第22話 ファ
ルダガンの夜というのは、あってないようなものだ。
町は山の中にあって、今が朝なのか真夜中なのかを見分けるには、自分の体の疲れ具合に頼るしかない。
僕は結局眠れなかった――ただ屋根裏の天井を見上げたまま残りの時間を過ごして、同じ場面を何度も何度も頭の中で繰り返していた。
『よそ者、か。ある意味、間違ってはいない。そこは反論できない。盗み聞き? まあ、したと言えばした。厳密に言えば。じゃあ「ファ」って何だ? ルネみたいな、どこかの訛りか? あの子がルネとどう話すのか見てれば、そのうちわかるかもしれない。なんなら聞いてみればいい』
あのとき、あの子がどれだけ近くにいたかを思い出した。息づかい、ぬくもり、手の下の毛並み。
それに、匂い――バニラみたいな、温かい匂い。角としっぽのある生き物の匂いとして想像していたのとは、まるで違った。
『よし。もういい』
考えは、どう見ても何の役にも立たずに同じところをぐるぐる回っていた。
同じことを頭の中で転がしながら寝転がっているより、水でも飲みに行ったほうがましだと思った。
起き上がろうとしたところで、扉がノックもなしに勢いよく開いた。
ルッカだ。
ルッカは僕を見て、部屋の中へ二、三歩入ってくると、鼻をひくつかせた。
くんくん。
何かが気になったらしい。
ルッカは頭を床に下げて、見えない跡をたどるようにベッド沿いに歩き、僕の上に飛び乗って、今度はすぐそばで匂いを嗅いだ。
鼻先が、ズボンのあたりに押しつけられる。そこに、いちばんよその匂いが残っているらしい。
ルッカは低くうなって、すぐに脇腹を僕にこすりつけはじめた――しつこく、何度も何度も。
まるで、何か目に見えないものを消そうとしているみたいに。
『たぶん、僕からチャウシーの匂いがするんだ。ルッカの性格からすれば、この反応は当然か。自分の匂いで上書きしてるんだ』
数秒後、うなり声がやんだ。どうやら、任務は完了したらしい。
「えっと……ありがとう、って言えばいいのかな?」と、そもそもこういうことにお礼を言うべきなのかよくわからないまま、僕は言った。
ルッカは不満そうに鼻を鳴らし、床に飛び降りると、鼻を高く上げて出口へ向かい、別れの挨拶がわりにしっぽを振った。
『面白いな。ルッカとチャウシーって、どこか似てる。どっちも気が強い。どっちも、なんというか独占欲が強い。ケンカにならないといいけど』
ルッカはすぐに戻ってきた。戸口に立って、廊下のほうへ頭を振る――あきらかに「ついて来い」という合図だ。
「はいはい、今行く」
僕は針を手に取って、あとを追った。
✧✦✧
一階にはもう、どこにも明かりが灯っていた――ろうそくが静かに燃えていて、窓の外には相変わらず太陽の気配すらないのに、廊下はどこか本当に朝らしい、人の暮らしの気配をまとっていた。
台所では、丸いテーブルにルネが座っていた。
そのテーブルを、僕は今になってやっとよく見た――緑色に塗られていて、ふちがでこぼこしている。
まるで設計図どおりじゃなく、目分量で切り出したみたいに。
脚は三本とも形が違い、四本目はどうやら昔折れたらしく、今は巻きつけられた銅の棒でなんとか支えられていた。
『ここの家具は、どれもこれも歴史つきらしい』
ルネはゆったりとクロワッサンを食べ、薄いカップで紅茶を飲んでいた。
「おはよう、モン・プティ!」
「おはよう」と答えて、僕は向かいに座った。
ルッカは黙って暖炉のそばに陣取り、丸くなった。
「ナエは用事で出かけると言っていたよ」ルネがクロワッサンをちぎりながら言った。
「また? ここ何日か、しょっちゅう出かけてるんだ」
「どこへ行っているのか、きみは知らないのかい?」
「ううん。僕たち、そういうことはあんまり聞き合わないから」
『本当に、そうだ。ナエは一度も、僕がどこから来たのか聞いてこなかった。コイがどこへ行ったのかも。僕のほうも、どこかに長くとどまるたびに彼がどこへ出かけていくのか、聞いたことがない。僕は彼のことを、ほとんど何も知らないんだ。王都から来たテイマー。人の領域をまるで気にしない。それくらいだ』
