第17話 秋
ヴェルの新しい朝は、窓の外の真っ赤な葉とともに訪れた。
秋は少しずつ、ほとんど気づかないうちにやってきて、今はそのまっただ中にあった――通り沿いの木々は深い紅に染まり、朝の空気は湿った落ち葉と、冬の最初の冷たさの匂いがした。
『ってことは、僕がここに来たのは夏の終わりだったのか。残念。海、見たかったな』
僕は台所のテーブルについて、リンゴをかじりながら、同時に手紙の次の一行を書いていた。
五日前の僕は、まだまったく違う姿をしていた。
✧✦✧
このあいだ、僕は主に文字の勉強をしていた。思ったより、うまくいった――ここの言葉の構造は、驚くほど日本語に似ていたのだ。
文字そのものはまったく違う。
でも書き方の原理、考えの並べ方、文の組み立ての理屈――そういうものが、妙になじみ深く感じられた。
ただ、書き言葉は大陸の端と端でずいぶん違っていた。
南では、短く簡略化した形が使われていた――何世紀にもわたるダルグとの戦いが、いちばん大事なことだけを書き留める習慣を人々に植えつけたのだ。
言葉の正確さは二の次。ひとつの言葉がいくつものことを意味し、意味は文脈から読み取る。
北はその逆だった。
魔法アカデミーがあり、教養のある人が多く住んでいて、書き言葉は正確で、きっちり整えられ、ほとんど学術的だった。
もっとも、北の地方でも、ふつうの鉱夫や狩人たちのあいだには、それなりに独自の略し方があったけれど。
『方言みたいだ。書き言葉の』
それと並行して、僕はようやく自分の体のことも理解した。
最初の洞窟でスライムとして目覚めたばかりのころ、僕は頭の中で、依り代を探せという、しつこい要求を聞いていた。
あのときは、骨も肉もない体になんでそんなものが必要なのかわからなくて、腹を立てていた。
答えは、この上なく単純だった。形のない影身は、ただのシミにすぎない。
服、布、外側にあるどんな構造でも、それが体を床に流れ出さないようにつなぎとめてくれるのだ。
包帯は、そのためには古いマントよりもずっとよく合った。
何層にも巻きつけて、僕は本物の手と足のようなものを作り上げた――完璧じゃないけど、ちゃんと使える。指が動く。
ものをしっかりつかめる。歩くことは、操作しながら滑っていく動きから、ふつうの一歩一歩に変わった。
古いマントも、とんがり帽子も、文字の彫られた木の札も、過去のものになった。
フェリクスのマフラーはときどき手の代わりに使っているけど、本物の指を使うほうが、やっぱりずっと気持ちがいい。
ギルドへの借金がようやく片づくと、残ったお金で、僕はシンプルな上着と、ズボンと、とんがり帽子の代わりにふつうのニット帽と、バツ印の形をした小さなヘアピンを買った。
帽子につけたヘアピンは、コイを思い出させた。
――二人とも。
それから、予備の包帯。
そして、荷馬車のおじいさんが教えてくれた声の店で、僕はついに本物の声を買った。
音を出すのに必要なものがすべて中に詰まった、小さな箱だ。僕が選んだのは木琴だった。
値段は安かったけど、音域は、自由に話すのに十分だった。
鈴は、今も僕の体の中にある。話すのには、もう使っていないけれど。
鎧と兜のことも考えたけど、ナエに止められた。
「本気で戦士になるって決めたんなら」彼はそのとき、鎧の並んだ棚を、まるで初めて見るみたいにじろじろ眺めながら言った。「いつかケルドの職人に、一式オーダーメイドで作ってもらうほうがいい。ほかのクラスでも同じだ。専門ってのは、安いもんを手当たり次第つかむことじゃねえ。前に、ジンクスの話をしたの覚えてるか?」
「うん、聞いたね」
