第28話 ニフルストーン(後編)
その1
炎の鎖に巻かれたまま、ルダガンのほうへ運ばれていった。
しばらくしてたどり着いたのは、屋敷だった――大きな石造りの屋敷で、ろうと乾いた木の匂いがした。
地下室へ降ろされた。ライターがこの先どうするか決めるまで、そこで食べ物を冷やす役目を与えられた。
もとの結晶のかわりに、木の小さな壺を渡された――死なないための、仮の依り代だ。
何日かのあいだ、ただ漬物の樽のあいだに転がって、上の階を歩くモコたちの足音を聞いていた。
✧✦✧
やがて扉が開いて、ライターが地下室へ降りてきた。腕には、人形を抱えていた。
「これが、おまえの新しい依り代だ」と彼は言った。「フェリクス王子が、その制作に金を出すと言ってくださった。そのかわり、おまえを打ち負かした英雄として、新聞にはご自分の名を載せるよう求められた」
彼は人形を、すぐそばの床に置いた。小さくて、硬くて、太ももに何かの模様が入っている。
『へえ。冷気を抑える封印? 賢い。もっと間抜けだと思ってた』
「名声などいらない」とライターは言った。「さあ、新しい依り代に入りなさい。中には、もう声と、残響をいくつか入れておいた。おとなしくしてくれた礼だ」
『おとなしく? 何百年も退屈してなかったら、岸辺でとっくにおまえを殺してた。でもまあいい――どんな体を用意したのか、見てみたい』
壺から、人形のほうへゆっくりと這い移った。
『えっと……。どうやって入るの?』
「ああ、すまない」ライターがはっとした。「忘れていた」
彼は人形の頭をねじって外した。それでやっと、中に入ることができた。
中は、思いのほか居心地がよかった。ただ、これをどうやって動かせばいいんだろう。
自分の風で、体の空洞をひとつひとつたどっていった。関節を、指を、目を探り当てた。
まぶたを開けた。
……。
生まれて初めて、色を見た。
それまで、世界は空気の流れでしかなかった――色のない反響、色彩のない形。
それが今、目の前にはガラスがあって、その向こうに人形が座っていた。
『……誰?』
手を上げた。ガラスの向こうの人形も、あとから手を上げた。
ライターのほうへ顔を向けた。彼は片ひざをついて、三本指の手を差し出していた。
「立ってごらん。私につかまりなさい」
立ち上がろうとした。体の中の風の流れが、足のほうへ駆けていく。
両手で彼の手にしがみついて、それを支えにした。片足が、すぐに何かつるつるしたものを踏んだ。
下へ、落ちた。また。
でも最後の瞬間、背中を何か温かいものが受け止めた。ライターの手だ。
「ここは滑る」と彼は言った。「じゅうたんの上で、歩く練習をしよう」
彼は四本の腕で、こちらを抱き上げた。
「あいっ!」
声は、体のどこか内側から飛び出した――細い、音楽のような響き。まるで体の中で、オルゴールのねじを巻いたみたいに。
「もう自分の声を見つけたのか。えらいぞ」
どうして叫んだのか、わからなかった。痛くはなかった。じゃあ、今のは何だったんだろう。
ライターは地下室を出て、上へと運んでいった。
✧✦✧
扉の向こうには、生まれてこのかた見たこともないほどの色が待っていた。
白い廊下。まっすぐ延びる赤いじゅうたん。そして高価な窓の向こうには、遠くの魔力の柱と、その下に並ぶルダガンの屋根。
「もうすぐ着く」とライターが言った。「お腹がすいたら、すぐに言いなさい。依り代が複雑だから、隅々まで満たすのに、きっとたくさん魔力を使っただろう」
『依り代を満たすのに魔力がいる? そんなに弱いの? ふん。自分の蓄えから、ほんの数滴使っただけだ。使ったけど、ちょっとだけだ』
「ここが、おまえの部屋だ」彼は扉の前で立ち止まった。「野生のモコにひと部屋まるごと与えてくれと頼んだら、妙な目で見られたよ。もっとも、この屋敷は、どのみち誰もろくに使っていないのだが」
✧✦✧
彼が扉を開けた。中は贅沢そのものだった。大きなベッド、専用の暖炉、テーブル、そのほかの家具。
ライターはソファに近づいて、そっとクッションの上に降ろし、向かいに座った。
