第4話 地上と初めての盗み
その1
階段をどんどん上っていくと、ついに外へ出た。
そして、いきなり目がくらんだ。
反射的に目をつぶって、最後の段で立ち止まる。ダンジョンの薄暗い光に慣れたあとだと、太陽はまぶしすぎた。
数秒のあいだ、何も見えなかった。ただ、マントを揺らす新鮮な風と、それが運んでくる新しいにおいだけを感じていた。
花。
草。
それから、僕には何だかわからない、温かくて生きた何か。
ゆっくりと目を開ける。最初はぼんやりした光の塊しか見えなかった。それからにじんだ緑色。
数秒たつと、まわりの世界が少しずつ形を取りはじめた。
足もとにはやわらかい草が広がっていて、そのあいだに鮮やかな赤い花が咲いている。
まわりには太い幹の巨大な木々が立っていて、樹皮には細い青い模様が走っていた。
どこを見ても、緑と枝と葉と光。
僕は数秒、ただ眺めていた。
『本当に、外に出たんだ……』
何もかもが大きくて、自分が虫けらみたいに思えてくる。すぐそばの草でさえ、やけに大きく見えた。
ダンジョンの石の壁のあとだと、開けた場所はまったく違って感じられた。
あたりを見回す。誰もいない。そこで、花が特にたくさん咲いているところまでゆっくり這っていって、そのまま飛び込んだ。
体が草と葉っぱに沈み、まわりで赤い花がゆらゆら揺れた。
『ふかふか』
しばらく寝転がったまま、まわりを眺めていた。花のにおいが、なぜか子どもの頃を思い出させる。
暖かい日、どこにも急ぐ必要のなかった散歩、そして、この先に時間が無限にあるような、あの不思議な感覚。
それから、前の人生がどう終わったのかを思い出した。
部屋。モニター。最後の一回。胸の痛み。
『みんな、今ごろどう思ってるんだろう』
最初はたぶん、僕がどこかに出かけただけだと思ったはずだ。それから電話をかけて、探して。
そして誰かが、最初に僕を見つけたんだろう。
妹の――鈴の顔が浮かんだ。
『特に、あいつは』
鈴はいつだって僕の味方だった。僕自身、自分の人生で何をしているのか、もうよくわからなくなっていたときでさえ。
僕はもう少し空を見上げていた。
『……それなのに、今の僕はもういない』
考えがどんどん重くなって、またそこに沈み込みはじめているのがわかった。
『おい。今はそのときじゃない』
マントの両端を持ち上げて、自分の頬を軽く何度かたたいた。
ペチッ。
もう一回。
ペチッ。
よし、もういい。
僕は草の中から起き上がって、今度はもっと注意深くあたりを見回した。
風はまだ花のにおいがして、太陽が体を心地よく温めてくれていた。
✧✦✧
ダンジョンに戻る気にはなれなかった。僕は戦士の言葉を思い出した。階段、道、村。
『たぶん、村も巨大なんだろうな』
巨大な部屋や、大きすぎる装備や、これまでに出会った生き物たちのことを考えると、低い扉の小さな家なんて期待するほうがおかしい。
僕は道を選んで、歩きつづけた。最初はまだ草と花しかなかったけど、だんだんと、ここがよく人の通る場所だとわかってきた。
道は平らになり、両脇には低い石垣が現れ、ところどころ木の柵に変わる。
石もでたらめに転がっているのではなく、歩きやすいように敷き詰められていた。
『ここの人たちって、どんなふうに暮らしてるんだろう』
風が焼きたてのパンのにおいを運んできて、それはますますはっきりした。
少し先の木々の上に、細い煙がひとすじ立ちのぼっている。
思わず足が速くなった。
しばらくすると、道はとても急な崖沿いに続くようになった。僕は石垣に近づいて、そっと向こうをのぞき込んだ。
道はつづら折りになって下へ続いていた。
その先には大地に開いた巨大な裂け目があって、そのずっと下のほうに町が広がりはじめていた。
僕はすぐに半歩下がった。
『うわ、高っ……』
跳ぶ必要がないのは、それだけでもありがたい。
