第30話 領主からの手紙
車輪の音は、くぐもって、少し遅れて聞こえてきた。
まず馬車が石畳にぶつかり、それから音が、ゆっくりと僕の頭まで届く。
まるで風呂桶の底に寝ている僕の横で、縁に沿って荷車を転がされているみたいだった。
『僕、どうなったんだ……?』
顔の感覚がなかった。頭はがんがんと鳴っていて、体の中の木琴は黙ったままだ――気を遣ってくれているのか、それとも、こいつも一緒に殴られたのか。
動きたくなかった。でも、考えることだけはできた。
『負けた……』
ハンデつきで。ユキは魔法を使わず、炉を頭に置いたまま、おまけに針まで自分から返してくれた。あれはボスじゃない。画面にヒントが出る、チュートリアルステージだ。
それなのに、僕はちゃんとゲームオーバー画面を見た。
『どこで間違えた? 僕は勝ってたはずなのに』
クリオは、投げる前に毎回、腕をぐるぐる回していた。僕はそれに気づいて、その腕に乗ったまま顔まで駆け上がった。
ケインは僧侶で、回復のたびに魔力を削られていた。だから僕は壊そうとせず、小さな傷をためつづけて、治すものがなくなるのを待った。
どっちの相手にも、抜け道があった。そして僕は、相手がふさぐ前に、そこへ潜り込んだ。
ユキの抜け道は、一分で見つかった。頭の中の炉。口だ。
僕は迂回路を思いついて、背中に回り込もうとした。すると、ユキは頭をくるりと百八十度回して、「おもしろいの」と言った。
おもしろい、か。
「痛っ」でも「よくもやったな」でもなかった。ユキは、僕の仕掛けがまだ働いている最中に、その仕組みをじっくり観察していたのだ。
つまり、小細工は、それを見たことのない相手にしか効かない。じゃあ、相手が最初から全部見えていたら? そんなやつに、どうやって勝つんだ?
答えは返ってこなかった。
あるのは、僕の顔と床のあいだに伸びる暗い糸だけで、それがまた、目の前にぶらりと垂れていた。
考えは、そこでぷつりと切れた。
誰かの手が、僕の胴体を横から抱え上げたのだ。外へ出す猫でも持つみたいに。
頭を動かそうとしたけど、目の前には染みがちらつくばかりで、顔も手も、形にならなかった。
扉が、ばたんと鳴った。冷気が脇腹を打った。
放り出された。
一瞬の浮遊のあと、背中が石畳にぶつかって、そのまま二メートルほど転がった。すぐ耳もとで、針がちりんと鳴った。
車輪がごろごろと遠ざかっていく。馬車は行ってしまった。
『捨てられた……? ただ、つまみ出されて、道に放り出された……?』
きぃ。
「おお、モン・プティ! いったい誰にやられたんだい!?」
視界がぐにゃりと揺れた。
玄関の上の蛍の光が、にじんで温かい染みになり、僕の上で揺れる緑の炎と混ざり合う――すきま風の中の幽霊みたいに。
そして、すべてが暗くなった。
✧✦✧
「それから、頭をつかまれて、顔を床に叩きつけられて。五回くらい、だったと思います。そのあとは、ぜんぶ霧の中で」
僕は口を閉ざして、カップを見つめた。お茶は冷めていた。
僕たちはルネの台所の、丸い緑のテーブルについていた。カップを置くと、テーブルがぐらりと揺れた。
魔力は、体に十分あった。僕が玄関で倒れているあいだに、ルネがポーションを飲ませてくれて、服の血は、あの虹色の泡で落としてくれた。窓辺には、まだ石けんの膜がきらきらと光っている。
どれだけ気を失っていたのかは、誰も測っていなかった。
チャウシーのことは、ユキが彼女を手もとに置いて、人形にしようとしている、というところまでしか話さなかった。
奴隷のことも、殺された主人のことも、胸にしまっておいた。あれはチャウシーの秘密だ。誰に打ち明けるかは、あの子自身が決めることだ。
