第1話 変化と最初の試練
その1
『これって、ただのボロ布だよな? 答えてくれよ、運営』
誰も答えなかった。そこで僕は、興味本位でその布に触れてみた。すると……
『え。ちょっ、どこ行くの!?』
布は掃除機にでも吸われたみたいに、僕の体の中へ吸い込まれた。一気に不安が跳ね上がり、続けて妙な感覚がやってきた。
体全体がびくっと引っ張られて、上へ伸びた――急に視線が高くなったから、たぶんそういうことだ。
布は勢いよく外へ飛び出すと、傘みたいに僕の上で広がって、ふわりと降りてきた。頭にも、もうひとつ布が触れた感触があった。
でも、何が起きたのかはまだまったくわからなかった。
『水たまりだ!』
そうだ。水面に映せば答えがわかる。僕はすぐにそっちへ急いだ。
✧✦✧
水たまりでは、面白いサプライズが待っていた。
黒いスライムは相変わらずそこにいた。でも今は、なんだか簡単な体がついている。足? 足と呼ぶにはちょっと無理がある。
どちらかといえば小さな突起だ。少なくとも、もう形のないシミには見えなかった。
『でもやっぱり、まだスライムっぽいよな。ちょっとだけ服を着たスライム、みたいな……』
僕はなんとなく、自分の体をもっとよく見ようとした。そして、すぐにあまり嬉しくないことに気づいた。
『……は? 手はどこ?』
手がなかった。
肩もない。首も、どうやらない。
マントの下には、余計なものは何ひとつないらしい。
『スライムなんだから、イメージすれば生えてくるとか?』
目を閉じて、体から黒い突起がゆっくり伸びて、手になっていくところを想像した。
マントの下で、確かに何かが動いた。
『そんな簡単に!?』
違った。手は結局生えてこなかった。もう一度動かしてみて、そこでやっと、動いているのは想像していたものじゃないと気づいた。
片手でマントの端を持ち上げようとして、すぐに自分の勘違いに気づいた。
手はない。
なのに、布の端が持ち上がった。
『ちょっと待って……今の、どうやったんだ?』
もう一度〝手〟を動かしてみる。マントの端が言うことを聞いた。
もう一回。
できた。
何度か続けて動かしてみるうちに、だんだんわかってきた。この布は、手とほとんど同じように、考えたとおりに動いてくれる。
『どうやらシステムは、まだ手を支給してくれないらしい。代わりにこのマントを押しつけてきたってわけか。じゃあ、これが依り代ってこと?』
少なくとも、頭の中の声は静かになった。もしかしたら、手が解放されるにはまだレベルが低すぎるのかもしれない。
(手のない者、お菓子食うべからず、ってか。へへっ)
僕はしばらくマントで遊んでみた。
両端を持ち上げて翼みたいにぱたぱたさせたり、中二病みたいな決めポーズをとってみたり、最後には頭からつま先までくるまってみたり。
なかなか居心地がよかった。
✧✦✧
ひととおり遊んで、手がないこともなんとか受け入れたところで、布を見つけた場所に戻ってみることにした。
まだ何かあるかもしれない。
『なんだこれ? アーティファクト? もしかして、システムにアクセスできるアイテムとか?』
布があった場所には、確かに紐のついた小さな木の札が残っていた。札には、文字がひとつ彫られている。ぱっと見は漢字だ。
『力? ……いや、なんか微妙に違う』
どれだけ札をひっくり返して眺めても、この文字が何を意味するのか、さっぱりわからなかった。
紐がついているから、首にかけられるんじゃないか。そう思って、実際にかけてみた。(ほかに何すると思った?)