「ああ。そいつだ。昔のパーティーにいた男でな。三年かけて、板金鎧のために金を貯めたんだ。本物だぞ、市場のガラクタじゃなく。貯めて、鍛冶屋に注文して、全部ちゃんとやった」
「それで?」
「半年着て、わかったんだと――自分には向いてねえって。リーパーのほうが面白そうだってな」
「その鎧は、どうなったの?」
「売った。二束三文でな――特定のモコに合わせて作ったもんだから、転売が難しいんだ。で、新しい大鎌を注文したら、古い鎧より安くはならなかった」
ナエは肩をすくめた。
「それで半年、金なしで過ごした。そのかわり、大鎌は手に入った。それで幸せそうだったよ」
針は手もとに残すことにした。もう慣れていたし、今さら武器を作り直す意味もなかった。
コンテストのあと、カヴェンが友達として研いでやろうと言ってくれたので、僕はお願いした。
ついでに彼は、いつか都合がついたら一族のところへ遊びに来いと誘ってくれた。
✧✦✧
僕は手紙の最後の一行を書き終えて、全体を読み返した。
コイへ。
この手紙がちゃんと届くかどうかわからないけど、配達人たちは、これよりもっと難しい仕事だってこなしてるって言ってた。
コンテストから何日かたって、書いてます。
僕は元気だよ。傷はとっくにふさがった。きみが置いていってくれたポーション、すごくよく効いた。
ナエと最後まで残って、なんと優勝したんだ――賞品にフェリクスのマフラーをもらったよ。信じられる?
文字の勉強を始めた。思ったより、うまくいってる――ここの言葉の構造が、前に知ってた言葉に不思議なくらい似てるんだ。
もうすぐ、鉄級の試験を受ける。
ありがとうって言いたかった。ポーションのこと。針に使う毒のこと。たぶん、全部のこと。
もしいつか、またヴェルに来ることがあったら――それか、僕が王都まで行けたら――一緒に街を歩きたい。前に話したみたいに。
モより
僕は最後の一行のところで固まった。
『一緒に街を歩きたい……これ、完全にデートの誘いじゃないか』
もう一度読み返した。本当に、そう読めた。
『書き直す?』
手紙はほとんど仕上がっていたし、一行のために新しい紙を買うのはばかばかしく思えた。
『まあいいや。これでいい』
そのとき、ルッカが近づいてきて、鼻先を僕の手に押しつけた。
僕は、ルッカの洗濯ばさみの耳のあいだをなでた。
ルッカはされるがままになっていた――ここ数日、二人きりのときは目に見えてやわらかくなってきていた。
でも人前では相変わらず、気位の高いつんとした態度を崩さなかった。
僕は手紙を封筒に入れて封をし、かばんにしまった。
ギィ。
扉がノックもなしに開いた。ナエにとって、他人の領域というのは、特に神聖なものではなかった。
「今日は俺ひとりで行く。薬草を採りにな」と彼は言って、もうリュックをまとめていた。「街にうんざりした。息抜きついでに、ひと仕事だ」
彼はルッカの前にしゃがみ込み、洗濯ばさみをわしゃわしゃとなで、ポケットからひとつかみのベリーを取り出した。
「いい子にしてろよ」
ルッカは火花まじりに鼻を鳴らしたが、ベリーは受け取った。
ナエは出ていった。
✧✦✧
僕とルッカは、少しあとで家を出た。
通りでは、もうほとんど注目されなくなっていた――一週間で、ヴェルの人たちは変わった二人組にすっかり慣れてしまい、僕たちはもう、いつもの街の風景の一部になっていた。
途中で、見覚えのあるパン屋の前を通りかかった。
『あの店だ』
かばんの中をのぞく。お金は、十分すぎるくらいあった。
僕は中に入った。
カウンターの向こうには、あのときと同じ売り子が立っていた――ロウでできた体に、頭の代わりに小さな炎。
彼女は丁寧にうなずいた。
僕は品ぞろえを眺めて、結局、変わった中身のパンを選んだ――味はアーモンドに似ているのに、食感はなぜか鳥の羽根を思わせる――それと、ここの木の実で作った、どこかココアに似た飲み物。