「何か言ってごらん。最初はうまくいかないかもしれない――おまえの声は、少し変わっているから」
体の中で、音を出しているものを探しはじめた。小さな箱が見つかった。
中には、ピンの並んだ筒があって、その隣に、長さの違う細い板が何枚も並んでいる。
『さっき地下で叫んだのは、偶然だった。今度は、わざとやってみよう。まずは、ごはんから』
「……ご、ご、ご、はん」
出てきたのは、ばらばらな音の連なりだけだった。
「惜しい」とライターが言った。「板を一枚ずつはじかなくていい。筒を回すだけで十分だ」
『あ。そういう仕組みか。じゃあ、そうしてみよう』
「……ごはん」
『できた!』
「ごはん……ほしい……」
「わかった」と彼はうなずいた。「すぐに用意しよう」
彼の前に、半透明の四角い板が浮かび上がった。中には、文字の書かれた長方形がいくつも並んでいる。
彼が指でそのひとつに触れると、一分後には、料理を山盛りにしたワゴンを押して、女中が部屋に入ってきた。
彼女はてきぱきとテーブルに並べると、一秒も立ち止まらずに出ていった。
「次は、指を動かしてごらん」とライターが言った。「関節は新しいから、動かすのは難しくないはずだ」
もう一度、手を上げた――一回でうまくいった。風の流れが、さらに先の指へと向かう。指が震えて、動きはじめた。
全部の方向に曲がるわけではなかった――関節が邪魔をした。
ライターは腕を組んで、黙って見守っていた。
何分か練習して、やっと背中と腕を曲げて、テーブルのワッフルに手が届くようになった。
四角くて、こんがりきつね色で、とても熱い。その匂いは、これがいったい何なのか知りたくなるほどだった。
「料理は、前もって全部温めておくよう頼んでおいた」とライターが言った。「指が料理を凍らせる前に、食べなさい」
角を、ひと口かじった。
『こ、これ……こ、こ、これ……』
……。
「おいしい!!!」
叫び声は、思っていたよりずっと大きく響いた。でも、この温かさ――それは体じゅうに広がっていって、炉にまで届いた。
「気に入ってくれてうれしいよ。顔の仮面が、こんなに早くなじむとは思わなかった」
「なに?」
彼は空の銀のお盆を手に取って、こちらに向けた。
映っていたのは、さっきと同じ人形だった。ただ、頬が赤く染まっていた。
「これ、顔? なんで赤いの? マンケリって、ワッフルを食べるといつもこうなるの?」
「それはないだろう」ライターは肩をすくめた。「たぶん、骨の素材が温まって、少し色づいただけだ」
『そうかもしれない。全部食べて、確かめないと』
もうひと口かじった。それから、もうひと口。さらに、もうひと口。
気がつくと、テーブルの上にはほとんど何も残っていなかった。
そのとき、太ももに鋭い痛みが走った。オレンジ色の模様が、いっそう明るく燃え上がった。
まるで何かが、冷気のかたまりをまるごと引き抜いて、すぐにどこかへ運び去ったみたいだった――横のほうへ、見えない糸をたどって。
「冷気が多すぎると、封印がそれを消すんだ」とライターが説明した。「うっかり、ここにいる全員を凍らせてしまわないように」
『そういうことか。たくさんは食べられないってことだ。残念』
ピロン。
ライターがまた、あの画面を開いた。
「フェリクス王子から連絡だ。もうすぐここに来られる。コイも一緒だ」
彼は画面を消して、ソファから立ち上がった。
「それなら、二人が来るまでに、せめて歩けるようにならないとな」
それから二十分ほど、ライターは、彼自身が基本と呼ぶものを教えてくれた。
一、歩くこと。
「指はもう動かせている」と彼は言った。「今度は、背中と足に意識を向けなさい。転んでもかまわない。床は丈夫だし、おまえの体もだ」
二、つかむ力。
「覚えておきなさい。おまえが触れるものは、すべて壊れるかもしれない。クッションを持ってごらん。今度は、私の指だ。手ざわりを比べてみなさい」
三、礼儀作法。
「おまえがペットとして扱われているあいだは、人前でのふるまい方を知っておいたほうがいい。何かをして、礼儀正しく見せたいときは――お辞儀をしなさい。深く頭を下げるほど、敬意を示すことになる」