誘拐の知らせを聞いたルネは、あごを開けて、閉じて、また開けて、箱を手もとに引き寄せた。
たぶん、これまで誰にも何かを盗まれたことがなくて、ふさわしい反応の持ち合わせがなかったのだろう。
おばあさんの荷物の箱は、同じ馬車で運ばれてきて、玄関の、僕の隣に置かれていた。へこみひとつなく、ていねいに。
領主は、客人より他人の持ち物のほうを、ずっと大事にしているらしい。
「ずいぶんあるじゃないか。小物まで……」
緑の石のついた指輪が、ルネの指のあいだをすべって、彼の胸郭の中へ消えた。続いて、ブローチも。
『チャウシーがさらわれたのにどう反応すればいいかわからなくて、人の持ち物をしまい込むことにしたのか?』
「残りは、あの人の息子に渡すよ」とルネはぼそりと言った。「あいつには、もううんざりなんだ」
テーブルの下では、ルッカが寝そべって、何も焦がさないやわらかな温かさで、僕の足を温めてくれていた。
扉の柱のそばには、ナエが立っていた。
僕が馬車から放り出されるより前に、家に戻っていたらしい。僕が目を覚ましてすぐ、一週間以上もどこにいたのかと聞くと、「古い知り合いのところだ」とだけ答えて、説明はそこで終わった。
言い返せることは何もなかった。パーティだからって、いつもくっついて歩く義務はないし、大人のモコなら誰だって、自分のことをする時間くらいある。
それでも、好奇心は消えなかった。
ナエはパイプをふかしながら、僕の頭の向こうの何もない空間を見ていた。
「つまり、領主と戦って、負けたってわけか」と彼は言った。「向こうが魔法をやめたのに。動きもゆっくりだったのに」
ゆっくり……。誰にとっての、だよ。
「……ふむ。おもしろいな」
チャウシーは今、領主の屋敷のどこかにいる。
領主は、あの子を所有している。あの子を好きにする、れっきとした権利がある。
『本当なら処刑ものだけど、許してあげるの』
許し?
僕は、ひびの入ったマネキンたちと、じゅうたんに落ちた指と、ユキが一緒に寝ていた人形のことを思い出した。木の割れる音。
これを、許しと呼ぶのか!?
そこにチャウシーを置いて想像してみた。あの耳、しっぽ、三角の瞳孔。
怒りと、嫌悪と、憎しみと、そんなことが本当にあるはずがないと信じたくない気持ちが、体の中で一度にごちゃまぜになった。
テーブルの上のマフラーがひとりでにねじれて縄みたいになり、その下で、カップがきしんで悲鳴を上げた。
「……僕には、あの人を殺せない……」
顔を上げないまま、そう言った。
「ん?」ナエがパイプを口から離した。
「でも、チャウシーを、あそこから連れ出さなきゃいけない」
声は、平らだった。平らすぎるくらいに――巨大な何かが吠えている扉を、必死で押さえつけている者の声だ。
「できればいいな」でも、「やってみる」でもない。「いけない」だった。
「だめだ」
「え!?」
僕はもう立ち上がっていた。いつ跳び起きたのかは覚えていない。椅子が、暖炉のほうまで吹っ飛んでいた。
「あれだけ手加減されても勝てなかったんだぞ」とナエは言った。「今行ったって、何も変わらねえ」
……そうだ。ナエの言うとおりだ。僕は、弱すぎる。
椅子は元の場所に戻った。僕もだ。
「じゃあ、どうしろって言うの?」
「力を合わせるんだ」
「ウィウィ、モン・プティ」ルネが箱のふたを閉めた。「ここにいる誰も、ひとりじゃどうにもならないよ」
彼は箱の下から、折りたたんだ新聞を取り出して、僕の前に置いた。
一面の見開きには、葉のない、骨ばった木が描かれていた。ただし、花は咲いている。
「これが、先代のオイミャコン卿の、残ったすべてさ。私はその戦いを見ていたんだ」
この木、何だ? 領主は、敵を木に変えるのか?