代金を払った。それから、上にもう何枚か硬貨を足した。
「あら。すみません、お金をお忘れですよ」
売り子は、余分な分にすぐ気づいた。
『ああ、黙って受け取ってくれると思ったのに。なんて答えればいい? 泥棒みたいに見られたくはないし。ワッフル泥棒の小さな影身、なんて噂が立ったら困る。ちょっと嘘をつこう』
「前に、友達が……ここのワッフルのことで、ちょっと」と、僕は彼女と目を合わせないようにして言った。「だから、代わりに……払おうと思って」
彼女は何も聞かなかった。ただ、お金を受け取った。
僕とルッカは店を出て、パンと飲み物をかわるがわる味わいながら歩いていった。
僕はパンをひとかけ割ってルッカにやり、水筒から少し飲ませた。
庭の落ち葉を掃いている住人たちの横を通り過ぎた。
軽い風が吹いて、落ち葉の一部が地面から舞い上がった――そのうちのいくつかは、ただの突風にしてはなめらかすぎる動きで、まるで蝶のように宙をくるくると舞っていた。
『一度なんか、生きてるほうきまで見たっけ。ロボット掃除機も、ここじゃ一風変わってるらしい』
✧✦✧
ギルドは相変わらずだった。冒険者たちが休み、言い争い、パーティーを組んでいる。
僕はカウンターに近づいた。
「鉄級の試験ですね」オレグちゃんは用紙の束を取り出しながら言った。「言語と、冒険者の仕事への理解を確認いたします」
彼女は、最初の一枚を僕の前に置いた。
問一:ダンジョンの中に、宝箱がひとつだけぽつんと置かれているのを見つけました。あなたはどうしますか?
①すぐに剣で叩く。②宝箱のまわりの汚れ具合を確かめ、宝箱そのものの汚れ具合と比べる。③①と②の両方が正しい。
『まわりより宝箱のほうがきれいなら――ミミックの可能性が高い。でも、いきなり叩いたら、ふつうの宝箱だった場合、中身が壊れるかもしれない』
僕は③に丸をつけた。
問二:戦闘中、パーティーの一員が大量に出血しました。近くに魔力の補給源はありません。どうしますか?
①動かずに、助けを待つ。②ほかのメンバーの血を少し飲む。③近くの植物を食べる。
『植物は――合うとは限らない。消化するのに、得られるより多くの魔力を使う植物もある。ほかの知性ある者の血も、いつも効くとは限らない――拒絶反応が起きる危険があって、種族や知性の程度しだいだ。ダルグなんかは、文字どおり、共食いが血に刻まれてるくらいだし』
『それに僕は、モコの生物学をまだちゃんと勉強してない。なら、危険は冒さないほうがいい』
僕は①に印をつけた。
問三:依頼の遂行中に、けが人を見つけました。あなたはどうしますか?
①どんな状況でも、すぐに依頼を放り出してけが人を助ける。②状況に応じて手を貸す(食料、手当て、道案内、または助けのある場所への付き添い)。③関わらず、依頼を続ける。
『これは、どんな場合にも当てはまる正解があるわけじゃない。依頼がちょっとしたものなら、もちろん助けるほうが大事だ。でも、その依頼に村ひとつがかかっていたら?』
『つまり、決まりじゃなくて、状況の判断が問われてるんだ』
僕は②を選んだ。
残りの問題はもっと簡単だった――ギルドの規則、ダンジョンの基本的な危険、仕事にまつわる日常的なこと。
僕は解き終えて、用紙を提出した。
オレグちゃんはそれをめくっていき、満足そうに触角を揺らした。
✧✦✧
筆記のあとは、炉の検査だった。
杯の中に、青みがかった炎が燃え上がった。その中心に、鮮やかな紅い芯。
「変わりましたね」オレグちゃんは手帳に何か書き込みながら言った。「今のところ、成長の道はまだすべて開かれています。ですが今日の炉は、前回よりも少しだけ魔法寄りです」