✧✦✧
「おっ、新しいお人形さんと遊んでんのか?」
部屋に、フェリクスが入ってきた。少し後ろに、コイ。
「フェリクス王子、ご健勝で何よりです」ライターが頭を下げた。
その真似をした。
「もうカールの作法を仕込んだんですね」とコイが言った。
「噛みつかなきゃ、それでいい」とフェリクスが鼻で笑った。
彼は近づいてきて、あごをつかみ、顔をじろじろと眺めた。
「かわいいじゃないか。ご主人様に、いい依り代を作ってもらったな」
彼は一歩下がって、自分の顔のそばに二本の指を当てた――こめかみに角を立てるような仕草だ。
もう片方の手で、こちらを指さした。
「今日からおまえの名前は、ユキだ! ふるまいも、しゃべり方も、これからは全部カワイイで頼むぞ!」
『カワイイ? この長い生涯で、何十もの方言を聞いてきた。もう消えてしまったものまで。でも、「カワイイ」って何?』
あの仕草を、真似してみよう。
「こう……?」
「違う! もっとかわいく!」
『ついこのあいだ殺そうとしたくせに、今度は注文までつけてくるの?』
この思い上がった男をこの場で凍らせてやろうか――そんな考えが一瞬よぎり、それをかき消すように封印が痛んだ。
短く、鋭く、警告するように。
『わかった。もう一回やってみよう』
指を目のそばに当てた。片足を後ろに引いて、体を少し前に傾ける。
「こぉ?」
「それだ!」
彼は水色の髪をくしゃくしゃとなでた。
「それと、しゃべるときは面白い言葉をたくさん混ぜろ。多ければ多いほどいい」
「フェリクス王子、本気ですか?」コイが、おそるおそる聞いた。まるで目の前に、冗談で火をつけたばかりの火薬の樽でもあるかのように、こちらを横目で見ながら。
「もちろんだ!」
その2
フェリクスは変なモコだった。感じはいいけど、どこか頭のねじが一本外れている。
もっとも、そんなことはあまり気にならなかった。
ルダガンの、ライターの屋敷で暮らすことになった。
彼は読み書きと剣を教えてくれた。コイはときどき顔を出して、魔法を見てくれた。
練習相手は、たいてい魔王の手下だった――このあたりには、いくらでもいた。でも、それだけではなかった。
最初の何年かは、誰を凍らせているのか、ほとんど区別がついていなかった。
野生のパッキーも、知性あるモコも、たまたま通りかかった獣も――その違いは、ただの形式みたいなものに思えた。
どれも同じように固まって、同じように動かなくなる。
屋敷の奥の棟に小さな実験室をこしらえて、捕虜のダルグたちで魔法を試した――ライターが前線から山ほど連れてきたし、新しい術式を試す相手は、誰でもいいから必要だったから。
正々堂々とした決闘には、興味がなかった。相手が構えるのを待つ必要なんて、どこにある? 先に打てばいいのに。
それは名誉の問題じゃなく、ただの常識の問題だった。
ライターはそれを嫌がった。いらない残酷さだと言った。
フェリクスは逆に気に入っていて、「敵に気を抜かせない」と言って笑っていた。
戦いのないときは、魔法そのものを研究した。術を混ぜ合わせ、構造を変え、威力をいじった。まるで錬金術師みたいに。
そうしてある日、自分だけの冷たい炎が生まれた。
ライターはそれを、邪悪だと言った――彼に言わせれば、その炎は傷を負わせるよりも、痛みを与えるほうが大きかったから。
これ以上彼を悲しませないように、その炎の練習は、ひとりのときだけにすることにした。
✧✦✧
年月が過ぎた。
だんだん、ひとりで何でもできるようにならなければいけなかった。
ライターはほとんど家にいなくなり、いつも遠征に出ていた――魔王が、王国に休む暇を与えなかったのだ。
彼は屋敷と、あの四角い板の残響を残していってくれた。それは、HUDと呼ばれていた。
そのおかげで、魔法の発動を、特定の仕草や言葉に結びつけられるようになった。太ももを叩けば、召使いを呼ぶ。
指を鳴らせば、屋敷じゅうに明かりが灯る。そんな具合に。