「あの魔女は、魔法で先代領主の体の中に氷の木を育てたんだ」とナエが言った。「で、その血が、枝の花になった」
魔女……。ぞっとする。
そのあだ名を聞くのは初めてだけど、言い返せない。ユキには、ぴったりだ。
「つまり、必要なのは、たくさんの炎ってことだ」と僕は言った。「それに、領主は、人形の体は温度の急な変化に弱いって言ってた」
「そのとおり。骨鉱は、そういうのに耐えられない」
「で、そんな強力な炎魔法使いを、どこで手に入れるんだい?」とルネが聞いた。
僕とナエは、黙ってテーブルの下を見た。
ルネも、僕たちの視線を追った。
「ノン! ノン、ノン、ノン! 本気かい!? あの子は強力で、しかも未熟なんだよ! 私の家が全部吹き飛んでしまう! 家どころか、ルダガンじゅうが!」
ルッカが、洗濯ばさみの頭を上げた。
全部聞いていて、ひとこと残らず理解していたのに、ひとつだけわからないことがあった。どうして急に、三人ともこっちを見ているんだろう。
「俺はルッカを信じてる」とナエが言った。「こいつが、俺たちの切り札になる」
彼は僕のほうを向いた。
「で、モ、お前はルネの知ってることを全部、身につけるんだ」
ナエはルネを見た。ルネは、借金の契約書にサインする人みたいな顔で、うなずいた。
「屋敷には、正面から攻め込む。つてには、俺が声をかける。お前ら二人は、とことん鍛えろ」
つて。たぶん、それが「古い知り合い」ってやつなんだろう。
ルネは、もう一度箱の中をのぞき込んで、底からピンク色の封筒を取り出した。
「ふむふむ、かわいらしいじゃないか」
封筒から小さな手紙を出して、声に出して読んだ。
「『わこち〜! これを読んでるってことは、ちゃんと箱の中身を確かめてくれたんだね。ポイって捨てなかったんだ、えらいの。十二日十二晩だけ、準備の時間をあげるの。その間に、ふわふわのお友だちを助けに来てね。それまでは、ユキがちゃんと大事にしてあげるから。ユキは、鬼じゃないの。愛をこめて♡ あなたたちの、いちばんやさしくて心の広いユキより』」
隅には、雪の結晶に似た印章が押されていた。
ナエは手紙をのぞき込んで、固まった。
「氷の魔女の印だ。ってことは、本物か……」
「十二日!?」ルネが両手を上げた。「たったそれだけで、私がモン・プティに何を教えられるっていうんだい!?」
第30.5話 マンホールの下
✦ 一週間前 ✦
朝早く、ルダガンの通りには薄い霧が立ちこめていた。塔の時計が六時を打ち、その音は、綿の中を通ったみたいに鈍く、屋根の上へ広がっていった。
ルネの家では、まだみんなが眠っていた。
ナエはリュックをまとめ、クロスボウを確かめてから、傘の先で台所の床をこつこつと叩いた。
暖炉のそばの温かい隅で、ルッカが身じろぎした。顔の洗濯ばさみがあくびの形に開いて、かちんと閉じる。
ルッカは、ブーツみたいな足で床板をこつこつと鳴らしながら歩いてきて、ナエの前に座った。
彼は片ひざをついて、ルッカの首筋をなでた。
「ルッカ、仕事で出かけてくる。三日かもしれないし、もっとかかるかもしれない。お前の仕事は、モを見てることだ。あいつに何も起きないようにな」
ルッカは、鼻先を彼の肩にこすりつけた。
「へっ。俺なら大丈夫だ。さみしがるなよ」
彼はルッカを抱きしめて、別れを告げた。
ルッカはいつもより長く我慢してから、前足でぽんと軽く彼をはたいた――形だけ、というふうに。
ナエは帽子を直して、家を出た。
✧✦✧
ナエは通りを歩いていった。傘で石畳を軽く突きながら。
店はまだ開いていなかった。パン屋からは焼きたてのパンの匂いが流れ、霧は彼の前で分かれて、背後でまた閉じた。
黒い屋根の地区は、最後の橋の向こうから始まっていた。
かたむいた家々、割れた窓――ところどころ板が打ちつけられている――は、住宅というより貧民窟に近かった。煙突の煙は、まばらで、力がなかった。
ナエは、通りより二メートルほど低くなった路地へ折れた。石の階段、足の下で砕ける煉瓦。雪は、ここではほとんど片づけられていない。
すべて、昔のままだった。懐かしいにもほどがある。
路地の突き当たりには、半分崩れた建物が立っていた。石のブロックのひとつに、白墨で四芒星が描いてある。