でも、道から足を滑らせて落ちていくところを想像しただけで、足が勝手にこわばった。
『よし。下は見ない』
僕はもう一度、町のほうを向いた。
そこでやっと、ここでの「村」という言葉が、僕が思っていたものとはまったく違うらしいと気づいた。
目の前には、二階建てや三階建ての家が建ち並ぶ、石造りの町が丸ごと広がっていた。
そのあいだには高い塔がそびえていて、しかもそのいくつかは砦ではなく、普通の住宅に見える。
通りは斜面を下り、階段でつながりながら、裂け目に沿ってさらに奥へと続いていた。
見れば見るほど、村というより、小さな都市に見えてくる。
『これを村って呼んでたのか?』
風が強く吹きつけた。屋根の上を、遠目には鳥に見える生き物が何匹か飛んでいく。
下のほうでは煙が上がり、家々のあいだをいつも誰かが行き交っていて、いくつかの建物では金属の部品がきらりと光っていた。
何もかもが整っていて、生き生きしていて、人の暮らしの気配にあふれている。とても見捨てられた遺跡には見えなかった。
僕はさらに数秒、下を見つめて、この場所の大きさを理解しようとした。
何時間も地下にいたせいか、なぜか小さな家が何軒か集まっているくらいのものを想像していたのだ。
でも実際に目の前にあったのは、巨大な裂け目のまわりの斜面に築かれた、一つの都市だった。
さらに下っていこうとしたとき、背後で音がした。
コツ。
振り返る。
コツ、コツ。
誰かが石の道をやってくる。
その2
車輪の音がだんだんはっきりしてきた。振り返ると、荷車がゆっくりと道を下ってくるのが見えた。
木の荷台は金属の部品で補強されていて、上には布の幌が張ってある。
御者台に座っていたのは、どこか年老いた蛾を思わせる生き物だった。
麦わら帽子の下から細長い白い顔がのぞき、質素なシャツの袖からは、細い腕が二組突き出ている。
片方の手で手綱を、もう片方の手で新聞を持っていた。
荷車を引いていたのは、石の馬だった。
その体はいくつもの大きな石でできていて、どこが関節なのか僕にはわからないくらい、うまくつながっている。
目の代わりに青い模様が光っていて、同じような線が体じゅうに走っていた。
頭と背中には苔のたてがみが生え、似たような植物が後ろにしっぽのように伸びている。
『……ゴーレム?』
荷車は僕のすぐそばで止まった。
「乗っていくかい、坊や?」
僕は数秒、御者を見つめてから、先の道を見た。思いがけない申し出だったけど、断る理由は特に見当たらない。
人のよさそうなおじいさんだったし、ひとりで道を探すのにもいいかげん疲れていた。
僕の田舎でも、じいちゃんがよく観光客を車に乗せてあげていた。
『ここで断るほうが、たぶんバカだよな』
僕はうなずいた。
ただ、どこに乗ればいいのかさっぱりわからない。
最初は自分でなんとかしようとして荷台の後ろをのぞき込んだけど、おじいさんは僕がまごまごしているのに気づいて、隣の席をぽんぽんとたたき、そこを指さした。
「ここじゃ」
僕は座席を見た。
それから、自分の足を見た。
『よし』
マントの端で針をしっかり持ち直して、跳んだ。布の一方の端で、御者台のへりに引っかけようとする。惜しい。
体がぐいっと上がり、ぐらりと揺れて、危うく落ちかけた。
それから数秒、マントで木にしがみつきながらバランスを取り、なんとか最後によじ登ることができた。
おじいさんはそのあいだ、ただじっと待っていてくれた。
『ありがとうございます、おじいさん。それと、もたもたしてすみません。今の僕、絶対バカみたいだったよな』
おじいさんは新聞から目を上げて、短い音楽のような音を出した。そこには、三味線のような軽やかな弦の響きがあった。
石の馬がすぐに歩きだす。
荷車は道の上でやわらかく揺れ、車輪が石をコトコトと鳴らした。ようやく、自分でどこへ行くか考えなくてよくなった。
僕はただ座って、あたりを眺めていた。