「剣と魔法、両方いっぺんにやることってできる?」
「はい。そのためのクラスがございます。アドベンチャラーです。万能です――完璧ではありませんが、万能です。両方をお望みの方のための、中間のサブクラスもございますよ」
彼女の触角が、ふわりと揺れた。
「ちなみに、フェリクス王子ご自身も影身で、アドベンチャラーのクラスでした」
彼女は少し間を置いて、また何か書き込んだ。
「ただし、どちらにも魔力が必要になることは、お忘れなく」
『そういうことか。まあ、そうだよな。ここじゃ魔力は、魔法だけじゃなくて、ただ歩くのにも必要なんだから』
✧✦✧
実技試験は、ギルドの地下で行われた。
床には砂が敷かれていた。
部屋の中央に、ギョウが立っていた――木のマネキンで、片手に短い剣、もう片方の手に小さな円盾を持ち、肩当て、兜、すね当てという軽い防具をつけている。
「モさん、急がなくて構いませんが、試験を受けるのはあなたおひとりではないことをお忘れなく」とオレグちゃんが扉を閉めながら言った。「あなたのあとにも、受験される方がいらっしゃいますので」
僕はうなずいて、ギョウに近づいた。
「では、始めましょう」と彼は落ち着いて言い、一礼した。
先に仕掛けたのは僕だった。
針が彼の守りの内側へ入った――円盾がすぐにそれを迎え、ほとんど侮辱的なくらい軽々とはじき返した。
『速い』
足を狙ってみた。
ギョウは一瞬で反応し、短い蹴りで僕を壁まで吹っ飛ばした。
『足は――だめか』
僕は起き上がって、あらためて見極めた。木だ――つまり、出血は意味がない。
関節も、ほかの部分と同じくらいしっかり守っているに違いない。
手が勝手に、見えない鎖へと伸びた――前ならマントから、思っただけでひと息に飛び出した、あの鎖へ。
何も飛び出さなかった。
『そうだった。もう、残響はないんだ』
指が一瞬、空をつかんだ。
コイが持っていったのは、ただの石じゃなかった――それと一緒に、僕がもう慣れはじめていた戦い方まで持っていったのだ。
まあいい。なら、頭を使うまでだ。
僕はもう一度ギョウを見た。今の僕には、針だけじゃない。
僕は股間めがけて、鋭い突きを放った。
ギョウは反射的に円盾を上げ、見せかけの攻撃を防いだ。
マフラーが地面へ走り、砂をひとつかみすくい上げて、彼の顔に投げつけた。
ギョウは瞬時に後ろへ跳んだ。
短い間のあと、彼は片手を上げた。
「試験は終了です」
「え、これで終わり? ほら、相手を倒したりとか、しなくていいの?」
「いいえ。鉄級には、狡猾さと、相手を分析する力を見せていただければ十分です。銅級の方は、たいてい私を壊そうとするだけですから。それと、もうひとつ……」
彼は兜を脱いだ。
その下に、顔はなかった――目も口もない、なめらかな木の面があるだけだった。
「私に視覚は必要ありませんので」と、彼は同じ落ち着いた口調で言った。
僕はすぐには言葉が出なかった。
ギョウが手を差し出した。僕は、自分の新しい手でそれを握り返した。
「昇格、おめでとうございます。では、恐れ入りますが、部屋を空けていただけますか。今日はこのあとも、同じような方が大勢待っておりますので」
鉄級に、合格した。
✧✦✧
僕は新しいブローチを受け取りに、カウンターへ戻った。
オレグちゃんが差し出したのは、鉄でできた小さな六面のサイコロだった。中には、前と同じように白い水晶が埋め込まれている。
『D6か。……ランクが上がるたびに、面が増えていくのか?』
ついでに、ギルドペイで僕とルッカの分の食事セットを注文した。それから手紙のことを思い出して、かばんから取り出した。
「コイに」と僕は言った。「王都まで」