何も起きなかった。
『コマンドを唱えなきゃいけないとか?』
『インターフェース』
少し待ってみた。
何もない。
『ステータスオープン!』
何もない。
『メニュー』
これもだめ。
僕は少し黙った。
『ジャーヴィス』
静寂。
『……フライデー?』
彼女にまで無視された。
『女神もいなければ、ステータス画面もなし。予算ケチったのか?』
『まあいいや。持っていこう。あとで役に立つかもしれないし』
その2
『あんた、誰だ?』
もう少しうろついていると、部屋の隅に座り込んだ誰かの亡骸を見つけた。頭はなかった。よく見ると、骨すらない。
まるで死んだあと体だけが消えて、装備だけが残ったみたいだった。でも、ひとつだけ確かに言えることがある。
武器のセンスがいい。短くて幅の広い刃が、二振り。気の毒に、この人はきっと豪快な剣士だったんだろう。
二本の剣の鍔には、どちらにも同じ小さな印が刻まれていた。四つの角を持つ星――四芒星。
『……ゲームのアイコンと、同じ星?』
一瞬だけ、引っかかった。でも、たぶん偶然だ。星の形なんて、どこにでもある。
『気になるな。僕が小さいのか、それともここのものが全部巨大なのか』
ホトケさんのブーツの横に立ったとき、ふとそんな考えが浮かんだ。僕は五歳の子どもくらいの大きさだった。
ブーツが胸のあたりまである。
装備に見とれていると、遠くで何かオレンジ色のものがちらりと動いた。
何なのか見極める前に消えてしまったけど、ひとつだけはっきりしている。僕の変な動きは、ばっちり見られていた。
『やばっ……ここの雑魚モンスター、危なくないといいけど。セーブデータは一万時間。ってことは、キャラもそれなりにタフなはずだよな』
オレンジ色の何かが飛んでいった方へ二、三歩進んだところで、あまり心強くない疑問を思い出した。
待って。メトロイドヴァニアって、そもそも何だ? もしかして、海外のかわいくてのんびりしたRPGのジャンルとか?
そうだといいんだけど……
✧✦✧
その疑問を抱えたまま、僕は生き物が消えていった半開きの扉へ向かった。
扉の向こうには、石造りの狭いダンジョンの通路、お宝がぎっしり詰まった宝箱、そして僕の名を讃えるゴブリンたちがいた。
素晴らしい。
……なんてことはなかった。
そんなものは何ひとつない。扉の向こうには、まったく別の世界が広がっていた。
天井ははるか上へ伸びて闇に溶け、崩れた石壁が左右に続いている。
そのあいだには、相変わらず苔やシダ、見たことのない植物が生えていた。
遠くでは細い枝の先に小さな光る玉が灯り、空中を白い花びらがゆっくり舞っている。
石と緑とやわらかな光がどこまでも続いていて、もう〝ただの隣の部屋〟なんて呼べる場所じゃなかった。
『綺麗だ。ここの食べ物事情はどうなってるんだろう』
数秒のあいだ、僕はただ立ち尽くして、あたりを眺めていた。
すると、前方でまたオレンジ色の影がちらついた。
『あ、そうだった』
僕はそれを追った。生き物は植物のあいだをすり抜け、石の足場の端の向こうへ消えた。
✧✦✧
目の前は崖だった。そんなに深くはない――底は見えている――けど、その眺めはまったく気に入らなかった。
下には太い根がびっしりと絡み合い、そのいくつかからは、金属みたいに光る長く鋭いトゲが突き出している。
一部の根はまた上へ伸びていて、その何本かの上に平らな石板が乗っていた。回り道はなさそうだ。
根は左右どちらにも続いていて、闇の中へ消えている。
『つまり、石板を渡るしかないってことか……。アクションゲームの足場ジャンプ、大っ嫌いなんだよな』
もう一度下を見た。底はすぐそこだ。二メートルもない。
『でも、トゲが……』
そのとき、あのオレンジ色の生き物がまた現れた。向こう岸で、茂みの実をのんびりと食べている。
『きれいで、鮮やかで、甘い匂いがして……』
