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第29話 領主と朝食

最初にやってきたのは、温かさだった。そのあとに、重さ。何かが四方から、むらなく、容赦なく僕を押さえつけていた。


僕は目を開けた。


彫刻の入ったヘッドボードのついた大きなベッド、天蓋、重いカーテン。豪華な部屋だった。あの夢で見たのと、まるで同じだ。


『僕、寝てるのか?』


でも、夢の中でこんなことを考えたりするだろうか。確かめる方法は、ひとつしかなかった。


僕は、ベッドの上をごろごろと転がった。ソーセージみたいに。向こうまで行って、また戻ってくる。


『夢ならバグるはずだ。変なプロンプトを食わせた画像生成AIみたいに、絵がぐにゃっと崩れて、壁が波打って、布団がクラゲに変わったりする。でも、全部ちゃんとそのままだ。布団まで、ちゃんと体に巻きついてる。つまり、現実だ』


ひとつ解決。次の問題だ。


「ここ、どこだよ!?」


思っていたよりずっと大きな声が出て、僕は慌てて手で口をふさいだ。でも、誰も駆けつけてはこなかった。


布団は、持ち上げられないほど重かった。まるで雪の吹きだまりをかき分けるみたいに、少しずつ這い出すしかなかった。


足が、やわらかいじゅうたんの上に立った。夢の中では、何もかもが勝手に起きた――足は勝手に歩き、扉は勝手に開いた。


今は、どんな動きも自分でやらなきゃいけない。それが、なんだかうれしかった。


僕は窓に近づいた。ガラスは一面、氷の模様に覆われていて、向こうは何も見えなかった。


『よし。何を覚えてる?』


僕は部屋の中を歩き回りながら、出来事をひとつずつ思い返しはじめた。


『同僚と飲みに行って、ちょっと飲みすぎて……。あ、待った。それは別の話だ』


『ルネに、養護院からおばあさんの荷物を引き取ってくるよう頼まれた。チャウシーと一緒に行った。そこでリリと、オイミャコン卿に会った。領主と……』


僕はもう一度、凍りついた窓を見た。


『それから、あの人が何かを歌いはじめて、僕は気を失った。領主は、僕とチャウシーを馬車で家まで送るって言ってた。なのに僕は、こんな王様みたいな部屋にいる。ってことは、自分の屋敷に連れてきたのか?』


『ちょっと待て。僕の針はどこだ? それに、もっと大事なのは――チャウシーはどこだ!?』


ベッドの下も、肘掛け椅子の下ものぞいて、ベッドカバーも振ってみた。何もない。床にも、何の跡もない。


ここに僕ひとりしかいないなら、動くしかない。扉はひとつだけで、廊下に続いていた。


✧✦✧


白い壁、暗い色の扉、燭台のついた柱。壁には絵が掛かっていて、今度はちゃんと見ることができた。


見知らぬモコたちが改まったポーズをとっていて、そのあいだに、ときどきオイミャコン卿本人の姿がまじっていた。


軍服姿のときもあれば、毛皮をまとっているときもある。でも、目を細めたあの表情だけは、いつも同じだった。


僕は何歩か進んだ。そして、固まった。後ろから、誰かが歩いてくる。


『やばい! 誰だ!? どこに隠れる!?』


僕はあたふたした。棚もない、花瓶もない、隠れられそうなカーテン一枚ない。むき出しの柱と、均一な光だけだ。


廊下に、メイド服を着た木のマネキンが出てきた。手には、ふたのついた銀のお盆を持っている。


彼女は、まるで僕なんかそこにいないみたいに、すぐ横を通り過ぎていった。


『ってことは、僕は招かれざる客ってわけじゃないのか。あとをついていってみるか? どっちにしろ、知らない壁にぶつかって回るよりはましだ』


僕は、そうすることにした。


✧✦✧


メイドは止まることなく、まっすぐに歩いていき、やがてある扉の前で立ち止まった。扉には、木の札が掛かっていた。


「ユキの部屋」。


『待てよ。養護院の子どもたちは、領主のことを「ユキおじさん」って呼んでた。ユキって……日本語なら「雪」じゃないか。氷の領主の名前が、雪? ヒントどころか、もう看板だ。でも、ナエだって、日本語なら「苗」だ。考えすぎかもしれない。違う言葉や文化を比べたって、意味ないよな』


