聞いたか? 最近また王家の梟が、南の村から食料を徴発したらしいぞ」
「南? ばあちゃんが住んでるとこだ。あっちじゃまたダルグが暴れてるって言ってた」
「静かにしろって! わざわざ災いを呼び込むことはないだろ」
三人はすぐに黙った。ひとりが何かをつぶやくと、ほかの二人もそれにならった。数秒後には、三人とも太陽に祈っていた。
『王家の梟? ダルグ?』
その言葉について知っていることは、会話の前と後でまったく同じだった。つまり、何も知らない。
『まあいい。政治はあとだ』
僕はゆっくり壁を離れ、紙がびっしり貼られた大きな掲示板に近づいた。
『依頼だ』
少なくとも、そうであってほしかった。
一番近くの紙を見る。それから次の紙。文字には見覚えがあった――ありすぎるくらいに。どこか漢字に似ている。
形も近いし、ところどころ見覚えのある部分もある。なのに、ひとつも読めなかった。
『なるほど』
目を細める。それから頭を片側に傾けて、もう一度見る。マントの端であごをかく。頭を反対側に傾ける。また見る。
何もわからない。
『なんで言葉はわかるのに、これは読めないんだよ?』
もう少し紙の前に立っていた。
『よし。考えろ』
もう一度、文字を見る。
『これは絶対、僕の知ってる日本語じゃない』
すぐそばを誰かが通ったので、僕は反射的に掲示板の端へ寄った。そのとき、視界の端に見覚えのある姿が映った。
僕は固まった。
パイプ。傘。あの路地の見知らぬ人だ。
『「なんでこのドブネズミがここにいる」少なくとも、今のあいつはそういう顔をしていた。どこまで外れているかは、確かめないことにした』
あのときとほとんど同じだった。
無口で、不機嫌そうで、自分がここにいる理由を誰かに説明したいなんてまったく思っていなさそうだ。
『ここは撤退でござる』
こっそり離れようとしたとき、目の前の一枚の紙に気づいた。
『落ち着け。依頼を取って、立ち去る。そうすれば少なくとも、ちゃんと用があってここに来たように見える』
僕は紙に手を――マントを伸ばした。同じ瞬間、あの見知らぬ人も手を伸ばした。いや、手が見えたのはあとからだ。
最初に気づいたのは、あいつの指が同じ紙に乗ったことだった。
僕は固まった。あいつもだ。
二人で紙を見る。それからお互いを見る。そしてほとんど同時に手を離した。
紙がゆっくりと床に落ちた。
……。
僕は下を見た。あいつも下を見た。僕は顔を上げた。あいつも上げた。僕は待った。見知らぬ人も待った。どっちも動かない。
『なんで拾わないんだ?』
あいつが僕に何を求めているのか、さっぱりわからなかった。もしかしたら、この紙はあいつのほうがずっと必要なのかもしれない。
もしかしたら、ここのルールでは最初に依頼を取ったほうがもらうことになっているのかもしれない。
それとも逆に、譲らなきゃいけないのか? 僕には何もわからなかった。
数秒たつと、広間の半分がこっちを見ているような気がしてきた。たぶん気のせいだ。でも、感覚的にはまさにそうだった。
先に沈黙を破ったのは、見知らぬ人のほうだった。
「えっと……それ、受けんの?」
……。
僕はあいつを見た。それから紙を。
『なんて答えればいいんだよ!?』
「はい」ならうなずけばいい。「いいえ」も同じだ。
『質問の意味が全然わからない。本当に紙を譲ってくれてるのか――それとも、いいかげん何かしろってことなのか!?』
見知らぬ人は、落ちた紙へゆっくりかがみ込んだ。そのまま拾って立ち去るんだろうと思ったけど、なぜか急ぐ様子がない。
指は紙のすぐ手前で止まり、あいつ自身は僕のほうを見た。
『なに?』
あいつはまた紙を見た。それから僕を。そして止まった。
『もしかして、僕が拾うのを待ってる?』
数秒、僕は何もしなかった。あいつも何もしなかった。
『もし僕が拾ったら、失礼になるのか?』
紙を見る。見知らぬ人を見る。また紙を見る。結局、僕は決心がつかなかった。
見知らぬ人はゆっくりと紙を拾い上げた。最後にもう一度僕を見た。まるで、考え直すための最後のチャンスをくれているみたいに。
それから、落ち着いた様子で紙を持っていった。
『どうやら、僕に時間を譲ってくれてただけらしい』
僕はあいつの背中を見送った。
『変なやつ』
それから、また掲示板を見た。
『まあいい。別のにしよう』
もう少しだけ立ち止まってから、奥の隅にある一番目立たない紙に手を伸ばし、カウンターへ向かった。
✧✦✧
カウンターの前には、低い踏み台が置いてあった。その上に跳び乗ると、ちょうど天板と同じくらいの高さになった。
『これはよく考えてある』
カウンターの向こうには、若い蛾の女の子が座っていた。書類仕事に追われていて、最初は僕に気づいてもいなかった。
少し待ってから、僕はそっと紙を彼女の前に置いた。
彼女が顔を上げた。
「あっ……」
どうやら、不意をつかれたらしい。
でも一秒後には、彼女は落ち着いてほほえんだ――少なくとも、僕に読み取れた表情ではそう見えた。
「こんばんは。こちらでお見かけするのは初めてですね。ほかの支部でご登録されていらっしゃいますか?」
僕は首を横に振った。
彼女は少し考えた。
「では、当ギルドのご利用は初めてでいらっしゃいますか?」
僕はまたうなずいた。
『今のところ、順調みたいだ』
彼女は僕の紙を手に取って、目を通した。
「それでは、まずは……」
バンッ!