町は少しずつ近づいてきて、一軒一軒の家がはっきり見えるようになり、道はどんどん下っていく。
しばらくして、おじいさんが僕のほうを向いた。
「坊や、ヴェルのお祭りに行くところかのう?」
僕は固まった。
『ヴェル。この場所はそう呼ばれてるのか』
どうせ答えることはできない。少し考えてから、うなずいた。
おじいさんは満足そうに笑った。
「ほっほっほ。ヴェルも今じゃすっかり有名になったもんじゃ。四十年ほど前には、ここにはほとんど何もなかったんじゃがのう。ギルドもできたばかりでな。いい時代じゃった」
おじいさんは少し黙って、道を見つめたままだった。
「それから、フェリクス王子が来たんじゃ。ちょうど魔王軍の幹部の一人が、わしらはのんきに暮らしすぎとると思ったらしくてのう。それをフェリクスが止めてくれた。いい若者じゃったよ」
おじいさんはくすりと笑った。
「わしの孫なんぞ、あとでほかの悪ガキどもと一緒に、その幹部の首でサッカーまでしおったわい」
僕は数秒、黙っていた。
『フェリクス王子。四十年くらい前にここに現れて、魔王軍の幹部を倒した、ヴェルの救世主……。もしかして、異世界から来たのは僕だけじゃない?』
思わず、道のほうに目をやった。
これまで僕は、自分がここに来たのはまったくの偶然だと思っていた。
でも、もし前にも、別の世界の人間がここに来ていたとしたら? フェリクスも、同じようにして現れたのかもしれない。
あまりにも多くのことが、そういうアニメの主人公に起きることとそっくりだった。
『フェリクスのこと、もっと調べないと』
今のところは、ただの推測にすぎない。でも、確かめたいことがもうひとつ増えた。
しばらくして、おじいさんがまた僕を見た。
「おまえさん、さっきからずっと黙っとるのう」
僕は固まった。
おじいさんは少し考えてから、ひとりでうなずいた。
「中心街に、声を売っとる店がある。そこをのぞいてみたらどうじゃ?」
僕はおじいさんを見た。
『声を、売ってる?』
おじいさんはそれ以上何も説明せず、また新聞に目を落とした。
僕はしばらく、道を眺めていた。
『つまり、声は買えるってことか』
一回の移動で、役に立つ情報がふたつ。あとは、それが実際どういう仕組みなのかを理解するだけだ。
✧✦✧
荷車は少しずつ下って、ヴェルの最初の家々のところまで来た。上から見たときは、町はひとつの巨大な石の塊に見えた。
でも今、まわりにはそれぞれの家や通りや階段があって、いろんな生き物がそれぞれの用事で忙しそうに行き交っていた。
あまりじろじろ見ないようにしたけど、ここの住人たちにはなかなか慣れそうにないと、すぐにわかった。
四本足で通り過ぎていく者もいれば、本当に木から生えてきたような体の者もいる。
少し先には毛に覆われた小さな丸い生き物が動いていて、その隣には、何にたとえればいいのかすら思いつかない誰かが歩いていた。
みんな自分のことで忙しい。買い物を運び、箱を引きずり、話し、言い争う。どこにでもある町のにぎわいだ。
『ここって、猫耳娘とかいるのかな』
進めば進むほど、武装した者をよく見かけるようになった。
剣を持った者もいれば、槍を持った者もいるし、まったく正体のわからない装備を身につけた者もいる。
通りの真ん中で、何組かのグループが立ち話をしていた。別のグループは、どうやら仲間を探しているらしい。
『騎士っぽくはないな。どっちかっていうと冒険者だ』
おじいさんが言っていたギルドのことを思い出した。
つまり、ギルドはここに本当にあって、見たところ、それに関わっている人はかなり多いらしい。
隣の通りでは、まだかなり若そうな者たちが、そろって上を見上げていた。
僕も顔を上げると、木に登って降りられなくなった小さな動物が見えた。
「ここに足かけろ!」
「話しかけんなって!」
「動くなよ!」