「ブレフ」ルネは話題を払いのけるように手を振った。「朝っぱらからその話はよそう。ナエからもうひとつ聞いたよ。きみは本を読むのが好きで、文字まで自分で覚えたんだって?」
「まあ、そうだね。言葉がわかるようになってから、ほかのことにも少しずつ興味が出てきて」
「難しかったかい? それとも、ナエが手伝った?」
「そんなに難しくなかったよ。ナエなしで、なんとかなった」
言ってから、今の僕の見た目――小さな、子どもみたいな生き物――で、何週間かのうちに文字をまるごとひとりで覚えたというのは、ちょっと妙に聞こえるかもしれないと気づいた。
「あの、どうか、変に思わないで……」
最後まで言わせてもらえなかった。
「そういうことか」ルネはあごをかいた。「マニフィック! では、チャウシーの勉強はきみに任せよう」
「ちょ、ちょっと待って! なんで僕が!?」
体の中が、きゅっと縮こまった。チャウシーについて知っていることといえば、ルネ本人の言葉だけだ。
そしてその言葉は、どう聞いても「うちの子はいい子でね」という感じではなかった。
「剣の稽古なら、もう私がつけている」ルネはあきらかに芝居がかったため息をついた。「このうえ学問まで教えはじめたら、私に残るのは骨粉だけさ。心配しなくていい、前の家主の本はたっぷり残っている。ノートと筆記用具は今日買ってきたまえ――店はすぐ近くだ」
『本があるかどうかなんて、どうでもいいよ! 僕が気にしてるのは――なんで僕なのかってことだ!』
彼は少し間を置いた。
「魔力のポーションなら、この家のほとんどの壺に入っている。だから死にはしないよ。プテートル……」
『プテートルって何だ!? それで僕を葬るつもりなら、せめて日本語で言ってくれ!』
「でも、ムッシュ、まだ答えてもらってない……」
「きみ、紅茶はどうだい?」ルネがさえぎった。「影身は緑茶派だと聞いたけど」
『答える気すらないな』
僕は一瞬考えた。もしかしたら、これは試験なのかもしれない。
アニメでよくある、師匠がまず弟子に雑用ばかりさせて、それに耐えた者だけが本当の修行を許される、というやつだ。
修行はまず雑用から。
『よし。付き合ってやるか』
本当は緑茶のほうが好きだったけど、断るのは失礼に思えた。
「うん、大丈夫」
「では、自分でカップを取ってきたまえ。壁の棚のどこかにある」ルネは、木のビーズのすだれがかかった隣の通路のほうを手で示した。
✧✦✧
すだれの向こうの部屋は、台所と物置の中間みたいな場所だった――天板のついた戸棚、編みかごや形の違う土の壺が並んだ棚。
上には、緑の扉の吊り棚が掛かっていた――台所のあのテーブルと同じ色だけど、こっちはペンキがかなりはげている。
高すぎる。
「そこに踏み台がある!」すだれの向こうから、ルネの声がした。「気をつけて、脚が一本くっついていないから!」
見回すと、棚の陰の隅に、えんじ色の踏み台があった。
持ち上げたとたん、脚が一本、鈍い音を立てて外れ、タイルの床に落ちた。
『なるほど、これのことか』
僕は踏み台を組み直して戸棚のすぐそばに置き、片手で吊り棚のふちにつかまりながら、そっと上へ登った。
中には、形も大きさもさまざまな皿とカップが並んでいた。
僕の目は、灰色がかった青い木のカップに留まった――小ぶりで、ふちにていねいな彫り物が入っている。
『かわいい』
僕はマフラーの端でそれをすくい上げ、ぐらつく踏み台で足を踏み外さないよう、足もとを見ながら降りはじめた。
ビーズが、じゃらじゃらと鳴った。
「それ、私のカップ、ファ!」
僕は顔を上げた。
目の前に立っていたのは……小動物? まさにそう呼びたくなるような子だった。真っ赤な髪、鋼の兜。
その下からは、大きな猫の耳と、黒い縞の入った小さな白い角がふたつ突き出している――ダルグのいちばんの特徴だ。
肩とだぶだぶのズボンには、羽根の形をした、骨のような板が見えていた。
それが何層にも重なって、うろこの鎧のようになっている。
