第26話 子守唄
その1
僕とチャウシーはソファに座っていた。向かいには、オイミャコン卿。
領主は足を組んでソファに腰かけ、開いた片方の目で、部屋を眺めていた。
『リリはどこだ!? なんでこんなに戻ってこないんだ!?』
まだ一分しかたっていないのに、沈黙はそれよりずっと長く続いているように感じた。
チャウシーは、領主から目を離さなかった。
『危ない人には見えない。なんか、想像してたのと違う……。少なくとも、キュロット姿とは思わなかった』
領主は天井の魔法のシャンデリアに目をやった。頭は下げないまま――ただ、僕のほうを見た。
「久しぶりなの」と、領主は言った。「見たところ、ルネとはもう会えたみたいなの」
『なんで今になって話しかけてくるんだ!? っていうか、僕たち知り合いだったっけ!?』
短い水色の髪、包帯を巻いた顔に、開いた片目、金属の関節。
『この人もマンケリだ。でも、リリとは違う。ってことは、ディーゼルを追いかけてた、あの人形だ』
『せめて「こんにちは」くらい言うべきか? でも、向こうだって挨拶なしで話しはじめたし』
「はい、見つかりました」と言って、僕は軽く頭を下げた。「あのときは、ありがとうございました」
「よかったの〜。で、どう? 何か教われた?」
『油断しちゃだめだ。この領主、あきらかに何か隠してる』
「まだ、何とも言えないです」と僕は答えた。「今ちょっと大変で――家を追い出されるかもしれないんです」
「ふーん。そういえば、ルネが住んでるおうちの相続のことで、今ちょっと揉めてるって聞いたの」
領主は話しながら手を振っていた――見えないオーケストラを前にした指揮者、そっくりに。
「よかったら、ユキにできることなら手伝うの」
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」僕はもう一度頭を下げた。
「おもしろい子なの。その歳にしちゃ、やけに礼儀正しいの。きゅるん」
『しまった』
領主はチャウシーに目を向けた。手のひらにあごをのせて、注意深い片目で、角の先からしっぽの先まで、じっくりと彼女を眺めた。
チャウシーが、かすかにうなった。
『あと少しで、この子、飛びかかる。なんとかして、領主の気をそらさないと』
「あの……」と僕は言いかけた。
「ミラーシカ」と、領主は平坦な声で言った。
チャウシーから、視線は外さないまま。
『今、何て言った!? なんかの呪文か!?』
割って入ろうとした僕のことなど、まるで目に入っていないみたいだった。
扉がきしんだ。
「あら、オイミャコン卿、もういらしてたんですね」リリが箱を抱えて応接室に入ってきた。
「あ、リリ! やっほーなの!」領主はだるそうに手を振った。「その箱、なぁに?」
「ミス・ナフテルの荷物です。お客さんたちに頼まれて」彼女は、僕とチャウシーのほうにうなずいた。
「あ、オッケーなの! じゃあ箱はここに置いといて。うちのお人形たちが、馬車に積んでくれるの」
領主は立ち上がって、肩のかばんを直し、自分の太ももを軽くぽんぽんと叩いた。
包帯の下で、一瞬、鮮やかなオレンジ色の光が灯った。
「で、でも……」と僕は言いかけた。
「心配いらないの、盗ったりしないから。手伝いたいだけなの。視察が終わったら、おうちまで送ってあげる。オッケー?」
『なんで、僕たちを手伝うんだ? ルダガンの領主の申し出を断ったら、機嫌を損ねるかもしれない。でも、チャウシーをこの人と同じ馬車に乗せたくない。さっきこの子をじろじろ見てたのが、まだ気になってる』
「僕たちは、たぶん……」と僕は言いかけた。
「……乗る、ファ」と、チャウシーがさえぎった。
『嫌じゃないのか?』
うなり声はやんでいたけど、顔はむすっとしたままだった。
『嫌なんだ。絶対、嫌なんだ』
領主はチャウシーの兜をぽんぽんと叩いて、廊下のほうへ歩きだした。
「じゃあ、無駄話はおしまい! 子どもたちのとこ、行こうなの!」
僕は、思わずあっけにとられた。
チャウシーの目が細くなり、その顔がゆがんだ――最大級の軽蔑なのか、怒りなのか、わからなかった。
『怖っ。僕に対してだって、ここまでじゃなかった。もしかしてこの子、僕の知らない何かを、この領主について知ってるのか?』
✧✦✧
その2
僕たちは、領主とリリのあとについて歩いていた。
後ろからは、ヴェルのギョウに似た木のマネキンが、ことことと足音を立ててついてくる――領主の召使いだ。
『人形の召使いって聞いたときは、領主本人とかリリみたいなのを想像してた。ってことは、ギョウもマンケリなんだ』
おかしなところは、別にあった。
召使いは首と、ひじと、腿の関節に包帯を巻いていて、顔のない頭には、細いひっかき傷がいくつも走っていた――まるで、爪でつけたみたいな。
『ここじゃ、これが普通なんだといいけど』
僕たちは、大きな木の扉の前まで来た。扉の向こうから、子どもたちの声と笑い声が聞こえてくる。
『……あの夢みたいだ』
僕は念のため、足もとを見た。
床は木だった。氷じゃない。
「なにしてんの、ファ?」とチャウシーが聞いた。
「なんでもない。ただの確認」