ギルドの扉が開いた。男が三人、どかどかと入ってくる。においで、すぐに酔っぱらいだとわかった。
真ん中の男は特にうるさくて、まるで広間全体が自分のものであるかのように歩いていた。
カウンターの女の子が、かすかにため息をついた。
「また、あの方……」
その男が彼女に気づいた。
「オレグちゃーん! 俺様の依頼はどうなってんだよ!?」
僕は男から女の子へ視線を移した。
『オレグちゃん? ……オレグって、男の名前じゃなかったっけ?』
意外な名前だと思ったけど、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
男はもう僕に気づいていた。立ち止まって、僕を上から見下ろす。
「なんだ、このチビは」
男が近づいてくる。
「クソ影コソが。陰でコソコソするしか能がねえくせに、ウジャウジャ湧きやがって、仕事まで奪いやがる」
僕は固まった。
『は!?』
男はカウンターに手をついて、僕のほうへ身を乗り出した。
「とっとと失せな、ガキ。俺様は高貴な冒険者だからよ、ガキには手ぇ出さねえ。たとえてめえがクソ影コソでもな」
『……さすが紳士でいらっしゃる』
なんて答えればいいのかわからなかった。どうせ答えることもできないけど。
カウンターの女の子が少し身をかがめて、僕に小声でささやいた。
「申し訳ございません。のちほど、必ずお話をうかがいますので」
その声で、彼女が僕を追い払おうとしているわけじゃないとわかった。むしろ逆だ。
『この人、あいつが暴れだすのを怖がってるんだ』
酔っぱらいの男が、いきなりカウンターを拳で殴りつけた。
「何コソコソ吹き込んでやがる、この毛虫が!」
ペシッ。
男は固まった。それから、ゆっくりと振り返った。
誰もいない。
男は眉をひそめ、広間を見回した。いったい誰が自分を殴ったのか確かめようとしているみたいだった。
まず片側を見て、それから反対側を見る。
男と同じくらいの背丈の者は、どこにもいなかった。
それから、男は視線を下ろした。足もとに、あの傘の見知らぬ人が立っていた。
『あ』
「てめえ、何様だ!?」
男は見知らぬ人を上から睨みつけた。
「ナメてんのか!? 口がきけねえのか!?」
見知らぬ人は黙ったまま、男を見上げつづけていた。
「また影コソかよ、クソが!」
男は斧を抜いた。
カウンターの女の子がさっと後ずさる。僕も身を引いた。
『始まる……』
そのとき、急に男が固まった。紫色の光が、男の全身を包み込んでいた。
僕はまばたきした。
『え……?』
「ホーッホッホッ!」
上から響いたその声があまりに陽気だったので、僕は思わず顔を上げた。
中二階のバルコニーに、スーツ姿でステッキを持った男が立っていた。なぜかそれまで、まったく気づかなかった。
男は階段のほうへ数歩進んだ。
「おやおや、これは珍しいお顔ぶれ! ガルト殿ご本人のお出ましとは、しかも忠実なるごろつきどもを引き連れて!」
男はステッキで段を鳴らしながら、階段を下りはじめた。
「我が愛しのガルト君、吾輩ははっきり申し上げたはずですぞ。この冒険の殿堂では、乱痴気騒ぎも狼藉も一切なし、と。そうでしたな?」
ガルトは何も答えなかった。どうやら彼も、何が起きているのかよくわかっていないらしい。
ステッキの男はガルトの前で立ち止まり、ステッキで床を突いた。
男の頭がくるりと回転し、正面には目の代わりに「1」の面が来ていた。
男はそれを見た。
「おっと」
少しの間。
「ファンブルですな。運がなかった」
男はこぶしを口に当てて咳払いをした。それから、わざとらしく不気味な声になった。
「汝は地に伏し、次のターンを失う!」
ガルトは固まった。そして本当に、床にばたりと倒れ伏した。
……。
ギルドは、また静まり返った。
ステッキの男がもう一度床を突く。頭がくるりと戻って、そこには普通の目があった。ガルトの体から紫色の光が消えた。
ガルトの仲間二人がようやく我に返り、重たい仲間のもとへ駆け寄った。
ひとりが片腕を、もうひとりがもう片方の腕をつかんで引っぱる。数秒後、二人はなんとかガルトを広間から引きずり出していった。
何人かの客がそれを見送った。
また誰かが話しはじめた。誰かは飲むのを再開した。
ギルドは、まるで何も特別なことは起きなかったかのように、いつもの調子に戻っていった。
僕だけが、踏み台の上に立ったままだった。まずガルトを見て、それから見知らぬ人を見て、最後にステッキの男を見た。
『……今の、なんだったんだ?』