扉の向こうで、何かががさごそと音を立てた。それから、誰かのため息が聞こえた。


……。


『なんか、いやな予感がする……』


メイドが取っ手を握って、扉を開けた。


バキッ。


扉の向こうで、木の割れる音がした。


「あれ、誰か来たの?」と、薄暗がりの中から、だるそうな声がした。


青白いろうそくの炎が、気だるげに、闇の中からひとつの影を浮かび上がらせた。


ほっそりしたマンケリが、ベッドの上にひざをついて座り、布団で体を隠していた。


そして、その下には、ひびと引っかき傷だらけのマネキンが、ぴくりともせずに横たわっていた。


『ちょ、ちょっと待って! 僕にはまだ早いって!』


「あ、ごはんが来たの。おまけに、お客さんまで?」


マンケリが指を鳴らすと、部屋がまぶしい光で満たされた。今度は、細かいところまで見えた。


その人形は、頭のてっぺんからつま先まで包帯だらけで、その下から水色の髪がのぞいていた。


それは……。


「オイミャコン卿!?」


思わず大声が出て、僕は自分で両手を口に押し当てた。


「そう、ユキなの。いつ起きたの? よく眠れたの?」


ユキは布団を払いのけて、椅子の背に掛かっていた青いセーターを頭からかぶった。


『平気なのか!? 最近の若いもんは! 恥ってものを知らんのか!』


ひびの入ったマネキンも起き上がった。自分のメイド服を拾い上げて、黙って部屋を出ていく。


途中で、指が二、三本、じゅうたんに落ちた。


『いったい何の遊びをしてたんだよ!?』


お盆を持ったメイドがあとから入ってきて、それを小さなテーブルに置くと、仲間のあとを追って出ていった。


「あの、すみません……また、あとで来ます……」と、僕はなんとか言葉をしぼり出し、お辞儀をしながら、後ずさりで出口へ向かいはじめた。


「どこ行くの?」ユキが指を振った。


扉がばたんと閉まって、逃げ道をふさいだ。


『誰か助けて!』


ユキはソファに座って、隣をぽんぽんと叩いた。座れ、という合図だ。


『頼むから、変な趣味の話だけはやめてくれ……』


僕は向かいのソファに座った。領主から、なるべく離れて。


「まだ答えてないの。よく眠れた?」


「眠れたか、ですか?……よく、眠れました……」


「よかったの〜。気に入ってもらえてうれしいの。重たい毛布、みんなが好きなわけじゃないから」ユキはテーブルに手を伸ばして、ヘアピンを二つ取り、こめかみに留めた。「重たい毛布が嫌いな子は、ぶーたれさんなの」


『彼……いや、彼女?……どっちだ? いつも、こんな感じなのか?』


一緒に寝ていた人形の首を――たぶん――へし折った直後に、どうしてこんなに気楽におしゃべりできるのか、僕には理解できなかった。


『で、どうする? 僕からも、何か聞いてみるか?』


包帯。ユキは、全身包帯だらけだった。おしゃれ? それとも、必要だから?