数秒後、二人が自分たちのほうが落ちそうになった。
『どうやら、英雄への道を歩きはじめたばかりのやつらもいるみたいだ』
しばらく彼らを眺めていたけど、やがて荷車は別の通りへ曲がって止まった。
「わしはここまでじゃ。中心街へはこのまままっすぐ行って、あとは大通りを進むんじゃよ」
おじいさんは手で方向を指し示した。
僕はそっちを見て、それからおじいさんを見て、感謝をこめてマントの端を揺らした。
『今はこれで精一杯。ほかに伝える方法もないし』
「まあ、達者でな、坊や」
おじいさんはまた手綱を取った。石の馬が重たげに石畳を踏みしめ、荷車は動きだして、やがて角の向こうへ消えていった。
知らない通りの真ん中に、僕はひとり取り残された。
おじいさんに言われたとおり、大通りから外れないように気をつけながら、中心街へ向かった。まわりは人が多くて騒がしい。
さっきまでと同じだ。ただ今は、この人ごみを自分でかき分けて進まなきゃいけない。
ここの住人がどんな姿をしていてもおかしくないことに、ようやく慣れはじめたころ、近くの家からフクロウに似た生き物が出てきた。
足には小さな紙袋を抱えている。僕はつい、中をのぞいてしまった。
『パンだ。焼きたての』
その生き物は翼を広げ、ぐんぐん高度を上げて飛び去った。屋根のあいだに見えなくなるまで見送ってから、僕はその家を見た。
看板には何か書いてあったけど、意味はわからない。でも中から漂ってくるパンのにおいで、もう疑う余地はなかった。
『ここの人たちって、何を食べてるんだろう』
僕は中をのぞいた。こぢんまりとした、居心地のいいパン屋だった。生地とバターと、何か甘いもののにおいがする。
カウンターの向こうには、ロウでできた体に、頭の代わりに小さな炎が灯った女の人が立っていた。
彼女は落ち着いた様子で売り上げを数えていて、金色の小さな板を、ひとつの山からもうひとつの山へと移していた。
『小判みたい……いや、四角いな。この世界じゃ、お金はどれも丸くないのか?』
僕はパンを見た。
正直に言うと、お金は持っていなかった。
頼んでみることはできる。でも、どうやって? 何を言えばいいか頭の中で考えてから、まだしゃべる手段がないことを思い出した。
『お腹すいた……』
僕は、口があるはずの場所を見た。
『口、ないんだった。しかたない。じゃあ、ジェスチャーで』
マントの端を持ち上げて、指を作るみたいに布を握りしめようとした。うまくいかない。
端がくしゃっとなるだけで、すぐに元に戻って垂れ下がる。もう一度、角度を変えて、また布を引っぱってみる。
それでも人間の手みたいなものは全然できなかった。マントはやわらかすぎるし、幅も広すぎる。
あの魔女のマフラーと違って、こういう作業にはまったく向いていなかった。
自分を指して、それからパンを指して、さらに普通の生き物なら口があるはずの場所を指そうとした。
そのうち、はたから見たらどう見えるか、はっきりわかってきた。
『僕、今カウンターの前で布切れ振り回してるだけだ。……バカか、僕は』
売り子の女の人は、こっちを見ようともしなかった。
『これじゃ、せいぜい「はい」か「いいえ」くらいしか伝えられない』
僕はマントを下ろして、もう一度扉を見た。
出ていくこともできる。助けてくれそうな誰かを探すこともできる。助けが来るのを待ってみることもできる。
でも、焼きたてのパンのにおいはどんどん強くなるばかりだった。
僕は一番手前にあった、小さなワッフルを見た。
『彼女には、僕が見えてない』
その考えは、勝手に浮かんできた。
すぐに振り払おうとした。
『だめだ。それはだめだ!』
数秒のあいだ、僕はただワッフルを見つめていた。
『でも、ひとつだけ取ることはできる』
僕は固まった。
『お金はあとで返せばいい』
自分の頭の中でさえ、怪しく聞こえた。そのお金、いったいどこで手に入れるんだ?
