第19話 微睡
荷車の車輪が、土の道の上で規則正しく、ほとんど眠りを誘うように鳴っていた。
カヴェンは一緒に来なかった――ヴェルで急に何か大事な用ができたらしいが、それについては何も話そうとしなかった。
出発の前、彼は僕の手に封筒と、角の欠けた小さな札を押しつけた。
「俺の師匠、ルネへの手紙だ。こっちの札は、俺がお前をよこしたって証だ。向こうにも、欠けたもう半分がある。割符みてえなもんだ」
僕は二つともかばんにしまって、それでこの件は頭の中で片づけた。
ナエはパンをひとかじりして、何かを思い出したように一瞬考え込んだ。
「おっ、そういや。前にルダガンに行ったとき、危うく素っ裸で放り出されるとこだった」
『素っ裸?』
「あったまろうと思って湯に入ったら、共同の湯じゃなくて、女湯だったんだよ。目が悪くて見分けがつかなくてな」
蛾のじいさんが、振り向きもせずに笑った。
「ほっほっほ。で、どうやって逃げたんじゃ?」
「雪の中をな。速く。とんでもなく速く」
ナエは自分の思い出に鼻で笑って、首を振った。
「なんだかんだ言って、いい所だぞ。山の中がまるごと暖かくて、ちょうど真ん中に湖がある。湯の魔力が濃くて、舌で味がわかるくらいだ。一回浸かったら、二日は眠くならなかった」
「わしは毎年秋に、あそこへ香辛料を運んどる」とじいさんが話を引き取った。「道はまあ、楽じゃないがのう」――彼は荷車のへりをぽんぽんと叩いた――「そのかわり、入口の通行税はほとんど取られん。よその町に比べりゃ、ずいぶん良心的なもんじゃ」
「だな」とナエがうなずいた。
「あの町の上に立つお方……一度、市場でじかに見かけたことがあってのう。人参を値切っとった。そこらの百姓みたいにな。偉ぶったところが、ちっともない」
じいさんは自分の考えにまた笑って、黙り込み、道の先を見つめた。
僕は口をはさまずに、黙って聞いていた。
『まあいいか。少なくとも、居心地のいい所ではあるらしい』
荷車の外の景色は、少しずつ変わっていった。
見慣れた草原とまばらな林が、深い針葉樹の森に変わっていく。
ここの樅の木はヴェルのあたりよりずっと高く、ぎっしりと立ち並んでいて、幹と幹のあいだには、ときどき大きな岩がのぞいていた。
岩の表面には、風化したのか、わざと彫られたのかわからない、不思議な模様が浮かんでいる。
『どうやら、難易度の二段階目に来たらしい』
思わず、あるサバイバルゲームを思い出した。
明るい最初のエリアのあとに、ちょうどこんな森が始まるのだ――もっと暗くて、もっと深くて、もっと危ない森が。
『棍棒持った青い巨人だけは、勘弁してほしい』
その考えが自分でもちょっとおかしくて、僕はそれを胸のうちにしまっておいた。
「あとどれくらい?」と僕は聞いた。
「五時間ってとこだ」ナエは振り向きもせずに答えた。
『五時間』
『つまり、娯楽は外の景色だけってことか』
僕はため息をついて、荷車の床に横になり、毛布の代わりにマフラーをかけた。ルッカがすぐに寄ってきて、隣で丸くなった。
自分のぬくもりが僕に届くように。
目は、思っていたよりずっと早く閉じた。
✧✦✧
目を覚ますと、知らない部屋にいた。
大きくて、やわらかいベッド。まわりは暗く、窓から差し込むかすかな光だけがそれを薄めていた。
あまりにぼんやりした光で、どこから来ているのかもわからない。
『ここ、どこだ?』
家の奥から、声が聞こえてきた。遠くて、くぐもっていて、ほとんど聞き取れない。
僕は起き上がって、廊下に出た。
声は少しだけはっきりした――言葉が聞き取れるほどじゃないけど、どちらから聞こえるのかがわかるくらいには。
僕はそっちへ歩いていった。
廊下は居間に通じていた。その先には、さっきまで寝ていた部屋によく似た寝室。さらにその先には、高い本棚の並んだ書斎。
それからまた居間――家具の配置がちょっと違うだけで、最初の居間とほとんど見分けがつかない。
僕は歩きつづけた。
屋敷は、終わらなかった。
新しい部屋に入るたびに次の部屋へ続き、その部屋がまた次の部屋へ続く。
変わるのは細かいところだけだった――絨毯が違ったり、肘掛け椅子の並びが違ったり、窓辺に新しい花瓶があったり。
けれど空間そのものの感じは変わらなかった――まるで家全体が、同じ調子で、どこまでも静かに呼吸しているみたいに。