指の分かれていない、ふさふさの手――どちらの手にも、ふちに長い爪が並んでいる――を胸の前で組んでいた。
目は、そっぽを向いている。
「人の家に勝手に上がり込んで、人のカップ盗むとか、ふんっ!」
一瞬とまどったけど、すぐに気を取り直した。
『これが、あの子か。なんか、想像してたのと違う。こうして見ると、ちょっとかわいいくらいだ』
「きみ、誰にでもそんなふうに自己紹介するの?」と聞きながら、僕は思わず彼女のしっぽに見とれていた――細くて、先が鋭い三角形になっている。ほとんど悪魔みたいだ。
「じろじろ見るな、ファ!」
一撃は、僕が反応するより先に来た。僕は壁ぎわの穀物の山まで吹っ飛ばされた。
カップがマフラーから落ちかけて――僕はとっさにそれを受け止めた。
『なんで受け止めたんだ……? 木なんだから、床に落ちたって何ともなかったのに。まあいい、今はそれどころじゃない』
「なんでだよ!? もうちょっと優しくできないのか!?」
チャウシーがうなった。三角の瞳孔が、飛びかかる前の本物の猫みたいに細くなる。彼女は次の一撃のために腕を振り上げた。
僕は横をすり抜けようとした。
彼女が僕のマフラーの端を踏みつけて、床に押さえつけた――僕はどこにも逃げられず、ただぐいっと引っぱられて、その場にとどまった。
……。
短い爪が、肌をかすめた。
血が、タイルに飛び散った。
チャウシーは自分のカップを取り返し、それから自分の手を見た。爪に血がついている。
彼女は顔をしかめて、その血を僕のほうへ振り払った。
「こんな血、なめる気にもならない、ファ!」
彼女はくるりと背を向けて、カップを持ったまま行ってしまった。
顔の引っかき傷は、ほとんどすぐにふさがりはじめた――僕の体にとっては、いつものことだ――それでも僕はさらに数秒、タイルの上の血の染みを見つめて、今起きたことを飲み込もうとしていた。
『この子を、僕が教えるのか!? よし、よし。しっかりしろ。鈴の高校卒業だって手伝ったじゃないか。あいつだって相当な怠け者で、アニメばっかり観てた。考えてみれば、まるっきり僕に似てるな』
ルネが言っていた魔力のポーションのことを思い出した。一番近い棚に、小さな花瓶が置いてある。
匂いを嗅いでみると、ヴェルで食べた、魔力入りのリンゴと同じ匂いがした。
ひと口飲んだ。
『……これは、痛い日々になるな』
僕はマフラーで自分の頬をぺちぺちと叩いて、気持ちを引き締めようとした。
『めそめそするな。お前は二十五だぞ。相手はただのわがままな子どもだ。怖くないってところを見せてやれ。あの子の攻撃に合わせて、どっちが上か、わからせてやるんだ。あの子は力の言葉しかわからない――だったら、力を見せればいい。そうすれば、そのうち一目置くようになる』
僕は立ち上がって、体についた穀物を払った。
もう一度床の血を見て、それから、そこにこだわりたくなくて、無理やり目をそらした。
今度は、戸棚の扉から遠いほうのカップを選んだ。
『奥にあるカップのほうが、手が届きにくい。チャウシーは僕と同じくらいの背丈だから、たぶん、これはあの子のカップじゃない』
その理屈は、とりあえず安心するには十分なくらい、もっともらしく思えた。
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新しいカップを持って、僕は台所に戻った。ルネは相変わらず、丸い緑のテーブルに座っていた。
ルッカが僕に飛びついてきて、また匂いを嗅ぎ、低くうなった――どうやら、誰かが僕を殴ったのがまったく気に入らないらしい。
「怒るなって」僕はルッカの洗濯ばさみの頭をなでながら言った。「あの子とうまくやる方法、ちゃんと見つけるから」
ルッカはもう少しうなっていたけど、だんだん小さくなって、短くうなずいた。
「フフフ! 野心的だね、モン・プティ!」ルネがぱんと手を打った。「きみを信じているよ! この私でさえ、あの子とうまくやる方法は見つけられなかったんだ。でも、子どもには子どもが一番さ!」
さっき集めたばかりの自信が、一瞬で崩れ落ちた。