はっきりわかった。僕はお腹が空いている。そこに意識が向いたとたん、空腹は一気に強くなった。
最初に感じた、依り代への渇きと少し似ている。
『もしかして、この空腹がストーリーを進めさせてるのか? だとしたら、プレイヤーをじっとさせないための面白い仕掛けだ。つまり、ここは……パ、パルクールで越えるしかないってことか』
二、三歩助走をつけて、踏み切った。跳んだ瞬間、やりすぎたとわかった。
体は思っていたより高く、遠くまで飛んで、石板のぎりぎり端に着地した。片足が滑り、僕はとっさにマントを振った。
布の端が岩の出っ張りに引っかかって、僕を引き戻してくれた。なんとか踏ん張ってから、ようやく下を見た。
『ああもう……なんで物理の授業で寝てたんだろ……』
次のいくつかの石板は、そこまで難しくなかった。ひとつは幅が狭く、ひとつは傾いていて、三つ目はほとんど根に覆われていた。
毎回まず距離を目測してから跳び、なるべく下は見ないようにした。うまくいくこともあれば、足が端まで滑ることもあった。
そんなときは、またマントが助けてくれた。
『怖くない』
次の石板を見る。
『全然、怖くない……』
その次の石板で、とうとうミスをした。横向きに着地して足が滑り、体ごと下へ落ちかけた。
とっさにマントを振って、突き出た根に引っかけてぶら下がる。数秒間、何も考えられなかった。
それから石板の上へよじ登り、べたっと大の字になった。
「……」
温かくて、とろりとしたものが頬を伝った。マントの端で顔をぬぐうと、白いしずくがついていた。
『僕、泣いてる?』
どうやらそうらしい。急いでぬぐって、濡れた布の端を見つめた。
『……最高かよ』
震えがおさまるまで少し座ってから、もう一度前を見た。これで少なくとも、跳んだときの自分の体の感覚がわかってきた。
見た目より軽いし、体全体で動けばバランスもとりやすい。マントも役に立つ。手の代わりとまではいかないけど、十分使える。
それからいくつかの石板を、今度は一度も落ちずに跳び越えて、ようやく向こう岸にたどり着いた。
石の床に寝転がって、しばらくただ上を見ていた。
『やった……』
あたりを見回す。
『宝箱なし。光る魔法陣なし。【おめでとう!】の文字もなし。セーブポイントすらない』
空腹がまた強くなってきた。ここでのんびりしている暇はない。それに、オレンジ色の生き物はもう先へ行ってしまった。
『よし。お前がいったい何なのか、確かめさせてもらうよ』
✧✦✧
ヴェルから遠く離れたどこかで、時計が真夜中を告げた。
23:59:59 → 00:00:00
執務室には、ランプがひとつだけ灯っていた。黒く骨ばった手が、次の報告書をめくる。
『南方。ダルグが村を二つ荒らした。生存者なし』
次の紙。
『ルダガン。奴隷商人が、自らの奴隷の手にかかり死亡』
次。
『ヴェル。祭りの準備、進行中』
手は、束の中の空いた場所で止まった。クリオからの報告は、なかった。
また、だ。
「愚か者め」と、闇の中の声が言った。静かに、怒りもなく――事実を確かめるように。「無責任な男だ。自分の過ちをすべてこちらに押しつけて、逃げ出した。最後の最後まで、後始末だけを残していった」
それは、クリオのことではなかった。
手が羽根ペンを取り、申請書に署名した。『宮廷の毒の使用を許可する』。短い一筆。紙は、承認済みの束に重ねられた。
机の上の闇に、一瞬、赤い光がよぎった。
「……まあいい。もうすぐだ。もうすぐ、魔王をこの世に呼び戻す」
少しの間。
「あれがいた頃のほうが、よほど安定していた」
ポン。
小さく、ほとんど礼儀正しいほどの音。魔法の通知音だった。
机の上に、半透明の一行が浮かび上がった。
【Felix がセッションに参加しました】
文字はかすかに揺らいでいた。原本から写し取られたものが、いつもそうであるように。
手が、止まった。
「……何?」