オレグちゃんは黙って封筒を受け取った。
「ちょうど今夜、配達人がヴェルを通ります。お預けしておきますね」
彼女は手紙を脇に置いた。
僕がルッカと一緒にテーブルにつくと、ちょうどそのとき、カヴェンが広間に入ってきた。
「兄弟!」彼はもう、まっすぐ僕のテーブルへ向かってきていた。「邪魔していいか?」
「どうぞ」
彼は向かいに腰を下ろし、盾を壁に立てかけた。
「なあ、話があるんだ。一族から手紙が来てな。うちの師匠が、今ちょうど弟子がいなくて、教える相手がいないんだと。お前を引き受けられるかもしれねえ。それがひとつ目の道だ」
「何を教わるの?」
「剣術だ。上っ面じゃなく、本物のな」
彼は一瞬背筋を伸ばし、声が急に、いつもよりずっと朗々と響いた。
「弟子のいない剣の師匠なんざ、火のない篝火みてえなもんだ、兄弟! 炎はまだ胸の奥で生きてる。ただ、燃やすもんがねえだけだ!」
そこで彼は、自分の芝居がかった調子に照れたように、ふっと口をつぐみ、いつもの口調に戻って続けた。
「まあ、つまり――その気があるなら、道は開いてる」
「さっき言ってた、二つ目の道は?」
「ああ、そうだった。キーを通してだ。あいつ、魔法アカデミーに伝手があってな。入学の割引を取りつけてくれるかもしれねえ」
「伝手?」
カヴェンは急に、自分の籠手をやけに熱心に眺めはじめた。
「……まあ、その、顔が広いんだよ。教授陣の半分と……個人的に、な」
「あ……」
「ケルドじゃ、そういうのはしきたりに反するんだ」彼は慌てて付け加えた。まるで自分のことじゃなく、自分の民族全体の弁明をしているみたいに。「うちじゃ、まず結婚、ほかのことはそれからだ。でもキーはキーだ。俺は責めねえ――あいつは友達だからな。ただ……口に出すと、どうにも気まずいんだよ、兄弟」
僕はパンの残りを食べながら、二つの道について考えた。
「ギルドペイが終わってから、返事する。今はまだ、ヴェルを離れたくないんだ」
「賢明だな」カヴェンは少しも気を悪くせずにうなずいた。「急ぐことはねえ」
彼はルッカをなでようと手を伸ばした。
ルッカはさっと身を引き、全身で「許さない」と示した。
カヴェンは肩をすくめただけで立ち上がり、別れの挨拶をして去っていった。
窓の外は、暗くなりはじめていた。僕とルッカも、家へ向かった。
✧✦✧
家で、僕はひと晩じゅう本を読んでいた。
時間はゆっくりと、心地よく流れていった――ペチカの火がぱちぱちと鳴り、ルッカはそばでうとうとしていた。
ナエが帰ってきたのは、真夜中を過ぎてからだった――泥だらけで、くたびれていて、まるでのんびり薬草を摘んでいたんじゃなく、もっとずっと落ち着かない一日を過ごしてきたみたいだった。
ブーツのつま先に、小さな染みが黒ずんでいた。
『ベリー? それとも、けがでもしたのか?』
「大丈夫?」と僕は聞いた。
「ああ。濡れた草で滑っちまってな」ナエは手をひらひらさせた。「顔から泥に突っ込んだ。情けねえ」
僕は、その説明を受け入れた。
僕たちは三人で夕食の席についた――僕と、ナエと、ルッカ。話は少しずつ、今日の出来事に移っていった。
「そういえば」と僕は言った。「ヴェルのあと、行き先の候補が二つできたんだ。魔法アカデミーか、カヴェンの一族の師匠のところで剣術の修行か」
ナエはマグを置いて、一瞬考え込んだ。
「ケルドから始めろ」
「どうして?」
「アカデミーは逃げやしねえ。でも剣術は、損にはならねえ――たとえ最後に魔法使いになるって決めてもな。いつか間合いを詰められたとき、杖を振るだけの手じゃ、困ることになるぞ」
僕は少し考えて、うなずいた。
「わかった。まずは、ケルドのところへ」