空腹はどんどん強くなる。
『……わかった。ひとつだけ』
もう一度、売り子を見る。彼女はあいかわらずお金を数えていて、こっちには目もくれない。
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』
僕はマントの端をそっと伸ばして、ワッフルを引っかけ、布の別の部分で押さえた。落とさないように、針を支えに使う。
一回で、うまくいった。
僕は一瞬、固まった。
誰も振り向かなかった。
✧✦✧
僕はパン屋から飛び出した。売り子に気づかれたかどうかなんて、確かめる気にもなれなかった。
ワッフルをマントでぎゅっと抱えて、隠れられる場所を必死に探しながら通りを駆け抜けた。
一番近い建物の裏に、細い路地があった。スピードを落とさずにそこへ曲がり込んで、そのまま誰かにぶつかった。
大した衝撃じゃなかったけど、それでも僕は横にはじき飛ばされた。固まったまま、顔を上げる。
目の前には、パイプをくわえた見知らぬ誰かが立っていた。
何事もなかったかのように落ち着いてパイプをふかしてから、ゆっくりと首をかしげて、自分にぶつかってきたのが誰なのか確かめようとした。
『すみません! すみません! すみません!』
声に出して言おうとした。
何も出ない。
『……だよな』
数秒その人を見つめてから、まだマントに抱えたままのワッフルを見た。
『止まっちゃだめだ』
僕は起き上がって、また走りだした。
路地には誰もいなかった。もう一度曲がると、壁際に大きな樽がいくつか並んでいるのが見えた。
その陰にもぐり込んで、地面にぺたりと張りつき、せめて動かないようにした。数秒のあいだ、ただ横になって耳を澄ませる。
誰も叫んでいない。誰も追いかけてこない。パン屋のほうから騒ぎが聞こえてくることもなかった。
樽の陰から、そっと顔を出す。
『……静かだ』
どうやら捕まらなかったらしい。まあ、そもそも誰も捕まえようとしてなかったみたいだけど。
もう少し待ってから、ずっと抱えていたものを見た。ワッフルは、ちゃんとそこにあった。
『僕、本当に盗んじゃったんだ』
その考えは、なぜか思っていたより重く響いた。少し考えてから、肩をすくめた。いや、すくめようとした。
肩については、あいかわらずちょっと問題があった。
『まあいいや。もう返しに行くには遅い』
そっとワッフルをかじって、固まった。
『やわらかい。あったかい。ほんのり甘い』
生地があまりにおいしくて、数秒のあいだ、たった今やったことをすっかり忘れていた。
あっという間に食べ終えて、それからしばらく、樽の陰に座ったまま、空っぽになったマントの端を眺めていた。
『……おいしい』
僕は考え込んだ。
家で食べたのと、ほとんど同じだ。
もう少し考える。
『んー。……鈴が作るほうが、ずっとうまいな』
第4.5話 御者とパン
木の鎧戸のすき間から、朝が部屋に忍び込んできた。
細い金色の光の筋が板張りの床に落ち、角の欠けた丸椅子をよじ登って、枕もとまで届く。
ピクッ、ピクッ。
蛾の老人の触角が揺れた。
灰色の羽根のようにふさふさした二本の触角は、持ち主より先に目を覚まし、朝のにおいを真っ先にとらえる。
湿った木。かまどの冷えた灰。それから、下の階で宿の主人がもう天板に並べている、焼きたてのパン。
『ほっほっほ、朝じゃ。今日もまたひとつ、どこかの村の腹が満たされるのう』