「全身、包帯だらけですけど……何か、必要があってなんですか?」


ユキは自分の手を見て、ふっと鼻で笑った。


「えへへ、まあね。ユキの依り代の素材は、急に温度が変わるとひびが入っちゃうの。そのたびに新しい部品を注文するのは、大変なの」


ユキは、顔の包帯をほどきはじめた。


「お口はね、火が大好きな知り合いのせいで欠けちゃったの。手合わせで張り切りすぎちゃって。温度が急に変わったところで、ユキが自分の氷で滑って、顔から転んだの」


包帯の下に、口はなかった。そのかわりに、ぽっかりと穴が開いていて、頭の奥で、青みがかった風とかすかな光が揺らめいていた。


『うわ、怖っ……。口裂け女より怖い』


「朝ごはん、食べる?」


ユキが、お盆のふたを取った。その下には、ワッフルの山があった。


定番のベルギーワッフル、たい焼きみたいな魚の形のもの、くるくる巻いたワッフルロール……。


『お母さん、ここは天国です……』


「紅茶、ココア、ビール、どれにする?」


「よければ、紅茶で」


「じゃあ、自分で注いでね。手もあるし、マフラーもあるの」


ユキの目が一瞬、僕の首の赤いマフラーに滑った。それから、少し上へ――帽子のバツ印へ。


次の瞬間には、その視線はまた、だるそうなものに戻っていた。


『気のせいか?』


「ありがとうございます」


僕は紅茶を注いだ。ワッフルを見て、それからユキを見た。


ユキはうなずいた。どうぞ、という意味だ。ユキ自身は、自分のワッフルを「食べて」いた。


さくさくの角が、頭の中の風に、粉々に吹き散らされていく。


『まるでサンドブラストだ』


僕もひと口かじって、考え込んだ。


『入ってきたときのことを忘れれば、なかなか居心地がいい。忘れれば……。なんか、大事なことを忘れてる気がする』


僕は自分の手を見た。指を握って、開いた。


『チャウシーも、こうしてたな……。そうだ!』


「えっと……すみません、チャウシーがどこにいるか、ご存じですか?」


「誰? ああ、あのミラーシカのこと? あの子なら、ぜんぜん大丈夫なの。朝ごはんを食べたら、あの子を人形にしに行くの」


『ふう。じゃあ、あの子は無事なんだ』


『……あれ。待てよ……』


「人形にするって、どういう意味ですか!?」


僕は紅茶にむせた。


「どういうって、ふつうの人形なの。ユキのメイドたちみたいな」


僕は固まった。


『人形? あのマネキンたちみたいに? どういうことだ!? あれはマンケリだ。つまり領主は、チャウシーを人形の中に入れようとしてるのか? なんのために? あの子には、ちゃんとした体があるのに』


「なんのために……?」


「なんのため、って?」


「なんのために、そんなことを?」


ユキはワッフルロールを手に取ると、口があるはずの穴にタバコみたいにくわえて、足を組んだ。


「知らないの?」


「知るわけないじゃないですか!」


「はぁ〜。ダルグのことは、聞いたことある?」


「本で読みました」


「じゃあ、ダルグのいちばんの能力は知ってるはずなの」


「ほかのモコを食べられる、っていうことですか?」


「うんうん。それにダルグは昔、魔王に仕えてたの。聞いたことある?」


「い、いいえ……」


「じゃあ、手短に言うの。要するに、きみのお友だちは、逃亡奴隷なの」


体の中で、いろんなものがごちゃまぜになった。驚いた、とは思う。


でも、ルダガンの決まりと罰を思い出せば、奴隷にならないほうが難しいくらいだ。


「ユキはね、幸せな未来なんて望めない奴隷を買い取ってるの。治らない病気の子とか、きみのお友だちみたいな、『汚れた血』のモコとか」


『それって、ヒーロー気取りか何かのつもりなのか!?』


「それから、その子たちの炉を、ユキの人形に移すの。そうすれば、屋根も、ごはんも、仕事もある。ユキが出したぶんを働いて返したら、マンケリとして自由になれるの。そっちのほうが、ダルグなんかよりずっといい扱いを受けられるの」


「でも、チャウシーが嫌だって言ったら?」


ユキはソファの背にもたれて、両腕を広げた。


「あの子は、自分の主人を殺したの。ユキはもう、その主人にあの子の代金を送ってたのに。お金だけならまだいいの! あの子のせいで、病気の奴隷を売るならルダガン、っていう町の評判まで危なくなったの。うわさって、すぐに広まるでしょ。大きな奴隷商が三人と、小さいのが四人、ユキとの取引をやめちゃったの。本当なら処刑ものだけど、許してあげるの」