窓の外で、秋の葉が静かにさらさらと鳴っていた。ルッカが伸びをして、ペチカのそばに寝そべった。
僕たちは三人で、ひとつのテーブルを囲んでいた――いつもの夜、いつもの夕食、特別なことは何もない。
第17.5話 紙切れ
ヴェル。王国に冒険者という生き方が生まれたばかりのころに築かれた、立派な村だ。
ここには、歴史に名を残そうと、あちこちから新人たちが集まってくる。
ヴェルの冒険者で、プラチナ級までのぼりつめた者はまだひとりもいない。つまり、一番乗りの座はまだ空いているということだ。
この村のギルドは、どんな姿のお客様も大切にする。
たとえそのお客様に、装備と返していない借金しか残っていなくても。
そしてこれは、ヴェル最大のお祭りの準備に追われた、ある一日の小さなお話である。
✧✦✧
ギルドの建物は、ある日勝手に育ちはじめて、そのまま止まれなくなった家のようだった。
雨で黒ずんだ赤レンガが、一階の上に一階を積み重ねている。
脇には建て増しがへばりつき、建て増しにはバルコニーがくっついている。
バルコニーには、どこへ続くのかわからない小さなはしごがしがみついていた。
屋根からは高さのばらばらな煙突が突き出ていて、いちばん曲がった一本は桃色の煙を吐いていた。
中は、インクと封蝋と、削りたての木くずのにおいがした。
広間はばたばたしていた。ボランティアの冒険者たちが旗の入った箱を運び、誰かは紙提灯の飾りのもつれをほどいている。
依頼掲示板の前では、二人の冒険者が言い争っていた。のりのバケツを持って天井まで登るのは、どっちの番か。
トン。トン。
ギョウは壁ぎわに立って、釘を打っていた。
木のマネキンで、すり切れた鉄の肩当てと籠手をつけ、腰には鞘に収めた剣をさげている。
顔はなかった。あるのは、長い年月で磨かれた、なめらかな頭だけだ。
金槌を振るうたびに、体の中で木の音がかすかに響いた。
「お祭り?」
ギョウはそう聞いて、もう一度釘の頭をたたいた。
「そう。DM様が、ギョウとわたしでお祭りの準備の進み具合を見てきてって」
隣に立っていたのは、オレグちゃんだった。
ベージュの毛がふわふわで、まんまるの黒い目の上には、羽根のような茶色い触角が二本。
チョッキのボタンは全部きっちり留められ、革の鞄をさげたベルトは、ちょうど真ん中でまっすぐに締められている。
背中でたたまれた翅は、ぴくりとも動かなかった。
話し方は静かで、平坦だった。まるで、何かの一覧を読み上げているように。
ギョウは金槌を置いて、釘に木の札をかけた。
ボランティアの誰かが描いた、お祭りの宣伝だった。派手で、少しゆがんでいて、感嘆符が三つもついている。
「で、リストには何が載ってるんだ、もふもふ枕?」
オレグちゃんの触角が、ぴくっと揺れた。
彼女はあたりを見回した。ボランティアたちは飾りと格闘していて、誰も聞いていなかった。
「お願い、人前ではやめて」
声は、さっきと同じく平坦だった。
「あれは、一回きりのことだから」
✦ 一昨日 ✦
夜遅く、ギョウはギルドの二階へ上がっていった。
階段は一段ごとにきしむ。腰では、小さな巾着がちゃらちゃらと鳴っていた。
『ボス、どうやったらサイコロをこんなにばらまけるんだ?』
『ひとつはインク壺から、ひとつは植木鉢から、ひとつはボランティアのスープの鍋からすくい出したぞ』
『このギルドに、今日まで俺も知らなかったすみっこがあったとはな。これでも十三年以上、ここで働いてるんだが』
踊り場で立ち止まり、顔を上げる。
天井からは、鎖で植木鉢がいくつも吊るされていた。
植わっているのは、毛皮みたいにふわふわした、小さなベージュの毛玉だ。どれからも、茶色い羽根が三本ずつ突き出ている。