老人は狭い寝台の上で身を起こした。
藁布団は、幾晩も寝るうちに老人の背中の形を覚えてしまったらしく、なかなか放そうとしない。
四本の腕を左右に伸ばすと、関節がポキポキと乾いた音を立てた。靴の下で折れる小枝のような音だ。
背中の翅は縁がすり切れ、旅路の土ぼこりのように灰色だった。それがいったん大きく広がり、また外套のようにたたまれる。
翅から毛布の上へ、小麦粉のような細かい鱗粉がはらはらと落ちた。
『なにせ、わしは御者じゃからのう』
✧✦✧
宿の一階は、粥と煙と、あのパンのにおいがした。
カウンターの向こうでは、青い肌のケルドが店を切り盛りしていた。ひげは二本の三つ編みにしてある。
ケルドは角がひとつ欠けた布巾で、ジョッキを拭いていた。
老人はカウンターに硬貨を二枚置いた。一晩分の宿代だ。
「もう発つのかい、じいさん」
「道は待ってはくれんからのう。ほっほっほ」
老人の声には、かすかな弦の響きが混じっている。
何年も前、老人の体は古い三味線を取り込んだ。それ以来、言葉を発するたびに、胸の奥から小さな弦の音がこぼれるようになった。
まるで誰かが、爪でそっと弦をはじいているかのように。
ケルドはふんと鼻を鳴らし、まだ温かい丸パンを紙に包んで、硬貨の横へ押しやった。
「持ってけ。値段は昨日の、味は今日のだ」
「ほっ、甘やかしてくれるのう」
丸パンは旅の鞄にしまわれた。水筒と、折りたたんだ注文書の隣に。
『楽な仕事じゃ。注文を受けて、荷を積んで、のんびり道を行くだけじゃからな』
老人は玄関先に出た。村はまだ眠っている。
屋根の上には桃色の霧がかかっていた。起きているのは、柵の上の雄鶏だけだ。
銅のやかんにとさかをつけたようなその雄鶏が、かすれた声を試している。
老人は角を曲がって、厩へ向かった。
『じゃが、道中の景色がどれほど美しくても、その喜びを分かち合う相手がおらんでは、なんの甲斐もないからのう』
老人は声で短い旋律を奏でた。
チン、トン、シャン。
胸の中の弦が、祭りの日のように明るく軽やかに歌った。
厩の木の仕切りの向こうから、石の頭がのぞいた。
ゴーレム馬の顔は、なめらかな灰色の岩をぴたりと組み合わせてできていた。石の上には、葉脈のような細い青い模様が走っている。
老人は近づいて、その鼻面に手のひらを当てた。夜を越した石はひんやりとして、少しざらついていた。
「そうじゃろう、ウマっち?」
模様がまたたいた。
「今日はちょいと鉱石と、職人の道具を運ぶぞ」
ウマっちは、うれしそうに高く澄んだ魔法の音を響かせた。
青い模様が、いっそう明るく光った。
「ほっほっほ、そのとおり。今日は身軽な旅じゃ」
首の石と石のすき間に、雑草が一本生えていた。細い茎の先に、黄色い花をつけている。
老人はそれを下の手の爪二本でつまんで、引き抜いた。
「また草が生えとるぞ。注文主のところに着いたら、新しいブラシでたてがみをとかしてやろう」
ウマっちのたてがみは、ふかふかの苔でできていた。しっぽも同じ苔で、たてがみよりも長く、ふさふさしている。
夜のあいだに苔には藁くずが入り込み、耳の上のひと房では、テントウムシが一匹うたた寝をしていた。
ウマっちは鼻面を老人の胸に押しつけた。それからもう一度、今度はもっと強く押す。足りない、と言いたげに。
「ほっ、ほんとうにこれが好きじゃのう」