HUDがなければ、仕草ひとつ身につけるのに、何年もの練習が必要だっただろう。
ときどき、太ももの封印がひとりでに弱まることがあった――一日か、二日だけ。理由はわからなかった。でも、察しはついた。
どこか遠くで、ライターが苦しい目にあっているのだ。
✧✦✧
ある秋の日、ルダガンでは、五年に一度の大会が開かれることになっていた。
誰でも今の領主に挑んで、その座を奪おうとすることができる。
今のオイミャコン卿は、二期連続を狙っていた――ルダガンの歴史で、そんなことは一度もなかった。
面白そう、と思って、出かけていった。
闘技場は、地底世界にあった。
「さあさあ、寄ってらっしゃい!」と、場の真ん中で、領主本人の隣に立った呼び込みが叫んでいた。「オイミャコン卿に力試しを挑みたい者はいるか!?」
群衆がどよめいて、これまでの勝負を口々に思い返していた。
闘技場のまわりには、今日生き残れなかった者たちの装備が転がっていた――他人の敗北の、ちょっとしたコレクションだ。
『おもしろそう』
「へへっ、領主二期目だ」と、領主は群衆に向かって自慢していた。「俺は、ルダガンの歴史に名を残すんだ!」
観客の列をかき分けていく気にはなれなかった――人ごみに肩をこすりつけたくはなかったから。いっそ飛び降りたほうが早い。
「強化。『嵐の跳躍』」
観客席から、領主の足もとへまっすぐ飛び降りた。
「なんだ、てめえは!?」領主が吠えた。「死にたくなけりゃ、とっとと失せろ!」
「今日なら誰でも領主に挑めるって聞いたの。だから来たの。挑むの」
「お嬢ちゃん、悪いことは言わない、自分を大事にしな」呼び込みが、ほとんど優しいくらいの目でこちらを見た。「見えないのか? もう何人倒れたと思ってる」
「なるほどなの。領主って、もっと勇気あると思ってたの。はぁ〜、今回は外れみたいなの」
スカートと、ヘアピンを直した。
領主が、剣を握り直した。
「ちっ、お天道様も見てたろうに。もっと長生きできたものを」
「領主様、どうか、お怒りにならないでください!」呼び込みがあわてた。
領主は剣先を、呼び込みのほうへ向けた。
「次の試合を告げろ。ガキの前で恥をかくなんざ、領主のすることじゃねえ」
呼び込みはあとずさり、魔法で声を大きくして、口上を始めた。
「さあ、続いては第三十七試合! 対戦するのは、四代目オイミャコン卿と……」彼は言いよどみ、小声でこちらを見た。「失礼、お嬢さん、お名前は?」
「ユキ」
「――そして、ユキ!」
群衆が、またどよめいた――ばかにするのではなく、むしろ心配そうに。ルダガンの民は、もともと気のいい人たちだ。
あきらかに、こちらの身を案じていた。
「俺は誰にも負けねえ!」と領主が叫んだ。
包帯の巻かれた口を手で隠して、あくびをした。
呼び込みが数えた。一、二、三――そして、試合開始を告げた。
「強化。『魔力の盾』! 強化。『水の怒り』!」
領主は、自分に何重にも強化を重ねていった。
『そのほうがいい。新しい術式の、いい試験になる』
手を前に突き出して、指をピストルの形にした。人さし指の先に、種のような、ちっぽけな粒ができはじめた。
持っている氷のすべてが、大きさを変えないまま一点に集まっていく――ただ、どんどん密に、どんどん密に。
「攻撃。『桜花』」
粒が指先から放たれて、領主の胸にまっすぐ入っていった。
あとはもう、ただ成り行きを眺めているだけだった。
魔力の氷の根が内側へ伸びて、肉にからみつき、途中で血を吸い上げては、すぐにそれを凍らせていく。
どこか奥のほうで、根は彼の炉にたどり着いた。
彼は、いなくなった――モコの体がみなそうであるように、跡形もなく消えた。
残ったのは、枝だけだった。
ついさっきまで彼が立っていた場所に、何もない宙から生えた枝――細い氷の若木で、枝先には紅い花が咲いていた。
『きれい。観客には、そう見えなかったかもしれないけど』
群衆に、ひとつの大きな恐怖のため息が広がった――あまりに大きくて、手で触れられそうなほどだった。
そのあと、五代目オイミャコン卿として、その名が告げられた。