壁という壁に、絵が掛かっていた。
僕はそれを見ようとした。
視界の端では、何かがとらえられる――人影、影、色のかけら。
でも、まっすぐ見たとたん、絵はすっと遠ざかり、濁った氷の層の下に沈んでしまう。その向こうは、何ひとつ見分けられなかった。
僕は歩きつづけた。
声は、だんだんはっきりしてきた。
そしてとうとう、声がひとつの旋律になった。
♪スニェーギ ビェールィエ ティーヒエ
♪スピャート リサー ザ アクノーム
♪スピー イ トゥィ ヂチャー ヴァ チミェー
♪ストゥージャ ブローヂト ザ ウグローム
『……何語だ?』
知らない言葉だった。一語もわからない。なのに、なぜか耳の奥にやわらかく残った。
僕は、また次の扉を押した。
歌声が大きくなった。
♪ストゥージャ ブローヂト ストゥージャ ジュヂョート
♪トローネト ヴ リョート アヂェーネト
♪ノ パカー ガリート アチャーク
♪ニカヴォー ニ ザヂェーネト
扉の向こうは、もう屋敷ではなかった。
振り返ると、後ろにも森が広がっていた。雪に覆われた、静かな森。ついさっき出てきたはずの屋敷は、影も形もない。
扉もなかった。今くぐった扉も、ほかのどんな扉も。
僕は少しのあいだ立ち尽くして、何が起きているのか考えようとした。でも考えは何にも引っかからずに、するりと滑り落ちていく。
遠くで光がきらめいたので、僕はそっちへ歩きだした。
足もとで、雪がさくさくと、心地よくやわらかい音を立てた。
♪イーニェイ ピェースニュ ナピヴァーエト
♪プラーミャ ティーハ フトーリト ヴ ラート
♪オーバ モーグト パグビーチ
♪オーバ ソーン トヴォイ スタラジャート
歌声に導かれるまま、僕は幹と幹のあいだを、雪の吹きだまりのあいだを進んでいった。
♪ト ストゥージャ ト ジャール
♪クトー イフ ラズビリョート
♪ビェールィ スニェーク プーハム リャージェト
♪ア アチャーク チビャー サグリェーエト
森が終わった。目の前には、凍った湖の岩だらけの岸が広がっていた。そして湖のちょうど真ん中に、扉がひとつだけ立っていた。
氷の上に、じかに。壁もなく、まわりに家もなく。
僕はそこへ向かった。
一歩ごとに、雪がさくさくと鳴った。
歌声は、もうすぐそこにあった――この扉の、すぐ向こうに。でも、それはもうひとつの声じゃなかった。
たくさんの、子どもたちの声だった。いくつもの声がからみ合って、同じひとつの旋律を歌っていた。
♪バユー バーユシキ バユー
♪リョート イ プラーミャ ナ クラユー
僕は取っ手に手を伸ばした。
……。
足もとの氷が、耳をつんざく轟音とともに割れた。
僕は水の中へ落ちた。
冷たさが、一瞬で四方八方から僕を包み込んだ。上の光がみるみる遠ざかっていき、僕はどんどん沈んでいった。
もっと深く、水面からもっと遠くへ。
冷たさは、少しずつ冷たさではなくなっていった。
それは熱に変わった――焼けつくような、耐えがたい熱に。まるで氷の水じゃなく、溶けた金属の中へ沈んでいくみたいに。
熱はどんどん強くなった。
僕は、ぱっと目を開けた。
✧✦✧
ルッカがしっぽで僕を包み込み、いつもよりずっとぴったりと体を寄せていた――まるで、内側から僕を温めようとしているみたいに。
ナエは隣に座って、僕のほうを見もせずに、手際よくクロスボウの仕掛けを確かめていた。
「起きたか、寝坊助。道中ずっと寝てたな」
僕は数秒黙って、我に返ろうとした。夢はまだ意識の端にしがみついていた――温かくて、同時にぞっとするような。
凍える外に置き忘れた、一杯の紅茶みたいに。
「どれくらい寝てた?」
「五時間ってとこだ。面白い形の岩を見逃したぞ。形が、その……ゴホン、とにかく面白い岩だ。それより、外を見てみろ」
僕は荷車から顔を出した。
前方に、山がそびえていた――巨大な、雪をかぶった山だ。その斜面に、広いトンネルが口を開けて、まっすぐ山の中へ続いている。
道の両側には、黄色い旗がずらりと掲げられていた。どの旗にも、鎖に巻かれた犬の頭骨が描かれている。
蛾のじいさんが前を見て、言った。
「もうすぐ着くぞ」
少し黙ってから、続けた。
「ブローチを出しとけ。入口で改めがある」
僕は自分のを取り出して、もう一度、前方のトンネルの暗い口を見つめた。
荷車は、ルダガンへ向かって転がりつづけた。