老人は四本の腕ぜんぶでなでてやった。
二本の手で両目の光のあいだの額をかく。
残りの二本は苔のたてがみの下、首の石がいちばんなめらかなところへもぐり込ませた。
✧✦✧
車輪の音。
どっしりとした荷馬車が、明るい草原を進んでいく。
車輪は老人の背丈よりも高く、輪には鉄が打ちつけてある。
荷台の側板には、ずっと昔に誰かがぶどうのつるを彫ったらしい。今では雨と人の手で、ほとんどすり減っていた。
むしろの下では、鉱石の箱と包みにした道具がカチャカチャと鳴っている。
ウマっちは重く、規則正しく歩いた。
ズシン。ズシン。ズシン。
蹄に踏まれた草はいったん倒れても、すぐに起き上がる。まるでおじぎをしているみたいに。
「覚えとるか? わしがダンジョンでおまえを見つけたときのことを」
老人は右を向いた。轍のすぐそばに、野の花が咲いている。
白い星のような花、黄色いボタンのような花、それに青い釣鐘草。釣鐘草は風に揺れると、本当にかすかな音を立てた。
さわやかな風が花を揺らし、草原の上を細い鈴の音が流れていく。
「わしはあのころ、ギルドに登録したばかりでな。寄せ集めのパーティーで、初めての依頼に向かっとったんじゃ」
老人は鞄から水筒を取り出した。銅製で、片側がへこんでいる。栓は一度だめになって、木のものに替えてあった。
蓋のコップに茶を注ぐと、湯気が立ちのぼり、ミントと蜂蜜の香りがした。
「おまえはあのとき、ほんの小さかったのう。石が三つ、せいぜいそんなもんじゃった。ほっほっほ」
「瓦礫の山の陰で、隅っこにうずくまって光っとった。最初はホタルかと思ったわい」
ウマっちが鼻を鳴らした。石のすき間から、ぽふっと土ぼこりが吹き出す。
「まあまあ、すねるでない。きれいなホタルじゃったぞ」
老人はコップの茶をすすり、ほうっと満ち足りた息をついた。
✧✦✧
荷馬車はのどかに道を進んでいた。やがて地平線に、モコの一団が見えてきた。
「旅の者かのう?」
老人は目を細めた。
道ばたには、苔むした平たい石の石垣が続いていた。
その上に、土ぼこり色のだぶだぶのぼろをまとったモコたちが座っている。首には、くすんだ鉄の首輪が鈍く光っていた。
そのそばには、上等な羅紗の青緑色のマントを着て、つばの狭い帽子をかぶったモコが立っていた。
新聞を読みながら、ときどきページをめくっている。
『なるほど。奴隷というわけか』
荷馬車は一団のそばまで来て止まった。
「乗っていきなさるかの、旦那?」
「それは助かります、旦那」
マントのモコは新聞をたたんで、脇に挟んだ。
首輪のモコたちが顔を上げた。老人を見るその目は疲れきっていて、何の望みも宿していなかった。
「では、乗りなされ。全員分の席はあるでな」
奴隷商人は老人の隣の御者台に上がり、奴隷たちは荷台によじ登って、箱のあいだに腰を落ち着けた。
ひとりがもうひとりに手を貸したが、手を借りたほうは、なかなか側板の上に足を上げられなかった。
「行くぞ、ウマっち」
老人が手綱を軽く揺らすと、荷馬車は動きだした。
✧✦✧
道は大麦畑に沿って続いた。
ここの穂は猫のしっぽのようにふわふわとやわらかく、どの穂にも小さな紫の花がびっしりついていた。
風が吹くと、畑が呼吸をはじめる。
穂先は藤色に、根もとは桃色に染まった波が、畑の上を走っていく。まるで荷馬車が、海辺に沿って進んでいるようだった。