「は? ……まあ、いいけど、ファ」
「オイミャコン卿、どうぞ」リリが扉を開けた。
その向こうは広い部屋で、あちこちで子どもたちが走り回って遊んでいた。
「ユキおじさん!」
「ユキ!?」
「領主様が来た!」
子どもたちが、いっせいに領主に駆け寄った。
領主は片ひざをついた――金属の関節が、かちりと鳴った――そして両腕を広げて、何人もの子どもをまとめて抱きかかえた。
「おっほほ、さみしかった!?」
「あたりまえじゃん!」
「みんな、大きくなったの、えへへ。ちゃんとおいしいごはん、食べさせてもらってる?」
「うん!」
「すっごくおいしいの食べてる!」
「お茶に、お砂糖まで入れてもらえるようになったんだ!」
「えへへ、よかったの。砂糖とスパイスの納品の書類で、ひと晩じゅう頑張った甲斐があったの」
『スパイス? ってことは、あの蛾のじいさんは、領主の注文でここにスパイスを運んでるのか』
何人かの子どもたちが、僕たちのことも見に駆け寄ってきた。特に、チャウシーのまわりにたくさん集まった。
「クッキーのにおいがする!」
「見て、ふわっふわ!」
「すっげえ剣!」
チャウシーは、とまどったように子どもたちを見ていた。どうしていいかわからないのはあきらかだった。
剣を肩から下ろすことすらできない――向きを変えたとたん、誰かに当たるかもしれないから。
ひとりの子どもが僕に近づいてきて、帽子をじっと見つめた。
「これ、コイお姉ちゃんのバツ印だ!」
『コイお姉ちゃん? この子たち、あの子と知り合いなのか?』
「コイのこと、知ってるの?」と僕は聞いた。
「うん。ユキおじさんと一緒に、ときどき遊びに来てたよ」
『ただの知り合い? まあいい、馬車の中で聞こう』
その間にも、領主は子どもたちに囲まれて部屋じゅうを歩き回っていた――絵や、木の工作や、お気に入りのおもちゃを見せられながら。
チャウシーのほうも、だいたい同じことになっていた。
子どもたちの興味は、彼女の羽根の板、剣、小さな角、それにしっぽに集まっていた。
遊びの時間が終わると、お昼ごはんになった。子どもたちは食堂の二つの長いテーブルに並んで座った。
僕とチャウシーも席についた。
温かいスープとパンとおかゆの皿が運ばれてきた。飲み物はお茶だ。
『おいしい。子どもたち、嘘は言ってなかった』
領主はテーブルにはいなかった――台所と倉庫のほうへ行っていた。
『そりゃそうか。視察だもんな。子どもは子ども、仕事は仕事だ』
しばらくして、リリがぱんと手を打った。
「はい、お昼寝の時間です!」
子どもたちは一列になって、二階へ上がっていった。
僕とチャウシーのところに、領主がやってきた。
「子どもたちに子守唄を歌ってあげたら、出発できるの。なるべく早くするの」
『今、僕たちに報告した? この人、本当にルダガンの領主なのか?』
領主は返事を待たなかった。ひとりでうなずいて、チャウシーにウインクし、目のそばで二本の指を立てた――ピースサインだ。
『アニメ好きの女の子がよくやるやつだ。ちょっと面白い』
領主は行ってしまった。
「ぶるるっ! ムカつく、ファ!」チャウシーが身震いした――領主のあとに残っている本物の冷気のせいなのか、いらだちのせいなのか。
「悪い人じゃなさそうだけど」と僕は言った。「ちょっと変わってるけど、子どもたちには好かれてる」
「好きに思えば、ファ。でも、あとでさらわれても、泣きごと言わないでよ、ファ」
『うん、油断はしないほうがいい』
「二階に行って、あの人の子守唄を聞いてくる。ちょっと気になるし」
「ふんっ! 好きにすれば、ファ!」
彼女は剣を持ち直して、出口のほうへ歩いていった。
✧✦✧
僕は二階へ上がった。少し開いた扉の向こうから、歌声が聞こえてきた。
♪スニェーギ ビェールィエ ティーヒエ
♪スピャート リサー ザ アクノーム
♪スピー イ トゥィ ヂチャー ヴァ チミェー
♪ストゥージャ ブローヂト ザ ウグローム
床に、霜が走った。
『寒い』
♪ストゥージャ ブローヂト ストゥージャ ジュヂョート
♪トローネト ヴ リョート アヂェーネト
♪ノ パカー ガリート アチャーク
♪ニカヴォー ニ ザヂェーネト
『何が起きてる? なんで、立ってるのがこんなにつらいんだ?』
空中に、蛍みたいな、温かい光がふわふわと舞いはじめた。
『離れないと。今すぐ』
足が、言うことを聞かなかった。
♪イーニェイ ピェースニュ ナピヴァーエト
♪プラーミャ ティーハ フトーリト ヴ ラート
♪オーバ モーグト パグビーチ
♪オーバ ソーン トヴォイ スタラジャート
『動け……ほら……』
足は、完全にしびれてしまった。
♪ト ストゥージャ ト ジャール
♪クトー イフ ラズビリョート
♪ビェールィ スニェーク プーハム リャージェト
♪ア アチャーク チビャー サグリェーエト
『これは、魔法だ。呼ばないと……チャウシーを……』
目の前が、かすみはじめた。
♪バユー バーユシキ バユー
♪リョート イ プラーミャ ナ クラユー
♪バユー バーユシキ バユー
僕は、意識を失った。