『チャウシーは、ユキのものなんだ。もう、ただの言葉じゃない』


「そうしないと、だめなんですか?」


「だめじゃないの。でもそのかわり、あの子は死ぬまで、ずっと虐げられることになるの」


僕はうつむいた。


「僕が……守る……」


「ん?」


「僕が、あの子を守る!」


声が裏返った。僕は顔を上げて、テーブルを叩いた。


ユキは、ふんと鼻で笑っただけだった。


「守る? えへへ、ずいぶん自信があるの」


『僕のことなんか、なんとも思ってないんだ。そりゃそうだ! どうせ僕は、こそこそ不意打ちしかできない、弱っちい影身だよ!』


「守れるって、証明してみせます」


「おお〜! そういう子、久しぶりに見たの」ユキは包帯を取って、また口を巻き直した。「じゃあ、どうやって守るのか、見せてほしいの」


ユキはソファから立ち上がると、テーブルを飛び越えて、拳を振り上げた。僕はとっさに身を沈めて、足もとへ潜り込んだ。


『今!? なんでみんな僕を殴るんだよ!?』


横へすり抜けて距離をとろうとしたけど、ソファとユキの脚のあいだの隙間は、ひざでふさがれた。反対側も同じだった。


「テーブルのほうへ、足のあいだをくぐって抜ければよかったの」


ユキは両脚で僕をはさみ込むと、ソファの背をつかんで、そのまま僕を壁に投げつけた。


『野蛮すぎる! クリオのほうが、まだ正々堂々としてたぞ!』


僕は吹っ飛んで、床にべしゃっと落ちた。


「ユキは、ぜんぜん接近戦向きじゃないの」と、ユキはゆっくりこちらへ歩いてきながら言った。「なのにきみは、まともによけることもできないの。攻撃なんて、なおさらなの」


『嘘つけ! あんなふうに脚で投げ飛ばせるのは、接近戦のプロだけだ!』


僕は大急ぎで部屋を見回して、殴れそうなものを探した。


「自分の針、探してるの?」


ユキは自分のすぐそばに、氷と冷気の小さな雲を開いて、その中から僕の針を取り出した。


『……インベントリ?』


「はい、どうぞ」


ユキは、だるそうにそれを僕のほうへ放った。針は、ちりんと音を立てて僕の足もとに落ちた。


『親切にしてくれてるのか? まあいい、文句を言う筋合いはない』


僕はマフラーで針を拾い上げて、考え込んだ。


『あの依り代は骨だ。メイスはないから、砕くのは無理。目を狙う? ギョウなんて、目がなくても僕を負かした』


『新人は、ただ壊そうとするだけだって言ってた。ってことは、また頭を使うしかない。炉を狙う? 領主だって、そんなものを見えるところに置いておくほどバカじゃない』


「ユキは、王国でも指折りの強さだから、ハンデをあげるの。魔法は使わないし、炉も頭の中に置いたままにしておくの」


『ご都合主義かよ。まあ、使わせてもらう。高レベルの相手にいきなり放り込まれるなんて、どう考えても不公平だし』


『炉が頭の中なら、狙うのはそこだ。口から』


僕は構えた。ユキは、もうすぐそこまで来ていた。


『背中に回り込む隙を、待つんだ』


ユキが拳を振りかぶった。


『そして……』


拳が、放たれた。


『今だ!』


僕は、やわらかい体を使って思いきり身を縮め、タコみたいに前へ跳び出して、マフラーをユキの肩に引っかけた。


「ん?」


僕はユキの背中によじ登って、口を狙って針を振り上げた。


「おもしろいの」


ユキの頭が、くるりと百八十度回った。針の先は、鈍い音を立てて後頭部に当たった。


「なっ!?」


体が、頭のあとを追うように回転した。ユキは、僕の頭をつかんだ。


「本物の戦いなら、きみはもう死んでるの」


そして、力いっぱい、僕の顔を床に叩きつけた。


もう一度。


もう一度。


さらに、もう一度……。


ユキは、僕の頭を持ち上げた。顔と床のあいだに、暗い赤紫色の、ねばついた糸が一本、細く伸びていた。


「誰かを守るには、まだ早いの。窓から出ていくことだってできたの。逃げるのも、立派な手なの」


ユキが手を離すと、僕の頭は、暗い水たまりの中にべしゃりと落ちた。


意識が、かすんでいく。痛みが、どんな考えもかき消していった。


「……おやすみ」

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