穂の上には甘い花粉が漂っていて、老人の触角はひとりでにそちらへ伸びていった。
「どちらまで行かれるんじゃ?」
「ルダガンです。あそこに、病気の奴隷を買い集めている羽振りのいい貴族がいましてね」
「ほう。高く買うのかの?」
「七万ゴールドです」
「ふうむ。病気持ちにしちゃ、ずいぶんな額じゃのう」
「でしょう?」
奴隷商人は、たたんだ新聞を指でトントンとたたいた。
「物好きなもんですよ。まあ、私には関係ありません。払いはきちんとしてますから」
『金持ちというのは、みな何かしら変わった趣味を持っとるもんじゃ』
老人は上のほうの両肩をすくめ、それ以上は考えなかった。
「旦那は、注文で荷を運んでおられるんですか」
「そうじゃ。金の山とはいかんが、食うには困らん。今はオフレイへ向かっとるところじゃ」
「なら、私たちもそこで降ります。一日ほど泊まって、また先へ進みますので」
老人はうなずいた。
しばらく、二人は黙って揺られていた。車輪がきしみ、道ばたで釣鐘草が鳴り、ウマっちが規則正しく足音を刻む。
やがて奴隷商人が、懐から木のパイプを取り出した。
同じ懐から、どこの辻の店でも売っているような、安い刻み草のにおいがした。
「一服いかがです?」
老人は横目でちらりと荷台を見た。
奴隷の女のひとりが身を縮め、袖で顔を覆っている。別の奴隷は背中を丸め、腹を押さえていた。
「わしは吸わんのじゃ」
「チッ。……まあ、いいでしょう。吸わない方の隣で煙を吐くわけにもいきませんしね」
奴隷商人はパイプを懐に戻し、またあたりの景色を眺めはじめた。
荷台の女は袖を下ろし、その袖の中で小さく咳をした。それから、老人にそっと会釈をした。
地平線に、オフレイの屋根が見えてきた。
草むらに実った木の実のように赤い屋根で、どの屋根からも細い煙がひとすじ立ちのぼっている。
✧✦✧
荷馬車は村の真ん中の井戸のそばで止まった。
古い井戸で、屋根は傾き、巻き上げ機はきしむ。誰かがそこに、あの紫の穂で編んだ輪飾りをかけていた。
まわりには、壁がゆがみ、丸い窓のある家々が建っている。窓辺では、花の鉢が日なたぼっこをしていた。
「ありがとうございました、旦那。助かりましたよ」
奴隷商人が手を差し出した。
「なんの。どうせ同じ道じゃ」
老人は、四本ある腕のうちの一本を差し出した。
「では、これで」
奴隷商人は御者台から飛び降りて、いちばん近い宿屋のほうへ歩いていった。
新聞は、御者台に置き忘れたままだった。
奴隷たちも荷台から降りて、そのあとに続く。
最後を歩いていたのは、あの奴隷の女だった。
老人は鞄から朝の丸パンを取り出し、半分にちぎった。それから声で、静かに和音を鳴らした。
ベン。
女が振り返る。老人はすかさずパンを放った。
女は思いがけないことに慌て、受け止めようとして転びかけた。それでもどうにかつかみ、両手でパンを胸に抱きしめる。
『仲間と分けて食べなされ』
女はさっと前を見た。仲間たちは、もう数歩先を歩いている。
女は老人に深々と頭を下げると、パンを服の下に隠して、急いで仲間を追いかけた。
「あの旦那、感じのいいモコじゃったが、懐はさびしいようじゃのう。ほっ。まあ、世の中にはもっとひどいのもおるでな」
老人は鞄から注文書を取り出した。角ばった文字で、注文主の名前と住所が書いてある。
「そうじゃろう、ウマっち?」