『オレグに似てるな』
首の関節が、小さくカチッと鳴った。
ギョウはもう少しだけそこにとどまった。ふと、故郷の村のことが頭に浮かぶ。
『出会ったころのことは、よく覚えてる。俺はライター師匠に武術を習ってて、一日じゅう木刀を振り回してた』
『あいつは縁側に座って、紙切れに埋もれてた。受け取りに、勘定書きに、よくわからない一覧』
『それを山ごとに分けて、一枚でも風に飛ばされると怒ってたっけ』
「ばか。これは、ただの紙切れじゃないの。見てなさい、そのうち剣一本だって、書類がなきゃ買えなくなるんだから」
あのころ、彼女はそう言っていた。小さくて、真面目で、前足に羽根ペンを握り、毛にインクの染みをつけて。
『はあ。結局、あいつの言うとおりになったな』
『フェリクス王子の改革のあとじゃ、農民だって書類が要る。職人の息子で終わりたくないならな』
ギョウは廊下の突き当たりまで来て、DMの部屋の扉の前に立った。
扉には、盾の形の札がかかっていた。
【ギルドマスター室 幸運判定なしの入室を禁ず】
『この時間なら、ボスはたいてい起きてる。それに夜のギルドには、俺たち三人のほかに誰もいない』
『いつもどおり、ノックなしで開けるか』
「お邪魔します」
昔からの癖で小さくつぶやき、ギョウは扉を押した。
そして、固まった。
DMの部屋は、竜の巣に似ていた。ただし積まれているのは、黄金ではなくゲームだ。
棚にはボードゲームの箱や、丸めたダンジョンの地図が、今にもあふれそうに詰まっている。
細かい字でびっしり書き込まれたキャラクターシートもある。
机の上には、土人形の軍勢が並んでいた。騎士に、ダルグに、それから、とっくに片方の翼が欠けたドラゴンが一匹。
ランプには手袋がひとつ引っかかっていた。なぜそこにあるのか、もう誰も覚えていない。
そして、ソファにはオレグちゃんが寝そべっていた。
仰向けになった彼女のふわふわの胸の上に、大きな紫のd20が乗っている。数字は金色だ。
オレグちゃんは四本の手で、ゆっくりとその面をなでていた。
部屋には、静かなごろごろという音が満ちていた。
ギョウには、それがサイコロの音なのか、オレグちゃん自身の音なのか、わからなかった。
「私のもふもふ枕……」
サイコロが、喉を鳴らすように言った。
「……オレグ? ボス?」
オレグちゃんがびくっとして、「ひゃっ」と小さな声をもらした。触角がぴんと立つ。
「ああ、お天道様! ギョウ、入るときはノックしろって言っただろう!!!」
「1」の面で目がかっと開き、ギョウをにらみつけた。
「おいおい、夜な夜なここで何してるか、俺が知らないとでも?」
ギョウは扉の枠に肩をもたせかけた。
「付き合ってもう二年だろ。なのに、キスしてるところを見つかった中学生みたいにびくびくして」
彼は面倒くさそうに巾着を放り投げた。
巾着は弧を描いて、サイコロの隣のソファにぽすんと落ちた。中でサイコロがじゃらりと鳴る。
「ギョウくん、きみねえ! ノックもなしに入るなんて、まったく失礼だぞ!」
「上司として、私は処分を下さざるをえない! 減給一パーセント、DMの裁定は絶対だ!」
部屋が動きだした。
机の下からは、つま先のとがった靴をはいた足が飛び出した。棚からはシルクハットがひらりと舞い上がる。
ソファの背もたれの陰からは、青いチョッキを着た胴と、袖の広い両腕が浮かび上がった。
部品たちは部屋の中をくるくると飛び回り、それぞれの場所に収まっていく。
オレグちゃんは起き上がり、胸の毛をあわてて撫でつけると、窓のほうを向いた。
白い手袋の手が、ギョウのそばを飛んでいった。ギョウはそれを、二本の指でひょいと捕まえた。
「本気か? じゃあ、冒険者の実技試験はボスが自分でやるんだな」