入口は、ここだ。
ブロックの裏には、雪をかぶった跳ね上げ戸があって、そのそばには、まっさらな白の上に足跡が続いていた。
ルーシーは、とうとう足跡の消し方を覚えなかったらしい。へっ。
彼は重い蓋を持ち上げた。その下にあったのは、ワッフル模様の入った、ふさがった金属の板だけだった。部屋も、階段もない。
ナエは金属板の上に立ち、傘でそれを叩いた。
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金属が震えた。下で歯車がかちかちと鳴り、板が下へ動きだす――昇降機の床だった。
縦穴はむき出しで、その中で巨大な機械が回っていた。
歯車は、手に入るところから寄せ集められていた。時計、風車、荷車。その中には、青くて、歯が花びらみたいな形をした歯車まで混じっていた。
壁のくぼみのろうそくが鈍い光を投げ、その小さな炎は、ナエに親しげに手を振っていた。
しゅぽぽぽぽ。
管から蒸気が噴き出して、昇降機はなめらかに止まった。
直ったのか? メルは今日、機嫌がいいらしい。
ナエが傘で床を打つと、昇降機は、もう彼を乗せないまま、上へ戻っていった。
彼は暗い廊下を進んだ。
突き当たりには、緑青を吹いた古い銅の扉があった。右手の、触手のついた帽子の形をした優雅な金メッキのフックに、小さなベルが掛かっている。
ナエは傘の先で、それに触れた。
ちりん。
シャッ。
扉の金属片がずれて、細い隙間から、鮮やかな緑色の目がひとつ、こちらをのぞいた。
「合言葉は?」
「かわいい葉」
シャッ。
隙間が閉じて、扉が開いた。
その向こうに立っていたのは、背の低い狐の魔法使いだった。
淡い紫の毛並み、長い袖の黒いマント、そして、緑の目がまばたきしている帽子。ついさっき隙間からのぞいていたのは、その目だった。
「ナエ、兄弟! やっほー!」
ルーシーは、友だちみたいに彼を抱きしめた。
「よう。へっ、跳ね上げ戸のまわり、ちゃんと掃除してねえだろ」
ルーシーは、袖をほどいた。
「あとで、ちゃんと消しとくよ〜」
彼女は横へ一歩どいて、彼を通した。
「さ、入って入って、あたしらの苗ちゃん。ヴェルのこと、全部聞かせてよ」
中には、酒場のような空間が広がっていた。
パイプ、鎖、タペストリー、そのほかのがらくたが、何層にも積み重なっていて、広間の本当の広さは見当もつかない。
酒場はいくつもの階に分かれていた。バルコニーや足場の上で、モコたちが飲んで、食べて、作戦を言い合っている。階と階のあいだには、ぴんと張った吊り橋が渡されていた。
「ヴェルのほうは、まあまあだ」とナエは言って、バルコニーの知り合いに手を振った。向こうはジョッキを掲げた。「王国のフクロウは片づけた。倉庫は安全だ。だが、地下の図書館で、俺と新しい連れが、『呪われた司書』に出くわした」
「クリオ!? 本気で言ってる!?」
ルーシーは吊り橋の真ん中で足を止めて、あごをさすった。
「待って……連れ? あんた、またパーティ組んだの!?」
近くのテーブルのモコたちが、しんと静まって、ナエを見つめた。
「あいつ、また始めたのか?」
「前のを殺して、今度は新しいのに手を出したのか」
「しーっ、聞こえるぞ」
何年たっても、ささやかれることは同じだ。
ナエはうつむいて、床を見つめた。
ルーシーは、袖で口を押さえた。
「ごめん!」と彼女はささやいて、彼の手をつかみ、酒場の奥へと引っぱっていった。
いくつかの吊り橋を渡って、分厚い布が垂れた小さな石のアーチにたどり着いた。
「あんたの好きなパイプの草、買ってあげるから、怒らないで!」とルーシーはささやいた。
「いや、なんともねえよ」
ルーシーは、不安そうに彼を見た。耳がしゅんと下がり、袖がきゅっと縮こまったけれど、彼女はうなずいた。
「そっか。みんなに会えなくて、さみしかったでしょ?」
「当たり前だろ。最後に会ったのは、五年ばかり前だ。任務のときだったな」
ルーシーの耳がぴんと立って、顔に、にやりと笑みが浮かんだ。
「いい時代だったよね、反乱軍の『苗』さん」
彼女は分厚い布を引き上げて、中へ入った。ナエも、あとに続いた。