肩の関節が、皮肉っぽくギィときしんだ。
『ヴェルでランクを上げるには、オレグの筆記に受かるだけじゃ足りない。俺との手合わせで、立っていられなきゃならない』
『俺は数えきれないくらい壊されてきた。木が安物で助かったよ。新しい腕なら、二、三日で削り出せる』
『だが、ボスは……ボスは、戦う魔法使いじゃない』
「それと、ボスの試験は俺がいちばん乗りで受けるからな。ははっ」
ほとんど組み上がったDMが、ソファに腰を下ろした。
彼は、何か言い返そうとするように指を一本立てた。下ろした。
両手を広げ、それから指先を合わせて三角を作り、宙に何かの円を描く。
サイコロの目が、答えを探して面から面へとせわしなく動き回った。
ギョウは黙って、捕まえた手をぶらぶらと揺らしてみせた。
DMの肩が落ち、続いて腕も落ちた。
「ぐぬぬ……わかった! 言いたいことはわかった! 説得ロール、成功だ! だから私の手を返してくれ!」
「次からは、おもちゃをなくすなよ」
ギョウが指を離すと、手はするりと持ち主のもとへ戻っていった。そしてカチッと小さな音を立てて、袖の中に収まった。
ギョウは東のならわしどおり軽く一礼して、扉を閉めた。
「ごゆっくり」
✦ 現在 ✦
オレグちゃんの顔の毛が、ほんのり桃色に染まった。
彼女はボランティアたちのほうを見ていた。ボランティアを見る理由なんて、まったくなかったのに。
ギョウはため息をついた。胸の中で、何かが木らしくきしむ。
彼はオレグちゃんの頭の上、触角と触角のあいだに手のひらをのせて、ふわふわの毛をくしゃくしゃとなでた。
触角がぴくりと揺れる。
「心配すんな。仕事と私事くらい、ちゃんと分けられる」
オレグちゃんが顔を上げた。
ギョウは彼女より頭ひとつ半ぶん背が高い。
だから彼女はいつも、子どものころと同じように、彼を下から見上げなければならなかった。
「おまえは昔から、そっけなくて真面目だったけどさ。甘えるのは、ちっちゃいころから好きだっただろ」
「覚えてるか? 勘定書きの上で、俺の肩にもたれて寝ちまったの」
「あのあと半日、肩当てにインクの染みをつけたまま歩き回ったんだぞ」
オレグちゃんは、もともとまっすぐなチョッキを直した。
「DM様からの仕事があるの……」
しぶしぶと、いつもより少しだけ小さな声だった。
「わかってる。紙切れ、紙切れ、また紙切れだ」
ギョウは彼女の肩から、お祭りの書類が入った革の鞄を取って、自分の背中にかけた。
中で、露店の許可証や参加者の名簿がかさかさと鳴った。オレグちゃんが三晩続けて作った見積書も入っている。
出口へ向かう途中、彼は飾りを持ったボランティアにうなずいた。
ギルドにパイを持ってきたケルドのおばあさんには、軽く頭を下げた。
オレグちゃんはその場から動かなかった。ギョウの背中を、じっと見送っている。
それから、チョッキのポケットから、小さな厚手のカードを取り出した。
ふちはすり切れ、色はあせていた。魔法で撮った写真は、いつもこんなふうに色があせていく。
何年も前に、ライター師匠の知り合いが指をパチンと鳴らした。
それ以来、カードの中には彼女の古い家の縁側がずっと閉じ込められている。
縁側には、自分の背丈よりも高い紙の束を抱えた、小さなオレグちゃんが座っていた。
その隣には、木刀を肩にかついだギョウが立っている。今と同じマネキンだが、木にはまだ傷ひとつない。
「ばか。これは、ただの紙切れじゃないの」
オレグちゃんは、小さくつぶやいた。
「おーい、来ないのか!?」
ギョウが、もう扉のところから呼んだ。
「行く」
オレグちゃんはカードをていねいにポケットに戻し、ボタンを留めて、彼のあとを追った。




